130 / 378
第三章「皇女たちの憂鬱」 前編
第5話
しおりを挟む
橘の君が、初めての口付けを経験した日から、霍公鳥は足しげくこの裏庭に舞い降りて来た。
橘の季節が終わる頃になっても、
『もう、橘も散ってしまいますわ。そうすれば、あなた様もこの庭に降りて来られなくなりますね』
『橘は、実も美味しいのですよ』
と言って通い続けた。
彼は高向王と名乗り、用明天皇の孫にあたる人物であった。
宝皇女は不思議だった。
あれほど異性の前に顔を出すことを嫌った彼女が、高向王の前では平気だ。
それだけでなく、高向王と話をすると、素の自分を出すことができた。
彼の話は気取ったところはなく、かと言って堅苦しいところもない。
その話は機知に富み、聞いている者を飽きさせなかった。
二人は逢瀬を交わす度に、親密さを増していった。
彼女は、彼の傍にいると言い知れぬ安らぎを覚えた。
人は、一生をともにする相手を見つけるために生きていると言うけれど、もしかしたら、この人が私の一生を捧げる人かも知れない………………と。
女性は恋をすると美しくなると言うが、宝皇女もそれに漏れず、日に日に美しくなっていき、その噂が飛鳥の男たちの口に上った。
そうなると、急に縁談話が増えるのは当然であった。
『弟が、娘と一度会いそうなのだが』
と、父の茅渟王が母の吉備姫王に相談した。
弟とは田村皇子で、宝皇女より一歳年上である。
『田村様がですか? でも、あの子、好きな人がいるのですよ』
『えっ、そうなのか? いつの間に? 何処の誰だ?』
『何処のどなたかは詳しくは存じませんが、もう随分前から』
『知らなかった。宝が、そう言ったのか?』
『いえ、言わなくても分かるじゃないですか。あの子、最近綺麗になったでしょう』
こういうことは、女親の方が鋭いらしい。
『そうか?』
『そうかって……、女は恋をすれば綺麗になります。私も、そうでしたから』
『そうだったかな?』
『どういう意味ですか、それは!』
『いや、なんでもない。しかし、素性の分からぬヤツと付き合っているのは、どうもな……』
『それは男親の考えですね。あの子はいま、初めての恋をしているのです。初恋の相手と添え遂げようとも、そうでなくとも、女にとっては一生の思い出となるのです。それを、親の考えで壊したくはないのです。そんなことをすれば、あの子、一生私たちを怨みますわ』
『しかしな……』
『お願いです、あなた、あの子のこと、信じて見守ってやって下さい』
吉備姫王の懇願により、二人は宝皇女の交際を温かく見守ってやることにした。
橘の実が黄色く色づき、心地よい香りを漂わせるよういになると、彼女の気持ちは深く沈んだ ―― 実が落ちてしまえば、もう霍公鳥は来ないのだと。
男は、それを知ってか知らずか、橘の実を褒める。
『思ったとおり、良い実がなりましたね。美味しそうですね』
高向王は、実を一つもぎ取った。
『美味しい? いえ、酸っぱいですわ』
―― ニッポンタチバナの実はとても酸っぱい………………
『そうですか? 祖父の屋敷の橘はとても甘かったですよ』
『いえ、酸っぱいのです。酸っぱい実は、誰も見向きもせず、落ちて萎んでいくのです』
宝皇女は、悲しげに目を伏せた。
高向王は、彼女の体を引き寄せる。
『この実は甘いですよ。霍公鳥が言うのですから間違いありません』
『嘘おっしゃって』
『嘘ではありません。霍公鳥は、この実を食べたいのです』
高向王は、宝皇女を見つめた。
『本当? では……、お試しになって……』
宝皇女も彼を見上げる………………二度目の口付けを交わした。
高向王の手から、橘の実が転がり落ちた。
その夜、宝皇女の寝室には、明け方近くまで明かりが灯っていた。
橘の季節が終わる頃になっても、
『もう、橘も散ってしまいますわ。そうすれば、あなた様もこの庭に降りて来られなくなりますね』
『橘は、実も美味しいのですよ』
と言って通い続けた。
彼は高向王と名乗り、用明天皇の孫にあたる人物であった。
宝皇女は不思議だった。
あれほど異性の前に顔を出すことを嫌った彼女が、高向王の前では平気だ。
それだけでなく、高向王と話をすると、素の自分を出すことができた。
彼の話は気取ったところはなく、かと言って堅苦しいところもない。
その話は機知に富み、聞いている者を飽きさせなかった。
二人は逢瀬を交わす度に、親密さを増していった。
彼女は、彼の傍にいると言い知れぬ安らぎを覚えた。
人は、一生をともにする相手を見つけるために生きていると言うけれど、もしかしたら、この人が私の一生を捧げる人かも知れない………………と。
女性は恋をすると美しくなると言うが、宝皇女もそれに漏れず、日に日に美しくなっていき、その噂が飛鳥の男たちの口に上った。
そうなると、急に縁談話が増えるのは当然であった。
『弟が、娘と一度会いそうなのだが』
と、父の茅渟王が母の吉備姫王に相談した。
弟とは田村皇子で、宝皇女より一歳年上である。
『田村様がですか? でも、あの子、好きな人がいるのですよ』
『えっ、そうなのか? いつの間に? 何処の誰だ?』
『何処のどなたかは詳しくは存じませんが、もう随分前から』
『知らなかった。宝が、そう言ったのか?』
『いえ、言わなくても分かるじゃないですか。あの子、最近綺麗になったでしょう』
こういうことは、女親の方が鋭いらしい。
『そうか?』
『そうかって……、女は恋をすれば綺麗になります。私も、そうでしたから』
『そうだったかな?』
『どういう意味ですか、それは!』
『いや、なんでもない。しかし、素性の分からぬヤツと付き合っているのは、どうもな……』
『それは男親の考えですね。あの子はいま、初めての恋をしているのです。初恋の相手と添え遂げようとも、そうでなくとも、女にとっては一生の思い出となるのです。それを、親の考えで壊したくはないのです。そんなことをすれば、あの子、一生私たちを怨みますわ』
『しかしな……』
『お願いです、あなた、あの子のこと、信じて見守ってやって下さい』
吉備姫王の懇願により、二人は宝皇女の交際を温かく見守ってやることにした。
橘の実が黄色く色づき、心地よい香りを漂わせるよういになると、彼女の気持ちは深く沈んだ ―― 実が落ちてしまえば、もう霍公鳥は来ないのだと。
男は、それを知ってか知らずか、橘の実を褒める。
『思ったとおり、良い実がなりましたね。美味しそうですね』
高向王は、実を一つもぎ取った。
『美味しい? いえ、酸っぱいですわ』
―― ニッポンタチバナの実はとても酸っぱい………………
『そうですか? 祖父の屋敷の橘はとても甘かったですよ』
『いえ、酸っぱいのです。酸っぱい実は、誰も見向きもせず、落ちて萎んでいくのです』
宝皇女は、悲しげに目を伏せた。
高向王は、彼女の体を引き寄せる。
『この実は甘いですよ。霍公鳥が言うのですから間違いありません』
『嘘おっしゃって』
『嘘ではありません。霍公鳥は、この実を食べたいのです』
高向王は、宝皇女を見つめた。
『本当? では……、お試しになって……』
宝皇女も彼を見上げる………………二度目の口付けを交わした。
高向王の手から、橘の実が転がり落ちた。
その夜、宝皇女の寝室には、明け方近くまで明かりが灯っていた。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す
矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。
はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき……
メイドと主の織りなす官能の世界です。
信濃の大空
ypaaaaaaa
歴史・時代
空母信濃、それは大和型3番艦として建造されたものの戦術の変化により空母に改装され、一度も戦わず沈んだ巨艦である。
そんな信濃がもし、マリアナ沖海戦に間に合っていたらその後はどうなっていただろう。
この小説はそんな妄想を書き綴ったものです!
前作同じく、こんなことがあったらいいなと思いながら読んでいただけると幸いです!
三國志 on 世説新語
ヘツポツ斎
歴史・時代
三國志のオリジンと言えば「三国志演義」? あるいは正史の「三國志」?
確かに、その辺りが重要です。けど、他の所にもネタが転がっています。
それが「世説新語」。三國志のちょっと後の時代に書かれた人物エピソード集です。当作はそこに載る1130エピソードの中から、三國志に関わる人物(西晋の統一まで)をピックアップ。それらを原文と、その超訳とでお送りします!
※当作はカクヨムさんの「世説新語 on the Web」を起点に、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさん、エブリスタさんにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる