35 / 41
:去夏〈3〉
しおりを挟む
市電に乗ると僕は自分の画材屋に帰って来た。
ひどく疲れていた。鍵を開け、ドアに掛けた〈close〉の札はそのままにして中に入る。
ほとんど間を開けず、ドアが開いた。
「すみません、今日はちょっと事情があって、店はお休みしています」
「私はお客じゃありません」
入って来た人、それは僕の相棒、頼もしきJK、城下来海サンだった――
真直ぐに歩いて来て僕の前で足を止めると来海サンは言った。
「私に、あなたの今日の行動の一部始終を話してくれるわよね、新さん?」
「君、今はまだ学校にいる時間だろ?」
僕の愚問に来海サンは人差し指を振った。
「甘いわ、新さん。私は探偵助手、あるいは、あなたの相棒よ。騙せると思った?」
そうだった! 彼女は僕の最高の相棒で立ち位置はワトスンやヘイスティングよりタペンスに近い。優秀で有能な彼女に隠し事なんて出来っこなかったのだ。
「あなたの昨日の様子がおかしかったから、私、今日は朝から見張っていたの。これは」
と言って、衣替えを終えたばかり、夏服の白地にピンクのラインの入ったセーラー襟を引っ張る。
「兄貴の目をくらませるカモフラージュよ。兄貴に、私が学校をさぼったと悟らせないためのね」
「ああ、なるほど」
「私、あなたが正午過ぎに店を出た時から後をつけていたの」
「ということは――」
「市電に乗って紙屋町東で降りて、歩くこと3分、個展会場という路地裏の古びたビルに入るのも、そこを飛び出して来たと思ったら、今度は謎の大男に呼び止められたのも目撃したわ。その人物が黒い手帳を掲示したのもね」
「あれが有名な警察手帳だよ」
僕はもらった名刺を差し出した。
〈 神奈川県 横浜警察署
刑事第1課 強行犯係 刑事 有島六郎 〉
来海サンはピュッと口笛を吹いた。
「わーお、これって本物? お遊びじゃないのね?」
「そうさ、お遊びじゃない。いつものような」
名刺を僕に返すとまっすぐに僕を見つめて来海サンは言った。
「新さん、刑事に語ったことも、語らなかったことも、全て私に話してくれる?」
語った部分と語らなかった部分……
言ったろう? 彼女は鋭い。
さあ、今度こそ、僕は腹を括らなければならない。だって、全てを話すこと、それは僕自身にとって決して容易なことではない。全然楽しい話じゃないし――本当なら一生涯、語るつもりはなかったのに。
取り敢えず、来海サンはゴーギャンの椅子、僕自身はゴッホの椅子に腰を下ろす。
クソッ、こんな椅子、作らなければ良かった。凄く象徴的で暗示的じゃないか!
ここに腰掛けた二人の画家は短くも濃密な時間を共に過ごし、そして、決裂した。お互いを(または片一方を)知りすぎたせいだ。
「どこから始めよう。僕と浅井透は美大の同級生だった」
そう言って僕は話し始めた――
「大学生とは不思議な生き物で、どんなに仲が良くてもお互いの実家や家族の話はあまりしないものだ。僕も、浅井が神奈川県の出身だということぐらいしか知らなかった。浅井は才能のある、面白くてユニークな奴だった。まぁ美大生は皆そうだけどね。
浅井は植物画を得意とし、もっと言えば、植物画しか描かなかった。
個性派ぞろいの同級生の中で一番仲が良かった。1年生の頃は夏休みや冬休み、長い休暇にはたびたび一緒にスケッチ旅行をしたっけ。バックパックを背に安宿に泊まって……」
いざ話し出すと思い出が鮮明に蘇る。
「鎌倉の古刹で偶然見つけた仏像には心を奪われたな! 有名な東慶寺の水月観音像と瓜二つなんだ。日本海の佐渡島にある清水寺はその名の通り京都の本家清水寺の精密なミニチュア版で、その堂々たる懸造りの〈舞台〉には息を飲んだよ。透の方は島のブナ林に現存する白根葵に目を奪われていたが。その花はかつて世界中で咲いていたのに絶滅して現在は日本の数カ所でしか見ることができないんだってさ。
島根の美保関にある灯台も凄く印象に残ってる。高い岬の先端にあるので灯台自体はさほど背が高くないけど白亜のそれは夢のように瀟洒で、遥かに見晴るかす蒼穹の天、藍色にさざめく海、岬を覆う緑……全てが煌めいている。その光景に魅せられて、僕も透も夕焼けが空を染め、やがて満点の星々がヒソヒソ囁き出すまでその場を動けなかった。でも大丈夫。灯台へ続く岬の入り口には清潔なトイレが設置されているし、崖下へと続く径があって、そこからいくつもの小さな入り江へ降りられる。その中の一つ、漣が打ち寄せる船小屋に僕らはこっそり潜りこんで野宿させてもらった」
夢中で話し過ぎた。おしゃべりが過ぎたことに気づいて咳払いをする。もっと気をつけて要約しなければ。
「3年生の時に学年の課題として油絵科の全生徒が新人向けのメジャーな絵画賞に応募した。結果は、その中で一人だけ賞を取った。浅井が突然大学を去ったのはその後だ。昨日、個展の案内状をもらうまで僕はあいつの消息を全く知らなかった」
「だから、あのハガキを見てあんなに驚いていたのね?」
「うん、そう」
「個展会場を出て来た新さんをどうして警察が呼び止めたの?」
「報道されていないが、二か月前から失踪届けが出ている女子中学生と一緒にいるのを目撃されたとかで、刑事が言うには、浅井は未成年者誘拐の容疑者になっているそうだ」
「新さんが3年生の時、応募した絵を見せてくれる? 今もまだ持っているんでしょ?」
そう来たか! やっぱり来海サンに核心部分を隠し通すことは不可能なのだ。
かなりの時間、僕は黙っていた。長い沈黙の後で――とうとう僕はうなずいた。
「いいよ、ついて来て」
ひどく疲れていた。鍵を開け、ドアに掛けた〈close〉の札はそのままにして中に入る。
ほとんど間を開けず、ドアが開いた。
「すみません、今日はちょっと事情があって、店はお休みしています」
「私はお客じゃありません」
入って来た人、それは僕の相棒、頼もしきJK、城下来海サンだった――
真直ぐに歩いて来て僕の前で足を止めると来海サンは言った。
「私に、あなたの今日の行動の一部始終を話してくれるわよね、新さん?」
「君、今はまだ学校にいる時間だろ?」
僕の愚問に来海サンは人差し指を振った。
「甘いわ、新さん。私は探偵助手、あるいは、あなたの相棒よ。騙せると思った?」
そうだった! 彼女は僕の最高の相棒で立ち位置はワトスンやヘイスティングよりタペンスに近い。優秀で有能な彼女に隠し事なんて出来っこなかったのだ。
「あなたの昨日の様子がおかしかったから、私、今日は朝から見張っていたの。これは」
と言って、衣替えを終えたばかり、夏服の白地にピンクのラインの入ったセーラー襟を引っ張る。
「兄貴の目をくらませるカモフラージュよ。兄貴に、私が学校をさぼったと悟らせないためのね」
「ああ、なるほど」
「私、あなたが正午過ぎに店を出た時から後をつけていたの」
「ということは――」
「市電に乗って紙屋町東で降りて、歩くこと3分、個展会場という路地裏の古びたビルに入るのも、そこを飛び出して来たと思ったら、今度は謎の大男に呼び止められたのも目撃したわ。その人物が黒い手帳を掲示したのもね」
「あれが有名な警察手帳だよ」
僕はもらった名刺を差し出した。
〈 神奈川県 横浜警察署
刑事第1課 強行犯係 刑事 有島六郎 〉
来海サンはピュッと口笛を吹いた。
「わーお、これって本物? お遊びじゃないのね?」
「そうさ、お遊びじゃない。いつものような」
名刺を僕に返すとまっすぐに僕を見つめて来海サンは言った。
「新さん、刑事に語ったことも、語らなかったことも、全て私に話してくれる?」
語った部分と語らなかった部分……
言ったろう? 彼女は鋭い。
さあ、今度こそ、僕は腹を括らなければならない。だって、全てを話すこと、それは僕自身にとって決して容易なことではない。全然楽しい話じゃないし――本当なら一生涯、語るつもりはなかったのに。
取り敢えず、来海サンはゴーギャンの椅子、僕自身はゴッホの椅子に腰を下ろす。
クソッ、こんな椅子、作らなければ良かった。凄く象徴的で暗示的じゃないか!
ここに腰掛けた二人の画家は短くも濃密な時間を共に過ごし、そして、決裂した。お互いを(または片一方を)知りすぎたせいだ。
「どこから始めよう。僕と浅井透は美大の同級生だった」
そう言って僕は話し始めた――
「大学生とは不思議な生き物で、どんなに仲が良くてもお互いの実家や家族の話はあまりしないものだ。僕も、浅井が神奈川県の出身だということぐらいしか知らなかった。浅井は才能のある、面白くてユニークな奴だった。まぁ美大生は皆そうだけどね。
浅井は植物画を得意とし、もっと言えば、植物画しか描かなかった。
個性派ぞろいの同級生の中で一番仲が良かった。1年生の頃は夏休みや冬休み、長い休暇にはたびたび一緒にスケッチ旅行をしたっけ。バックパックを背に安宿に泊まって……」
いざ話し出すと思い出が鮮明に蘇る。
「鎌倉の古刹で偶然見つけた仏像には心を奪われたな! 有名な東慶寺の水月観音像と瓜二つなんだ。日本海の佐渡島にある清水寺はその名の通り京都の本家清水寺の精密なミニチュア版で、その堂々たる懸造りの〈舞台〉には息を飲んだよ。透の方は島のブナ林に現存する白根葵に目を奪われていたが。その花はかつて世界中で咲いていたのに絶滅して現在は日本の数カ所でしか見ることができないんだってさ。
島根の美保関にある灯台も凄く印象に残ってる。高い岬の先端にあるので灯台自体はさほど背が高くないけど白亜のそれは夢のように瀟洒で、遥かに見晴るかす蒼穹の天、藍色にさざめく海、岬を覆う緑……全てが煌めいている。その光景に魅せられて、僕も透も夕焼けが空を染め、やがて満点の星々がヒソヒソ囁き出すまでその場を動けなかった。でも大丈夫。灯台へ続く岬の入り口には清潔なトイレが設置されているし、崖下へと続く径があって、そこからいくつもの小さな入り江へ降りられる。その中の一つ、漣が打ち寄せる船小屋に僕らはこっそり潜りこんで野宿させてもらった」
夢中で話し過ぎた。おしゃべりが過ぎたことに気づいて咳払いをする。もっと気をつけて要約しなければ。
「3年生の時に学年の課題として油絵科の全生徒が新人向けのメジャーな絵画賞に応募した。結果は、その中で一人だけ賞を取った。浅井が突然大学を去ったのはその後だ。昨日、個展の案内状をもらうまで僕はあいつの消息を全く知らなかった」
「だから、あのハガキを見てあんなに驚いていたのね?」
「うん、そう」
「個展会場を出て来た新さんをどうして警察が呼び止めたの?」
「報道されていないが、二か月前から失踪届けが出ている女子中学生と一緒にいるのを目撃されたとかで、刑事が言うには、浅井は未成年者誘拐の容疑者になっているそうだ」
「新さんが3年生の時、応募した絵を見せてくれる? 今もまだ持っているんでしょ?」
そう来たか! やっぱり来海サンに核心部分を隠し通すことは不可能なのだ。
かなりの時間、僕は黙っていた。長い沈黙の後で――とうとう僕はうなずいた。
「いいよ、ついて来て」
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
思い出を売った女
志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。
それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。
浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。
浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。
全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。
ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。
あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。
R15は保険です
他サイトでも公開しています
表紙は写真ACより引用しました
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
みいちゃんといっしょ。
新道 梨果子
ライト文芸
お父さんとお母さんが離婚して半年。
お父さんが新しい恋人を家に連れて帰ってきた。
みいちゃんと呼んでね、というその派手な女の人は、あからさまにホステスだった。
そうして私、沙希と、みいちゃんとの生活が始まった。
――ねえ、お父さんがいなくなっても、みいちゃんと私は家族なの?
※ 「小説家になろう」(検索除外中)、「ノベマ!」にも掲載しています。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。
しかし、仲が良かったのも今は昔。
レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。
いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。
それでも、フィーは信じていた。
レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。
しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。
そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。
国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。
夫を愛することはやめました。
杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる