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第5章「桜舞う中で」
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調書によると………………
〝お七は、その情念を抑えきれず、何某が好きな茶屋の団子を彼の下に運ぶという名目で、彼の部屋へと頻繁に出入りするようになった。
そして、いつの間にか体を交えるようになった。
お七のほうは本気であったが、何某のほうは以前より何某家の娘との縁組が決まっており、単に遊びのつもりであった。
お七と何某が逢瀬を交わすようになってひと月近く、二人の間に別れのときがくる〟
「なるほど、それからどうしたかってことだ」
〝正月二十五日、お七の家族と奉公人は、建て直した店に戻ることとなる。
店に戻ってからのお七は、まるで抜け殻のようだったと下女のおゆきは語っている〟
「そりゃそうだろうな、わしでも、好いた女と別れるとそうなるわい」
正親は、いちいち口を挟みながら調書を読み続けた。
〝お七がお店に移ってから二、三日して、吉十郎という男が『何某の使いだ』と言って、お七に文を渡しにきた。
それから、吉十郎が間に入って、お七と何某の文の遣り取りが始まった。
この吉十郎というのが曲者で、吉祥寺の寺男の三男で、何某家の土場で使い走りみたいなことをしていた。
これが、何某と組んで、お七に金をせびり出した。
金子が多くなると、下女のおゆきは恐ろしくなって、お七に吉十郎に関わるのは止めるように進言した。
しかし、恋に身を焦がす女には焼け石に水で、逆に何某との関係を疑われて遠ざけられてしまった。
これ以降の遣り取りには、丁稚の三吉が関わってくる。
お七は、三吉を饅頭で買収して、文の遣り取りを手伝わせた。
しかし、次第に何某と吉十郎が要求する金子が多くなった。
さすがに、お七もそれだけの金を準備できず、『これ以上の金子は準備できない』と書いて送った。
するとその返事が、『金子が準備できなければ、逢うことも、文を送ることもできない』というつれないものだった。
この文を読んだお七は、居ても立ってもいられなくなり、吉十郎に直接会いにいった。
これが如月の晦日近くのことである。
お七は吉十郎に、『何某に直接逢わせてくれ』と頼み込んだが、吉十郎は、『何某は、お七に愛想を尽かしたのだ』とばっさりと切り捨てた。
何某にしてみれば、金の切れ目が縁の切れ目で、金のなくなったお七にもう用はなく、ここらへんで捨てようとの考えがあった。
お七は、『何某に捨てられる』と泣いた。
そのとき吉十郎が、『もう一度何某に逢う方法がある』とお七に吹き込んだ。
『お店に火を付け、丸焼けになれば、もう一度、正仙院に身を寄せることができる。そうすれば、何某と逢うことができる』
吉十郎は、火事のどさくさに紛れて泥棒を働こうなどと考えていた〟
「全く、ひでぇ野郎だな。己の手は汚さず、娘を誑かして火を付けさせるとは。こんなやつは、人のくずだ」
正親は吐き捨てる。
「それで、一方のお七は……」
〝己が火事場泥棒の片棒を担がされるとも知らず、この魔物の囁きに心を奪われてしまった。
お七は、何某と逢いたいが一心で、その日の夜、火打道具を持って外に出た。だが、流石に決心が付かず、店の裏でうろうろしているところを木戸番に見つかった。
このときは、両親ともどもきつく叱りおいた。
しかし、お七の何某に対する情愛は覚めやらず、三日目の夜、再び火付けを働いた。
この夜は、火の回りが弱く、塀を焦がした程度で終わる。
お七が、二度の火付けに失敗すると、焦った吉十郎が店までやってきた。
『どうして火を付けない?』と訊くと、お七は、『怖くて駄目だ』と答えた。
『何某と逢えなくていいのか? このまま一生に逢えなくなるぞ』、そう脅すと、お七の何某に逢いたいという情念に再び火が付き、激しく燃え上がった。
吉十郎は、『今夜やるんだ』と唆した。
『でも、火を付ける道具がないの。おとっつぁんが火打道具を隠して』と、お七が言うと、吉十郎は博奕の形にとった火打袋を手渡した。
―― 三月二日、四ツ半(二十三時)
お七は、吉十郎から受け取った火打袋で、三度目の火付けを働く。
今度は良く燃えるように、雛人形の着物を燃やした。
だが、風がなかったのが幸いしたのか、火事に気付いた奉公人や近所の住人たちによって消し止められ、被害は塀を焦がす程度だった。
お七は、近くの塀に凭れて座り込んでいるところを近所の住人に見つけられた。
右手に火口、左手に僅かに焦げた布切れを握り締めていた〟
「父の市左衛門が問うたところ、素直に頷いたので、その日のうちに、母のおさいが付き添って自身番に押し込めた……か……、これがお七事件の顛末か」
正親は、ゆっくりと項を捲った。
これに例繰方が付けてきた刑罰は、
―― 死罪 ――
であった。
〝お七は、その情念を抑えきれず、何某が好きな茶屋の団子を彼の下に運ぶという名目で、彼の部屋へと頻繁に出入りするようになった。
そして、いつの間にか体を交えるようになった。
お七のほうは本気であったが、何某のほうは以前より何某家の娘との縁組が決まっており、単に遊びのつもりであった。
お七と何某が逢瀬を交わすようになってひと月近く、二人の間に別れのときがくる〟
「なるほど、それからどうしたかってことだ」
〝正月二十五日、お七の家族と奉公人は、建て直した店に戻ることとなる。
店に戻ってからのお七は、まるで抜け殻のようだったと下女のおゆきは語っている〟
「そりゃそうだろうな、わしでも、好いた女と別れるとそうなるわい」
正親は、いちいち口を挟みながら調書を読み続けた。
〝お七がお店に移ってから二、三日して、吉十郎という男が『何某の使いだ』と言って、お七に文を渡しにきた。
それから、吉十郎が間に入って、お七と何某の文の遣り取りが始まった。
この吉十郎というのが曲者で、吉祥寺の寺男の三男で、何某家の土場で使い走りみたいなことをしていた。
これが、何某と組んで、お七に金をせびり出した。
金子が多くなると、下女のおゆきは恐ろしくなって、お七に吉十郎に関わるのは止めるように進言した。
しかし、恋に身を焦がす女には焼け石に水で、逆に何某との関係を疑われて遠ざけられてしまった。
これ以降の遣り取りには、丁稚の三吉が関わってくる。
お七は、三吉を饅頭で買収して、文の遣り取りを手伝わせた。
しかし、次第に何某と吉十郎が要求する金子が多くなった。
さすがに、お七もそれだけの金を準備できず、『これ以上の金子は準備できない』と書いて送った。
するとその返事が、『金子が準備できなければ、逢うことも、文を送ることもできない』というつれないものだった。
この文を読んだお七は、居ても立ってもいられなくなり、吉十郎に直接会いにいった。
これが如月の晦日近くのことである。
お七は吉十郎に、『何某に直接逢わせてくれ』と頼み込んだが、吉十郎は、『何某は、お七に愛想を尽かしたのだ』とばっさりと切り捨てた。
何某にしてみれば、金の切れ目が縁の切れ目で、金のなくなったお七にもう用はなく、ここらへんで捨てようとの考えがあった。
お七は、『何某に捨てられる』と泣いた。
そのとき吉十郎が、『もう一度何某に逢う方法がある』とお七に吹き込んだ。
『お店に火を付け、丸焼けになれば、もう一度、正仙院に身を寄せることができる。そうすれば、何某と逢うことができる』
吉十郎は、火事のどさくさに紛れて泥棒を働こうなどと考えていた〟
「全く、ひでぇ野郎だな。己の手は汚さず、娘を誑かして火を付けさせるとは。こんなやつは、人のくずだ」
正親は吐き捨てる。
「それで、一方のお七は……」
〝己が火事場泥棒の片棒を担がされるとも知らず、この魔物の囁きに心を奪われてしまった。
お七は、何某と逢いたいが一心で、その日の夜、火打道具を持って外に出た。だが、流石に決心が付かず、店の裏でうろうろしているところを木戸番に見つかった。
このときは、両親ともどもきつく叱りおいた。
しかし、お七の何某に対する情愛は覚めやらず、三日目の夜、再び火付けを働いた。
この夜は、火の回りが弱く、塀を焦がした程度で終わる。
お七が、二度の火付けに失敗すると、焦った吉十郎が店までやってきた。
『どうして火を付けない?』と訊くと、お七は、『怖くて駄目だ』と答えた。
『何某と逢えなくていいのか? このまま一生に逢えなくなるぞ』、そう脅すと、お七の何某に逢いたいという情念に再び火が付き、激しく燃え上がった。
吉十郎は、『今夜やるんだ』と唆した。
『でも、火を付ける道具がないの。おとっつぁんが火打道具を隠して』と、お七が言うと、吉十郎は博奕の形にとった火打袋を手渡した。
―― 三月二日、四ツ半(二十三時)
お七は、吉十郎から受け取った火打袋で、三度目の火付けを働く。
今度は良く燃えるように、雛人形の着物を燃やした。
だが、風がなかったのが幸いしたのか、火事に気付いた奉公人や近所の住人たちによって消し止められ、被害は塀を焦がす程度だった。
お七は、近くの塀に凭れて座り込んでいるところを近所の住人に見つけられた。
右手に火口、左手に僅かに焦げた布切れを握り締めていた〟
「父の市左衛門が問うたところ、素直に頷いたので、その日のうちに、母のおさいが付き添って自身番に押し込めた……か……、これがお七事件の顛末か」
正親は、ゆっくりと項を捲った。
これに例繰方が付けてきた刑罰は、
―― 死罪 ――
であった。
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