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第二章「槻の木の下で」 中編
第12話
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正月早々、大和一帯は異様な雰囲気に包まれていた。
それは、毎夜何十匹という猿の呻き声が響き渡ったからである。
しかも、声はするのに、その姿は見えなかった。
人々は噂した ―― これは何かの前触れだと………………
その何かの前触れを起こす反蘇我派は、安倍内麻呂の屋敷に集り、蘇我討伐の細かな打ち合わせをしていた。
「さて、蘇我征伐であるが、蘇我の屋敷を襲っても、こちらの犠牲が多くなるだけ。如何なる案があろうか?」
麻呂は、自分たちに犠牲が出ないようにしたいようだ。
「しかし、多少の犠牲は止むを得ないでしょう、この際」
さすが、大伴長徳は武人の家柄である。
「戦さはそういうものだ。死を怖がっては何もできないぞ」
これは、葛城皇子の言葉であった。
「しかし、大鳥臣の意見も最もです。あの蘇我氏と戦さをするのですから。多少ではなく、多大の犠牲は覚悟せねばならないでしょう」
柔らかい声で軽皇子が言った。
「いっそのこと、間者を送り込みますか?」
巨勢徳太が言った。
「それはまずい。これは正義の戦いだ。暗殺はまずい」
話は麻呂に戻った。
「では……、各個撃破にしますか?」
長徳が提案する。
「各個撃破?」
誰もが興味を示した。
「ええ、各個撃破です。まず林大臣を呼び出し、ひとりにして殺す。そうすれば蘇我本家は、親を失った雛鳥と同じ。後は、自然と崩れますよ」
「なるほど……、しかし林大臣が、簡単にこちらの罠に入ってくるかな?」
「簡単です。宮内行事であれば、林大臣の警備も手薄になります」
「宮内行事だと?」
「ええ、大殿の中には限られた者しか入れません。そこで、林大臣を殺すのです」
場がどよめいた。
「確かに良い案です。しかし、場所が場所だけに大事になりますよ」
徳太が言った。
「うむ、良い案じゃが、大殿でやるとなると、大王のことも考えねばなるまい。林大臣の土地・民を全て大王のものとするという政策に、大王は大変興味を持っておられる。その大王の前で林大臣を殺したとなると、後々ややこしくなる」
麻呂は、腕組みをしながら言う。
「好都合ではありませんか。林大臣とともに、宝皇女に大王位から退いてもらうのです」
軽皇子の言葉に、誰もが驚いた。
当時、大王は崩御するまで勤めるのが慣例であり、途中で大王位を降りることは考えられなかった。
どうしてもという場合は、祟峻天皇のように暗殺といった手段しかない。
「大王の暗殺ですか?」
「そんな物騒な。仮にも、私の姉ですからね。しかし、ものは考えようです。お気に入りの林大臣に裏切られていたと分かれば、彼女も蘇我征伐を許可するでしょう。そうなれば、我々は完全な大王軍です。これに弓を引けば賊軍 ―― 蘇我も崩れるでしょう。後は、姉上にも、林大臣のような賊臣を生み出した責任を取ってもらって、大王を辞めてもらえばよいのです」
「しかし、そんな大それたこと。それに、大王が退位なされても、次の大王は古人大兄ですが」
徳太は、軽皇子に問うた。
「古人大兄も、大兄から降りてもらいましょう」
「なるほど、そうなれば、軽様を大王として、そして、葛城様を大兄として立てればよい。そうすれば、宮を蘇我の因習に染まる飛鳥から、我らの根拠地 ―― 難波に移し、新政権を誕生させることもできよう。おお、将にこれこそ改新じゃ」
麻呂の調子も上がってきた。
「しかし、林大臣が大王を裏切っているといったような証拠がありますか?」
徳太は尋ねる。
「そんなものはでっち上げればよい」
自分が大兄になれると聞いた葛城皇子も、俄然力が入っていた。
「それは少々乱暴ですね。ある程度の信憑性がないと、大王も本気にはしないでしょう。山田殿、如何ですか? あなたが、蘇我本家と一番繋がりは強いのです。林大臣が、何か大王に対して不遜なことを言ったとか、そういった態度を取ったとかありませんか?」
長徳が、蘇我倉麻呂に訊いた。
「いえ、特には……、大郎は、そう言うことを表に出すような人間ではないですから。しかも、最近あまり付き合いもありませんし……」
蘇我倉麻呂の言葉は小さい。
その後、誰もが黙り込んでしまった。
良く考えてみると、誰も入鹿と付き合ったことがない。
入鹿が、豪族を潰そうと考えているのは分かっていが、「では、その理由は?」と問われると、誰も答えられなかった。
結局、誰も、入鹿の真意を分かっていなかったのだ。
彼らは、単に豪族としての立場を守るために、蘇我に反対しているに過ぎなかった。
「あります!」
それは、いままで黙って聞いていた中臣鎌子の声だった。
誰もが彼を見た。
彼は、しっかりと前を見据えていた。
「あるとは? 林大臣の反逆が明らかになるような証拠があるのか?」
麻呂が訊いた。
「御座います。証拠は、この私です!」
「何と……?」
「して、それは?」
鎌子は、姿勢を正して語り出した。
「林大臣は私に、大王家を潰し、自分が大王となるとはっきりとおっしゃいました」
「そ、それはまことか?」
「何たる不敬! 何たる暴挙!」
「これは、明白な国家転覆の大罪ですぞ!」
場は騒然となった。
「蘇我め! 我らに代わって大王になろうとは、身の程知らずなヤツめ!」
葛城皇子は、激しく膝を叩く。
「しかし、これで決まりましたな、蘇我は国家の大悪人と。後は、大王をこちらにつけるだけ。中臣連、その林大臣の言葉を大王に詳しく説明できますかな?」
軽皇子は、鎌子に訊いた。
「はい、もちろん」
「宜しい。では、中臣連は私とともに大王のもとに参内してください。そして、いまの話を大王にするように。説得の方は私が致しましょう」
話は決まった。
反蘇我派は、以後の行動の細部まで詰めていった。
鎌子は、それを黙って聞いていた。
もう、後戻りはできなかった。
それは、毎夜何十匹という猿の呻き声が響き渡ったからである。
しかも、声はするのに、その姿は見えなかった。
人々は噂した ―― これは何かの前触れだと………………
その何かの前触れを起こす反蘇我派は、安倍内麻呂の屋敷に集り、蘇我討伐の細かな打ち合わせをしていた。
「さて、蘇我征伐であるが、蘇我の屋敷を襲っても、こちらの犠牲が多くなるだけ。如何なる案があろうか?」
麻呂は、自分たちに犠牲が出ないようにしたいようだ。
「しかし、多少の犠牲は止むを得ないでしょう、この際」
さすが、大伴長徳は武人の家柄である。
「戦さはそういうものだ。死を怖がっては何もできないぞ」
これは、葛城皇子の言葉であった。
「しかし、大鳥臣の意見も最もです。あの蘇我氏と戦さをするのですから。多少ではなく、多大の犠牲は覚悟せねばならないでしょう」
柔らかい声で軽皇子が言った。
「いっそのこと、間者を送り込みますか?」
巨勢徳太が言った。
「それはまずい。これは正義の戦いだ。暗殺はまずい」
話は麻呂に戻った。
「では……、各個撃破にしますか?」
長徳が提案する。
「各個撃破?」
誰もが興味を示した。
「ええ、各個撃破です。まず林大臣を呼び出し、ひとりにして殺す。そうすれば蘇我本家は、親を失った雛鳥と同じ。後は、自然と崩れますよ」
「なるほど……、しかし林大臣が、簡単にこちらの罠に入ってくるかな?」
「簡単です。宮内行事であれば、林大臣の警備も手薄になります」
「宮内行事だと?」
「ええ、大殿の中には限られた者しか入れません。そこで、林大臣を殺すのです」
場がどよめいた。
「確かに良い案です。しかし、場所が場所だけに大事になりますよ」
徳太が言った。
「うむ、良い案じゃが、大殿でやるとなると、大王のことも考えねばなるまい。林大臣の土地・民を全て大王のものとするという政策に、大王は大変興味を持っておられる。その大王の前で林大臣を殺したとなると、後々ややこしくなる」
麻呂は、腕組みをしながら言う。
「好都合ではありませんか。林大臣とともに、宝皇女に大王位から退いてもらうのです」
軽皇子の言葉に、誰もが驚いた。
当時、大王は崩御するまで勤めるのが慣例であり、途中で大王位を降りることは考えられなかった。
どうしてもという場合は、祟峻天皇のように暗殺といった手段しかない。
「大王の暗殺ですか?」
「そんな物騒な。仮にも、私の姉ですからね。しかし、ものは考えようです。お気に入りの林大臣に裏切られていたと分かれば、彼女も蘇我征伐を許可するでしょう。そうなれば、我々は完全な大王軍です。これに弓を引けば賊軍 ―― 蘇我も崩れるでしょう。後は、姉上にも、林大臣のような賊臣を生み出した責任を取ってもらって、大王を辞めてもらえばよいのです」
「しかし、そんな大それたこと。それに、大王が退位なされても、次の大王は古人大兄ですが」
徳太は、軽皇子に問うた。
「古人大兄も、大兄から降りてもらいましょう」
「なるほど、そうなれば、軽様を大王として、そして、葛城様を大兄として立てればよい。そうすれば、宮を蘇我の因習に染まる飛鳥から、我らの根拠地 ―― 難波に移し、新政権を誕生させることもできよう。おお、将にこれこそ改新じゃ」
麻呂の調子も上がってきた。
「しかし、林大臣が大王を裏切っているといったような証拠がありますか?」
徳太は尋ねる。
「そんなものはでっち上げればよい」
自分が大兄になれると聞いた葛城皇子も、俄然力が入っていた。
「それは少々乱暴ですね。ある程度の信憑性がないと、大王も本気にはしないでしょう。山田殿、如何ですか? あなたが、蘇我本家と一番繋がりは強いのです。林大臣が、何か大王に対して不遜なことを言ったとか、そういった態度を取ったとかありませんか?」
長徳が、蘇我倉麻呂に訊いた。
「いえ、特には……、大郎は、そう言うことを表に出すような人間ではないですから。しかも、最近あまり付き合いもありませんし……」
蘇我倉麻呂の言葉は小さい。
その後、誰もが黙り込んでしまった。
良く考えてみると、誰も入鹿と付き合ったことがない。
入鹿が、豪族を潰そうと考えているのは分かっていが、「では、その理由は?」と問われると、誰も答えられなかった。
結局、誰も、入鹿の真意を分かっていなかったのだ。
彼らは、単に豪族としての立場を守るために、蘇我に反対しているに過ぎなかった。
「あります!」
それは、いままで黙って聞いていた中臣鎌子の声だった。
誰もが彼を見た。
彼は、しっかりと前を見据えていた。
「あるとは? 林大臣の反逆が明らかになるような証拠があるのか?」
麻呂が訊いた。
「御座います。証拠は、この私です!」
「何と……?」
「して、それは?」
鎌子は、姿勢を正して語り出した。
「林大臣は私に、大王家を潰し、自分が大王となるとはっきりとおっしゃいました」
「そ、それはまことか?」
「何たる不敬! 何たる暴挙!」
「これは、明白な国家転覆の大罪ですぞ!」
場は騒然となった。
「蘇我め! 我らに代わって大王になろうとは、身の程知らずなヤツめ!」
葛城皇子は、激しく膝を叩く。
「しかし、これで決まりましたな、蘇我は国家の大悪人と。後は、大王をこちらにつけるだけ。中臣連、その林大臣の言葉を大王に詳しく説明できますかな?」
軽皇子は、鎌子に訊いた。
「はい、もちろん」
「宜しい。では、中臣連は私とともに大王のもとに参内してください。そして、いまの話を大王にするように。説得の方は私が致しましょう」
話は決まった。
反蘇我派は、以後の行動の細部まで詰めていった。
鎌子は、それを黙って聞いていた。
もう、後戻りはできなかった。
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