483 / 498
第五章「盲愛の寺」
96
しおりを挟む
躑躅ヶ崎を立って、笛吹川を渡って右左口へ、右左口から女坂をあがって本栖へ、本栖から浅間神社へと入ったが、道中、川には立派な橋がかけてあり、道も草木を刈り開き、要所要所に休憩所が設けられ、酒や肴が用意され、陣屋も立派なものが建てられ、二重三重にも柵や堀で囲まれ、お供のものにも大層なごちそうが振舞われていた。
聞けば、家康の指示であるらしい。
「いやいや、儂のために斯くも素晴らしき仕度をしてもらい、羽林(家康)殿には感謝してもしきれぬな」
と、殿は酷く上機嫌だったが、裏では十兵衛と、
「この儂を化かそうと、必死のようじゃな?」
「これほどの気の使いよう、梅雪斎の一件でまずいと思ったのでしょうな。しかし、これは………………」
十兵衛は、浅間神社の境内に建てられた宿舎を見回し、幾分呆れたような顔である。
殿が一泊するだけの仮宿である ―― 柱から壁、天井に至るまで金銀が散りばめられている。
殿の好みといえばそうだが、聊かやりすぎなような気もするが………………
「三河と遠江で……、どのぐらいじゃ?」
「きちんとした検地をしたわけではございませぬので、詳しい貫高は分りませぬが……、みたところ、三河でおおよそ十五万、遠江で十万、あわせて二十五万貫ほどかと」
「すべてが狸の懐に入るわけであるまい?」
「徳川殿が、百姓から年貢としてどれだけ取っているかは分かりませぬが、半分を治めても十二、三……、まあ、十五万貫ぐらいでしょうか」
「戦をして、なおかつこの羽振り……、狸はよほど銭を貯めこんでおるようじゃのう?」
「かなりの吝嗇と聞き及びまする。家臣への褒美も、出し渋るほどとか」
「それでよく、家臣らはついてくるものじゃ?」
「三河武士のなせるところでござりましょうか?」
「面倒臭い連中じゃな」
殿が苦笑したところに、この仮宿の饗応役が挨拶にやってきた。
「如何でございましょうか、此度の宿は?」
饗応役は、恐る恐る訊ねる。
殿は、満面の笑みで、
「うむ、満足じゃ!」
「それは宜しゅうござりました」
と、ほっと胸を撫でおろす。
「羽林殿には、斯様な宿だけでなく、馳走も頂き、感謝するとお伝えくだされ。これほどのことをしてもらって、礼としては足りぬと思うが……」
殿は、吉光作の脇差と一文字作の長刀、黒駮の馬を家康に進呈した。
「ありがたき幸せ、我が主も感涙いたしましょう」
「羽林殿には、よくよく伝えられよ」
「畏まり候。しかれば……、明日以降は如何ほどに?」
「明日?」
「我が主から、道案内を仰せつかっておりまするので、よろしければ某がご案内いたしまする」
「おお、それはありがたい」と言いながらも、「じゃが、結構、結構」
「されど………………」
「結構、結構」と、殿は拒否する、「儂の気分で、ゆるりゆるりと行かせてもらう」
饗応役が下がると、殿はぽつりと呟いた。
「案内がおっては、見たいものも、見れんからのう」
翌朝早くに浅間神社を立ち、田子の浦を通って富士川を渡る。
神原で、家康が用意した酒肴に興じ、しばし地元のものの話を聞いたあと、油井へ。
そこから久能の城を見た後は、江尻に宿を借りた。
翌日以降も、江尻、田中、懸川とゆっくりと上がっていくが、その要所要所に休息所が設けられている。
宿を借りるにも、事前に家康の報せが飛んでいるのだろう、かなりの饗応振りである。
天竜川までくると、見事な舟橋がかかっていた。
これほどの舟橋を駆ける財力があるとは、家康恐るべしである。
浜松まで来ると、殿は太若丸と乱だけを残し、小姓衆・馬廻り衆を解散させた ―― それぞれ思い思いに見物して安土へ帰れよという、殿の親心である。
残ったお弓衆と鉄砲衆を引き連れ、今切りを渡り、吉田へ。
吉田から岡崎城下のむつた川を通り、矢作川に差し掛かった。
ここにも、立派な橋がかけてある。
「ここにも橋か……、気が利くというか、むしろ気持ちが悪いほどじゃな。どうじゃ、十兵衛よ、三州・遠州と見てきたが?」
「橋だけでなく、それぞれの城もよくよく普請され、これを落とすには、なかなか労を要するかと………………」
「攻めるのは、無理か?」
「むしろ、こちらに誘い込んで………………」、不意に十兵衛の動きが止まる、「大殿……」
「うむ」
「鉄砲を!」
十兵衛は、傍らにいた鉄砲衆のひとりから鉄砲を受け取り、弾を込め、縄に火を点け、振り向きざまに草むらの方へと発砲した。
乾いた音とともに、水鳥が数羽飛び立つ。
「鉄砲衆!」
十兵衛は、鉄砲衆数名を引き連れ、草むらへと駆け込んでいく。
「猪でございますか?」
乱の言葉に、殿はにやりと笑う。
「いや、狸かな?」
これは、何かあったな!
太若丸は、乱を促し、残った鉄砲衆とお弓衆を指揮して、殿を守るように橋を駆け抜けた。
その後は何事もなく、池鯉鮒の宿へと入った。
ここには、水野惣兵衛忠重が待っていた。
「おや、惟任殿は? ご一緒と伺っておりましたが?」
「うむ、狩りに夢中でな」
「左様でございまするか」
忠重は何やら腑に落ちない顔をしていたが、早速饗応が始まった。
忠重の注いだ酒を飲み干すと、
「惣兵衛も、此度の甲州攻め、大儀であったな。そなたのお陰で、勘九郎もよくよく働くことができたようじゃ、恩に来るぞ。それそれ」
と、殿が忠重の杯に酒を注いだ。
「滅相もないことで」
「どうじゃった、勘九郎は?」
「それはもう、武将としても、織田家当主としてもご立派で。これで、織田家も安泰かと」
「天下人としては、どうじゃ?」
忠重は、一瞬詰まったが、
「もちろんでござりまする」
遅れて十兵衛がやってきた。
「どうじゃった、獲物の首尾は?」
「二匹仕留めましたが、一匹逃しました」
「狸じゃったか、頭の黒?」
「いえ、犬でござりました、いがぐり色の……」
「左様か。ほれ、十兵衛も飲め」
十兵衛は、忠重から注いでもらった酒をぐいっと空けた。
「ときに惣兵衛は……、羽林殿の叔父であったかのう?」
殿の問いに、忠重は頷く。
「某の姉が、次郎三郎(家康)の母に当たりまする」
水野氏は、尾張の知多郡小河において地頭であったが、下剋上の乱世に入って勢力を拡大し、忠重の父水野忠政の代には緒川・刈谷の二城を中心に、近隣の地侍たちと凌ぎを削っていた。
その西に織田、東に松平、さらに松平を傘下におさめる今川がいる。
忠政は生き残るために織田家に協力しながらも、松平家に己の娘たちを嫁に出すなどして、領地の保全を図っていた。
その娘のひとりが於大の方 ―― 松平広忠の正室で、家康の母である。
「惣兵衛は、一時期羽林殿の配下にいたな?」
忠重は頷く。
父忠重亡き後、家督は次男信元が継ぎ、忠重は兄をよく助けていた。
だが、信元は武田と内通したということで処断された。
この武田との内通を殿の耳に入れたのが佐久間信盛であり、これは真っ赤な嘘で、水野氏の領地欲しさに殿に讒言したと………………と、そんな噂もあったが、本当のところは分からない。
主と領地を失った忠重は一時期家康のもとに身を寄せるが、信盛が追放されると、刈谷城主となって織田家に復帰した。
「甲斐からここまでの道のり、羽林殿のお陰で何の苦もなく、随分と快適であった。儂からものちほど礼を申すが、惣兵衛からも礼を申しておいてくれ」
「ありがたき幸せ。次郎三郎も喜びましょう」
「しかし……、羽林殿は金持ちじゃのう、羨ましい限りじゃ。これほどの金、どこで得ておるのかのう?」
「さあ、それは某にも………………」
「これほどの金があれば、天下も取れようのう」
「まさか、左様なことは」
「当代の武将であれば、天下への野望を持っていても、おかしくはあるまい。いや、むしろ斯様な気概がなければ、一国の領主は務まるまい、のう、十兵衛?」
「左様で」
と、十兵衛は頷く ―― その心境は如何に?
「まあ、確かに左様でございましょうが………………」、忠重は困ったような顔である、「いまは織田家の天下 ―― これをひっくり返すなど、次郎三郎も考えてはおりますまい。いまは、大殿、殿のために、粉骨砕身で働くつもりでございましょう」
「それは……、羽林殿の本意か?」
「この惣兵衛と同様、まことの気持ちにござりまする」
殿は、しばし黙って酒を飲んでいたが、
「うむ、惣兵衛及び羽林殿の心構え、よくよく分かった。加えて斯様な馳走までしてもらっては、礼を申しただけでは気が済まぬな、うむうむ、今度は儂が羽林殿を招いて馳走しよう」
「ありがたき幸せ、次郎三郎も喜ぶかと思います」
話は、此度の甲斐への進軍の一件に移り、太若丸は小用をもよおしたので、外へと出た。
ほっと息をついていると、後ろから誰かがやってくる。
隣に立ったので見上げると、十兵衛であった。
甲斐からここまで、殿のお供で一緒であったが、こうやってふたりっきりになるのは、実に久しぶりである。
色々と話したいことはあったが、ふたりっきりになると、意外に言葉もないな………………
「今宵は、月がきれいでござりまするな」
十兵衛の言葉に、まことに………………と答えるのが精いっぱい。
「近頃、大殿のご様子は如何か?」
別段、あの様子で。
「なるほど、天下は………………」
言いかけて、十兵衛は口を噤んだ。
もうひとり来たようだ………………せっかくふたりっきりだったのに………………
「いやいや、某もお供して宜しいか?」
傍に立ったのは、忠重であった。
「いや~、斯様な月夜のもとで小便とは、気分が晴れ晴れしますな」
などと言いながら、草むらに激しい音を立てた。
しばし、音だけが響き渡ったが、
「惟任殿、犬のほうは?」
不意に訊いてきた。
「あれは、あまりに殺気立っておりましたので、気配で分かりましたよ」
「馬鹿が!」
誰に言っているのだろう。
忠重は一物を仕舞うと、「手間をお掛けした」と言って下がろうとした。
「水野殿……」
忠重は立ち止まり、振り返る。
「徳川殿によくよくお伝えくだされ、今度は大殿から接待を受けようが、よくよく油断なく………………と」
忠重は眉間に皺を寄せる。
「腐った魚を食わされ、腹を下されぬように」
黙って頷くと、そのまま宿に入っていった。
十兵衛は、にこりと笑い、
「権太殿、行きまするぞ」
どこに?
「天下取りに」
安土に帰城したのは、四月二十一日である。
聞けば、家康の指示であるらしい。
「いやいや、儂のために斯くも素晴らしき仕度をしてもらい、羽林(家康)殿には感謝してもしきれぬな」
と、殿は酷く上機嫌だったが、裏では十兵衛と、
「この儂を化かそうと、必死のようじゃな?」
「これほどの気の使いよう、梅雪斎の一件でまずいと思ったのでしょうな。しかし、これは………………」
十兵衛は、浅間神社の境内に建てられた宿舎を見回し、幾分呆れたような顔である。
殿が一泊するだけの仮宿である ―― 柱から壁、天井に至るまで金銀が散りばめられている。
殿の好みといえばそうだが、聊かやりすぎなような気もするが………………
「三河と遠江で……、どのぐらいじゃ?」
「きちんとした検地をしたわけではございませぬので、詳しい貫高は分りませぬが……、みたところ、三河でおおよそ十五万、遠江で十万、あわせて二十五万貫ほどかと」
「すべてが狸の懐に入るわけであるまい?」
「徳川殿が、百姓から年貢としてどれだけ取っているかは分かりませぬが、半分を治めても十二、三……、まあ、十五万貫ぐらいでしょうか」
「戦をして、なおかつこの羽振り……、狸はよほど銭を貯めこんでおるようじゃのう?」
「かなりの吝嗇と聞き及びまする。家臣への褒美も、出し渋るほどとか」
「それでよく、家臣らはついてくるものじゃ?」
「三河武士のなせるところでござりましょうか?」
「面倒臭い連中じゃな」
殿が苦笑したところに、この仮宿の饗応役が挨拶にやってきた。
「如何でございましょうか、此度の宿は?」
饗応役は、恐る恐る訊ねる。
殿は、満面の笑みで、
「うむ、満足じゃ!」
「それは宜しゅうござりました」
と、ほっと胸を撫でおろす。
「羽林殿には、斯様な宿だけでなく、馳走も頂き、感謝するとお伝えくだされ。これほどのことをしてもらって、礼としては足りぬと思うが……」
殿は、吉光作の脇差と一文字作の長刀、黒駮の馬を家康に進呈した。
「ありがたき幸せ、我が主も感涙いたしましょう」
「羽林殿には、よくよく伝えられよ」
「畏まり候。しかれば……、明日以降は如何ほどに?」
「明日?」
「我が主から、道案内を仰せつかっておりまするので、よろしければ某がご案内いたしまする」
「おお、それはありがたい」と言いながらも、「じゃが、結構、結構」
「されど………………」
「結構、結構」と、殿は拒否する、「儂の気分で、ゆるりゆるりと行かせてもらう」
饗応役が下がると、殿はぽつりと呟いた。
「案内がおっては、見たいものも、見れんからのう」
翌朝早くに浅間神社を立ち、田子の浦を通って富士川を渡る。
神原で、家康が用意した酒肴に興じ、しばし地元のものの話を聞いたあと、油井へ。
そこから久能の城を見た後は、江尻に宿を借りた。
翌日以降も、江尻、田中、懸川とゆっくりと上がっていくが、その要所要所に休息所が設けられている。
宿を借りるにも、事前に家康の報せが飛んでいるのだろう、かなりの饗応振りである。
天竜川までくると、見事な舟橋がかかっていた。
これほどの舟橋を駆ける財力があるとは、家康恐るべしである。
浜松まで来ると、殿は太若丸と乱だけを残し、小姓衆・馬廻り衆を解散させた ―― それぞれ思い思いに見物して安土へ帰れよという、殿の親心である。
残ったお弓衆と鉄砲衆を引き連れ、今切りを渡り、吉田へ。
吉田から岡崎城下のむつた川を通り、矢作川に差し掛かった。
ここにも、立派な橋がかけてある。
「ここにも橋か……、気が利くというか、むしろ気持ちが悪いほどじゃな。どうじゃ、十兵衛よ、三州・遠州と見てきたが?」
「橋だけでなく、それぞれの城もよくよく普請され、これを落とすには、なかなか労を要するかと………………」
「攻めるのは、無理か?」
「むしろ、こちらに誘い込んで………………」、不意に十兵衛の動きが止まる、「大殿……」
「うむ」
「鉄砲を!」
十兵衛は、傍らにいた鉄砲衆のひとりから鉄砲を受け取り、弾を込め、縄に火を点け、振り向きざまに草むらの方へと発砲した。
乾いた音とともに、水鳥が数羽飛び立つ。
「鉄砲衆!」
十兵衛は、鉄砲衆数名を引き連れ、草むらへと駆け込んでいく。
「猪でございますか?」
乱の言葉に、殿はにやりと笑う。
「いや、狸かな?」
これは、何かあったな!
太若丸は、乱を促し、残った鉄砲衆とお弓衆を指揮して、殿を守るように橋を駆け抜けた。
その後は何事もなく、池鯉鮒の宿へと入った。
ここには、水野惣兵衛忠重が待っていた。
「おや、惟任殿は? ご一緒と伺っておりましたが?」
「うむ、狩りに夢中でな」
「左様でございまするか」
忠重は何やら腑に落ちない顔をしていたが、早速饗応が始まった。
忠重の注いだ酒を飲み干すと、
「惣兵衛も、此度の甲州攻め、大儀であったな。そなたのお陰で、勘九郎もよくよく働くことができたようじゃ、恩に来るぞ。それそれ」
と、殿が忠重の杯に酒を注いだ。
「滅相もないことで」
「どうじゃった、勘九郎は?」
「それはもう、武将としても、織田家当主としてもご立派で。これで、織田家も安泰かと」
「天下人としては、どうじゃ?」
忠重は、一瞬詰まったが、
「もちろんでござりまする」
遅れて十兵衛がやってきた。
「どうじゃった、獲物の首尾は?」
「二匹仕留めましたが、一匹逃しました」
「狸じゃったか、頭の黒?」
「いえ、犬でござりました、いがぐり色の……」
「左様か。ほれ、十兵衛も飲め」
十兵衛は、忠重から注いでもらった酒をぐいっと空けた。
「ときに惣兵衛は……、羽林殿の叔父であったかのう?」
殿の問いに、忠重は頷く。
「某の姉が、次郎三郎(家康)の母に当たりまする」
水野氏は、尾張の知多郡小河において地頭であったが、下剋上の乱世に入って勢力を拡大し、忠重の父水野忠政の代には緒川・刈谷の二城を中心に、近隣の地侍たちと凌ぎを削っていた。
その西に織田、東に松平、さらに松平を傘下におさめる今川がいる。
忠政は生き残るために織田家に協力しながらも、松平家に己の娘たちを嫁に出すなどして、領地の保全を図っていた。
その娘のひとりが於大の方 ―― 松平広忠の正室で、家康の母である。
「惣兵衛は、一時期羽林殿の配下にいたな?」
忠重は頷く。
父忠重亡き後、家督は次男信元が継ぎ、忠重は兄をよく助けていた。
だが、信元は武田と内通したということで処断された。
この武田との内通を殿の耳に入れたのが佐久間信盛であり、これは真っ赤な嘘で、水野氏の領地欲しさに殿に讒言したと………………と、そんな噂もあったが、本当のところは分からない。
主と領地を失った忠重は一時期家康のもとに身を寄せるが、信盛が追放されると、刈谷城主となって織田家に復帰した。
「甲斐からここまでの道のり、羽林殿のお陰で何の苦もなく、随分と快適であった。儂からものちほど礼を申すが、惣兵衛からも礼を申しておいてくれ」
「ありがたき幸せ。次郎三郎も喜びましょう」
「しかし……、羽林殿は金持ちじゃのう、羨ましい限りじゃ。これほどの金、どこで得ておるのかのう?」
「さあ、それは某にも………………」
「これほどの金があれば、天下も取れようのう」
「まさか、左様なことは」
「当代の武将であれば、天下への野望を持っていても、おかしくはあるまい。いや、むしろ斯様な気概がなければ、一国の領主は務まるまい、のう、十兵衛?」
「左様で」
と、十兵衛は頷く ―― その心境は如何に?
「まあ、確かに左様でございましょうが………………」、忠重は困ったような顔である、「いまは織田家の天下 ―― これをひっくり返すなど、次郎三郎も考えてはおりますまい。いまは、大殿、殿のために、粉骨砕身で働くつもりでございましょう」
「それは……、羽林殿の本意か?」
「この惣兵衛と同様、まことの気持ちにござりまする」
殿は、しばし黙って酒を飲んでいたが、
「うむ、惣兵衛及び羽林殿の心構え、よくよく分かった。加えて斯様な馳走までしてもらっては、礼を申しただけでは気が済まぬな、うむうむ、今度は儂が羽林殿を招いて馳走しよう」
「ありがたき幸せ、次郎三郎も喜ぶかと思います」
話は、此度の甲斐への進軍の一件に移り、太若丸は小用をもよおしたので、外へと出た。
ほっと息をついていると、後ろから誰かがやってくる。
隣に立ったので見上げると、十兵衛であった。
甲斐からここまで、殿のお供で一緒であったが、こうやってふたりっきりになるのは、実に久しぶりである。
色々と話したいことはあったが、ふたりっきりになると、意外に言葉もないな………………
「今宵は、月がきれいでござりまするな」
十兵衛の言葉に、まことに………………と答えるのが精いっぱい。
「近頃、大殿のご様子は如何か?」
別段、あの様子で。
「なるほど、天下は………………」
言いかけて、十兵衛は口を噤んだ。
もうひとり来たようだ………………せっかくふたりっきりだったのに………………
「いやいや、某もお供して宜しいか?」
傍に立ったのは、忠重であった。
「いや~、斯様な月夜のもとで小便とは、気分が晴れ晴れしますな」
などと言いながら、草むらに激しい音を立てた。
しばし、音だけが響き渡ったが、
「惟任殿、犬のほうは?」
不意に訊いてきた。
「あれは、あまりに殺気立っておりましたので、気配で分かりましたよ」
「馬鹿が!」
誰に言っているのだろう。
忠重は一物を仕舞うと、「手間をお掛けした」と言って下がろうとした。
「水野殿……」
忠重は立ち止まり、振り返る。
「徳川殿によくよくお伝えくだされ、今度は大殿から接待を受けようが、よくよく油断なく………………と」
忠重は眉間に皺を寄せる。
「腐った魚を食わされ、腹を下されぬように」
黙って頷くと、そのまま宿に入っていった。
十兵衛は、にこりと笑い、
「権太殿、行きまするぞ」
どこに?
「天下取りに」
安土に帰城したのは、四月二十一日である。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる