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第五章「盲愛の寺」
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「それに、大坂や西だけが大事ではない。大坂が終われば、そなたには東に向かってもらう」
「東?」、信盛の顔がぱっと華やいだ、「三河より東にござりまするか?」
殿は頷く。
「ならば、三河や相模、甲斐と戦でござりまするか?」
それには首を振る。
「羽林(家康)から、北条との同盟は如何かと煩くてな、これも受けようかと」
「戦はなさりませんので?」
「そうそう戦ってばかりもおられまい」
「ならば、徳川、北条と手を結び、武田と戦ということで?」
これにも首を振る。
殿は、本当になにを考えているのか?
「甲斐とも同盟を結ぶ。武田から、坊丸を返すのはどうかというてきた」
坊丸 ―― 織田源三郎信房は、信長の五男 ―― 幼き頃、美濃国岩村城の遠山氏の養子に出された。
当時、遠山氏は武田と織田のいずれにも属するような立場であったが、当主遠山景任が後継ぎなく亡くなった。
ここで遠山家織田派の家臣たちの考えた妙案が、信長の息子を当主として迎えること。
これには、景任の妻が信長の叔母というのも関係していた。
この叔母 ―― おつやの方というのが女丈夫で、夫亡き後、信房の後見でありながら当主として振舞った。
元亀三(一五七二)年十一月、武田晴信の西進に際し、別動隊であった秋山虎繁が岩村城を包囲。
武田派の家臣らが門を開いて、岩村城は陥落。
本来ならば、信房や織田派の家臣らは処断されるところを、おつやの方が虎繁の夫となり、岩村城の城主として迎え入れるという形で難を逃れる。
その後信房は甲斐へと送られ、人質生活を送っていた。
ちなみに、天正三(一五七五)年に岩村城を奪還すべく、織田信忠が総大将としてこれを包囲する。
虎繁は、主君武田勝頼に助力を要請し、すぐさま後詰を出すとの返答を得るも、勝頼は徳川家康との戦に手一杯で援軍を送れず、孤立無援の状況となり、家臣らの助命を条件として開城した。
が、虎繁、おつやの方、家老の大嶋杢之助、座光寺為清 は長良川の川岸で逆さ磔にされた。
おつやの方としては、嫁ぎ先やその家臣ら、養子とした信房を守るために、虎繁の妻となった。
だが、信長にしてみれば、武田に寝返った裏切り者である。
処断は已む得ず ―― が、処刑するならば普通の磔にするか、首を斬るかにすればよい ―― これを逆さ磔という処刑の中でも残酷極まるやりかたを処したのだから、身内の裏切りというのが、酷く信長を怒らせたのであろう。
これを信忠が目の当たりにしたのだから、『裏切り者は、その身内まで許さず』となるのは当然であろう。
それは兎も角、甲斐にいた信房は生き残ることができ、それを此度は同盟の証として送り返してくるという。
「しかし、武田と手を結ぶとなると、徳川・北条との同盟は如何様になりましょう? あそこは古くから領地で争った間柄から、あまり良い気はしないのでは?」
「むしろ、それでよい」と、信盛の問いに、殿は答える、「織田は、武田と手を結び、北条とも手を結ぶ。武田と北条は、織田の許しなくては戦はできぬ ―― すわなち、織田家が天下人として関東を差配するということだ」
「なるほど!」
村井貞勝が、ぽんと手を打つ。
殿は、にこりと微笑んだ。
「どうじゃ、この策は?」
「いや、誰も思いつかぬ奇策かと」
「そうであろう、そうであろう。儂と乱丸とで、夜通し考えてな」
やはり、あいつが裏で関与しているのか?
太若丸は、乱を睨みつける ―― それは、信盛や十兵衛も同じ。
乱は、我関せずと終始にこにこしている。
「大坂との和睦がなれば、今度は武田と北条との和睦のため、右衛門尉、そなたには働いてもらうぞ」
「関東の差配を、某が?」
殿が頷く。
「戦場で働いてこそ、武人としての誉れでありますが………………、大殿が左様におっしゃるならば」
幾分不満そうだが、信盛は承服した。
「ですが………………」と、信盛は付け加えた、「仮に、武田や北条、徳川が従わなければ、この右衛門尉が総大将として、関東を平らげても宜しいか?」
一瞬、殿の顔が険しくなった。
「儂の……、許しなくて、兵を動かすなよ」
「戦とは、その場その場で状況が変わりまする。大殿の許しを待っている間に、良き機会を逃すやもしれませぬ」
重苦しい雰囲気に包まれる。
殿は、じっと信盛を睨みつけている。
信盛も睨み返す。
十兵衛や貞勝は、それをはらはらしながら見ている。
太若丸も同じだ。
ただ、乱だけは相変わらず能天気で、
「佐久間様は、大殿に歯向かわれるので?」
と、口を開いた。
信盛の目が、ぎろっと乱を睨みつける。
「主君が誤ったことをすれば、それを正すのが家臣としての務め」
確かに。
「大殿に間違いがおありと?」
「誰でも間違いはあろう、神仏でなければ」
「大殿は、〝神〟です」
乱の澄んだ声が響き渡る。
また、こいつは突然何を言い出すのか!
「〝神〟? 大殿が?」
「そうです、大殿は〝神〟になられるのです。それが間違いなど、起こすはずがございません」
何を言われているのか分らず、信盛は呆けていた。
当然だ、この話は十兵衛と太若丸、乱と極僅かなものしか知らない。
余計なことをしゃべって!
「大殿が、〝神? 〝神〟?」
信盛は、げらげらと笑いだす。
まあ、何も知ならい人が聞けば、当然であろう。
「人が〝神〟になるなど、できはしまい。森の小僧よ、戯言もいい加減にせよ」
「戯言ではございりませぬ。大殿は、まことに〝神〟になられるのです。左様ですよね、惟任様、太若丸様」
我々にふるな。
現に、十兵衛は答えに窮しているではないか!
「惟任、どういうことか?」
「それは………………」
十兵衛が答えようとしたのを、殿が遮った。
「右衛門尉、そんなに怒るな、たかが小姓の戯言じゃ」と、笑いながら言った、「小姓からすれば、仕える主君が〝神〟に見えて当然ではないか。そなたのように、父上の代から長年織田家に仕えてきたものと、見方が違うであろう。主君が間違いを起こせば、それを正すのは家臣の役目 ―― 右衛門尉の言うことは、至極当然の理じゃ」
「左様でござりまする」
「その忠節を持って、大坂の和議や関東の差配にあたってくれ」
「言われずとも、織田家の中で、忠義にかけてこの佐久間を置いて右に出るものがありましょうや?」
「うむ、心強いぞ」
と、その場は何とか収まった。
「東?」、信盛の顔がぱっと華やいだ、「三河より東にござりまするか?」
殿は頷く。
「ならば、三河や相模、甲斐と戦でござりまするか?」
それには首を振る。
「羽林(家康)から、北条との同盟は如何かと煩くてな、これも受けようかと」
「戦はなさりませんので?」
「そうそう戦ってばかりもおられまい」
「ならば、徳川、北条と手を結び、武田と戦ということで?」
これにも首を振る。
殿は、本当になにを考えているのか?
「甲斐とも同盟を結ぶ。武田から、坊丸を返すのはどうかというてきた」
坊丸 ―― 織田源三郎信房は、信長の五男 ―― 幼き頃、美濃国岩村城の遠山氏の養子に出された。
当時、遠山氏は武田と織田のいずれにも属するような立場であったが、当主遠山景任が後継ぎなく亡くなった。
ここで遠山家織田派の家臣たちの考えた妙案が、信長の息子を当主として迎えること。
これには、景任の妻が信長の叔母というのも関係していた。
この叔母 ―― おつやの方というのが女丈夫で、夫亡き後、信房の後見でありながら当主として振舞った。
元亀三(一五七二)年十一月、武田晴信の西進に際し、別動隊であった秋山虎繁が岩村城を包囲。
武田派の家臣らが門を開いて、岩村城は陥落。
本来ならば、信房や織田派の家臣らは処断されるところを、おつやの方が虎繁の夫となり、岩村城の城主として迎え入れるという形で難を逃れる。
その後信房は甲斐へと送られ、人質生活を送っていた。
ちなみに、天正三(一五七五)年に岩村城を奪還すべく、織田信忠が総大将としてこれを包囲する。
虎繁は、主君武田勝頼に助力を要請し、すぐさま後詰を出すとの返答を得るも、勝頼は徳川家康との戦に手一杯で援軍を送れず、孤立無援の状況となり、家臣らの助命を条件として開城した。
が、虎繁、おつやの方、家老の大嶋杢之助、座光寺為清 は長良川の川岸で逆さ磔にされた。
おつやの方としては、嫁ぎ先やその家臣ら、養子とした信房を守るために、虎繁の妻となった。
だが、信長にしてみれば、武田に寝返った裏切り者である。
処断は已む得ず ―― が、処刑するならば普通の磔にするか、首を斬るかにすればよい ―― これを逆さ磔という処刑の中でも残酷極まるやりかたを処したのだから、身内の裏切りというのが、酷く信長を怒らせたのであろう。
これを信忠が目の当たりにしたのだから、『裏切り者は、その身内まで許さず』となるのは当然であろう。
それは兎も角、甲斐にいた信房は生き残ることができ、それを此度は同盟の証として送り返してくるという。
「しかし、武田と手を結ぶとなると、徳川・北条との同盟は如何様になりましょう? あそこは古くから領地で争った間柄から、あまり良い気はしないのでは?」
「むしろ、それでよい」と、信盛の問いに、殿は答える、「織田は、武田と手を結び、北条とも手を結ぶ。武田と北条は、織田の許しなくては戦はできぬ ―― すわなち、織田家が天下人として関東を差配するということだ」
「なるほど!」
村井貞勝が、ぽんと手を打つ。
殿は、にこりと微笑んだ。
「どうじゃ、この策は?」
「いや、誰も思いつかぬ奇策かと」
「そうであろう、そうであろう。儂と乱丸とで、夜通し考えてな」
やはり、あいつが裏で関与しているのか?
太若丸は、乱を睨みつける ―― それは、信盛や十兵衛も同じ。
乱は、我関せずと終始にこにこしている。
「大坂との和睦がなれば、今度は武田と北条との和睦のため、右衛門尉、そなたには働いてもらうぞ」
「関東の差配を、某が?」
殿が頷く。
「戦場で働いてこそ、武人としての誉れでありますが………………、大殿が左様におっしゃるならば」
幾分不満そうだが、信盛は承服した。
「ですが………………」と、信盛は付け加えた、「仮に、武田や北条、徳川が従わなければ、この右衛門尉が総大将として、関東を平らげても宜しいか?」
一瞬、殿の顔が険しくなった。
「儂の……、許しなくて、兵を動かすなよ」
「戦とは、その場その場で状況が変わりまする。大殿の許しを待っている間に、良き機会を逃すやもしれませぬ」
重苦しい雰囲気に包まれる。
殿は、じっと信盛を睨みつけている。
信盛も睨み返す。
十兵衛や貞勝は、それをはらはらしながら見ている。
太若丸も同じだ。
ただ、乱だけは相変わらず能天気で、
「佐久間様は、大殿に歯向かわれるので?」
と、口を開いた。
信盛の目が、ぎろっと乱を睨みつける。
「主君が誤ったことをすれば、それを正すのが家臣としての務め」
確かに。
「大殿に間違いがおありと?」
「誰でも間違いはあろう、神仏でなければ」
「大殿は、〝神〟です」
乱の澄んだ声が響き渡る。
また、こいつは突然何を言い出すのか!
「〝神〟? 大殿が?」
「そうです、大殿は〝神〟になられるのです。それが間違いなど、起こすはずがございません」
何を言われているのか分らず、信盛は呆けていた。
当然だ、この話は十兵衛と太若丸、乱と極僅かなものしか知らない。
余計なことをしゃべって!
「大殿が、〝神? 〝神〟?」
信盛は、げらげらと笑いだす。
まあ、何も知ならい人が聞けば、当然であろう。
「人が〝神〟になるなど、できはしまい。森の小僧よ、戯言もいい加減にせよ」
「戯言ではございりませぬ。大殿は、まことに〝神〟になられるのです。左様ですよね、惟任様、太若丸様」
我々にふるな。
現に、十兵衛は答えに窮しているではないか!
「惟任、どういうことか?」
「それは………………」
十兵衛が答えようとしたのを、殿が遮った。
「右衛門尉、そんなに怒るな、たかが小姓の戯言じゃ」と、笑いながら言った、「小姓からすれば、仕える主君が〝神〟に見えて当然ではないか。そなたのように、父上の代から長年織田家に仕えてきたものと、見方が違うであろう。主君が間違いを起こせば、それを正すのは家臣の役目 ―― 右衛門尉の言うことは、至極当然の理じゃ」
「左様でござりまする」
「その忠節を持って、大坂の和議や関東の差配にあたってくれ」
「言われずとも、織田家の中で、忠義にかけてこの佐久間を置いて右に出るものがありましょうや?」
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