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白殺し

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 三日目の朝、小伝馬町の牢屋敷の玄関前、榎の大樹の下で待っていたのは山田浅右衛門だった。
 やがて玄関から出て来た久馬が肩を揺らして深々と息を吐いた。
「だめだ、てんでらちが明かねぇ。秀の奴、代奴を殺したのは自分だと言って聞かねぇや」
 牢屋敷の方を振り返りながら、
「ったく、人を殺めた人間が皆、秀みたいならいいのによ、話が早くってさ。俺の経験では人殺しは大概、『自分はやってない』と言うってのに」
 姿を消した玄の居場所はようとして掴めない。それならと今日は獄舎に繋がれている秀から真実を聞き出そうと試みた久馬だった。
「まさか、久さん、責め立てたわけじゃないだろう?」
 久馬は笑った。
「よせよ、浅さん、いくら俺だって『さあ、吐け! 殺ったのはおまえではないな?』と石を抱かせたりはしないさ」
 その逆――『吐け、殺したのはおまえだな』と拷問すること――を同心や牢役人はやる。
「あくまでも俺は静かに問い質しただけさ」

     卍

 牢屋敷内には穿鑿せんさく所と呼ばれる部屋がある。こここそ公式に拷問を執り行う場所である。顔見知りの牢屋同心に頼んで特別に連れて来てもらった秀に久馬は率直に訊いた。
 ―― なあ、秀、俺はおまえを助けたいのだ。だから正直に教えてくれ。二十六夜待ちの日に代奴を殺したのはおまえではないのだろう?
 秀の顔は能面のよう、表情らしきものが無い。唯一点を見つめて答える。
 ―― 私が殺しました。
 ―― それにしちゃあおまえの振る舞いは奇妙だ。では、訊くがよ、何故、最初、現場から逃げたんだ?
 ―― 自分のやったことが怖くなって逃げました。
 ―― ならば、板場に逃げ込んですぐ潔く捕まったのはどうしてだい?
 ―― 仕事場に立って我に返ったんです。あそこはいつも働いてる場所なので落ち着いて考えることができました。これ以上逃げられっこないし、一緒に働いて来た仲間にも迷惑がかかる。だから、馬鹿な真似はやめてお縄になろうと観念しました。
 久馬は訊き方を変えた。
 ―― おまえ、夫婦になる約束をした紺屋亀七のお嬢さんに会いに戻ったんじゃねぇのか?
 ―― ……
 ―― 秀、おまえはあの時、あいに言ったろ? 大丈夫ですと。あれはどういう意味だ?
 ここで初めて秀は体を動かした。
 ―― 言いましたっけ?
 ―― 言ったよ。
 ―― 憶えていません。
 ―― 俺は憶えてるぜ。
 秀は口を閉ざした。暫く床を見つめていたが目を上げて、言った。
 ―― それはきっと、こう言うつもりで口にしたのだと思います。俺は人殺しで死罪になるが、平気だから、大丈夫・・・、心配するな、と。俺のことなど忘れて、幸せに生きて行ってほしい。そういう思いを込めたんです。

     卍

「まぁ、その言い分は一応筋が通っているな」
 浅右衛門が静かに頷いた。
「浅さんもそう思うか? 確かにそう言われれば、そうなんだよな。あ~あ、てことは俺が勘違いしただけか?」
 久馬は首を振った。
「いや、違う。秀は何かを隠している。実際、玄は行方をくらましたし――やはり、何としても玄を見つけ出すほかないな。いいさ、俺はとことんやってやる」
 決意も新たに久馬が固くこぶしを握った、ちょうどその時、こちらへ歩いて来る人影があった。
 黒紋付きの羽織は同じだが豪奢な仙台平の袴をはいているところが同心とは違う。更に、腰ではなく刀の横に朱房の十手を差していると来れば――
「あ、添島様?」
「おう、黒沼、好い処で会った。ちょっと言っておきたいことがある」
 久馬の上役、与力の添島だった。
「いや、山田殿、そのまま、そのまま」
 添島は、会釈してその場を離れようとする浅右衛門を手で制した。
「すぐ済みます。これは内輪の立ち話なれば」
 目を配下の定廻りに向ける。
「なあ、黒沼、もうこの辺でいいんじゃねぇか? 『自分が殺した』と認めた輩を捕縛したんだからさ」
 与力も江戸育ち。普段の会話は伝法な物言いである。
「おまえが何に引っかかって動き回っているのか知らないが、流石にこれ以上は、確かな手証でもない限り無理だぞ。この件は諦めろ」
 何か言おうとした久馬より先に添島は言った。
「これまでおまえはたくさんの騒動で見事な働きをしてくれた。私としても鼻が高い。だがな、町奉行ってぇ務めは諦めも肝心なのさ。私だって」
 若白髪の小鬢をちょっと掻く。
「限りなく黒に近い悪党どもを幾人も決め手がなくて目溢めこぼしして来た。はらわた煮えくり返って眠れない夜が何度あったことか」
「添島様……」
「そういうことだ、ではな」
 配下の定廻りに一つ頷き、友の御様御用人には黙礼して、与力は去って行った。
 久馬は浅右衛門の顔を振り仰ぐ。
「俺は呑み込みが悪いから訊くがよ、ありゃあもうこの件から手を引けってことだな、浅さん?」
「のようだな」
「クソッ、添島様に釘を刺されちまった……」
 久馬は落胆を隠さない。叱られた子供のように肩を落として地面を見つめている。
「俺が手を引いたら、秀は打ち首だ。嫌なんだよ、そういうのがさ」
 視線を戻して浅右衛門をじっと見た。
「そうさ、俺は、完全に澄み切った白でないと我慢できねぇ。だから、毎回、何度も浅さんを引きづり混んでわずらわせて来たわけだが――わかってるさ、大人になれ、だろ? こういうの『尻が青い』ってんだよな」
 浅右衛門は微苦笑した。
「うむ、『くちばしが黄色い』とも言うな」
 懐手をして天を仰ぐ。今日もお江戸は快晴。真っ青な夏空が広がっている。榎の枝を揺らして風が吹き過ぎた。
「まぁ尻や嘴の色はともかく――」
 首打ち人は言った。
「古来中国ではな、久さん、人の一生を四季に例え、その四季をまた色に例えている」
「へえ?」
「人生の季節を色でいうなら、その最初の季節〝春〟は青だとさ。青い久さんはまだまだこれからってことさね」
「春の次、人生の〝夏〟は何色なんだ?」
「朱色」
「なんだよ、春より落ち着くかと思いきや、もっと燃え盛らなきゃならねえのか? こりゃ身が持たねぇな」
 慰めようと持ち出した話に大真面目に返す久馬が可笑しくてまた笑う浅右衛門。と、ふいに思い出した。
「朱と言えば――愛染明王も朱色に塗られていたな。どうだ、久さん、いい機会だから、今回皆がこれほど口にしている愛染明王を拝みに行ってみるかい? この騒動のシメとしてその価値はあるってもんだ」
「乗った!」
 元気回復、満面の笑顔で久馬は応じる。
「上役に叱られてシオシオ幕を閉じる、なんて我慢ならねぇや。何より、そんな俺たちは絵にならねぇ。ここは二人旅と洒落ようぜ、浅さん」

 天保のこの頃、江戸で愛染明王を本尊にしている一番有名な寺と言えば、日曜寺、正式名称は真言宗霊雲寺派・光明山愛染院である。元々は小さな堂だったが享保年間(1716~1736)八代将軍吉宗の次男・田安宗武が帰依し伽藍を整え等身大の愛染明王像を奉納して以降、花魁や芸妓は元より染色業者の信仰を集めて大いに隆盛した。紺屋亀七の神棚に祀られていたお札もそこからもらって来たものだ。その日曜寺は板橋にあった。板橋は中山道の最初の宿場町だ。日本橋から距離にして凡そ二里二十五町三十三間(約10,642km)。当時の人なら四時間~五時間で歩いたそうで、江戸を起つ人の見送りにこの板橋宿まで連れ添うことも多かった。旅というほどのものではない。
 久馬と浅右衛門はすぐに出発した。
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