桜はまだか?

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第一章「雛祭」

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 源太郎が、溜まっていた書類の整理と、お七の件の簡単な調書を書き終えると、すでに宵五ツ(二十時)を回っていた。

 冠木門を潜ったのは、宵五ツ半頃(二十一時)である。

 多恵は、玄関先まで出迎えて、源太郎から刀を受け取ると、

「お帰りなさいませ、随分遅ござりましたね?」

 と、訝しそうに訊いた。

「うむ、幸恵は?」

「父様が帰って来るまでと駄々を捏ねておりましたが、先程床に就かせました」

「そうか……」

 寂しげに呟いた。

「何かございましたか?」

 多恵は、刀を刀掛けに静かに置いた。

「うむ、火付けがあってな」

「まあ、火付けでございますか。恐ろしい」

 口ではそう言うものの、多恵は本気で怖がってはいない。

 与力の妻となれば、そんなことはいつでも耳にしている。

「十六の娘だ」

「十六の娘でございますか?」

 多恵は、このとき初めて怖がった。

「まあ、なんでこんな日に?」

「こんな日?」

「桃の節句でございますよ」

 源太郎は、うっと眉間に皺を寄せた。

「そうであったか……」

 毛氈の上の雛人形を思い出した。

「お忘れでしたか?」

「うむ、いや……」

 完全に忘れていた。

 可哀想なことをした。

 あれほど一緒に桃の節句を祝うのを楽しみにしていたというのに………………床に入っても泣いていたことだろう。

 泣きつかれて、寝てしまったのかもしれない。

 源太郎は、申し訳なさそうに妻を見た。

 妻は、小言は言わず、源太郎の着替えを手伝っている。

 彼女は、早く帰って来られなかった言い訳よりも、むしろ事件の内容そのものを聞きたがっていた。

「よっぽどのことでございましょうね。十六の娘が、こんな日に火付けをするなんて」

「そうだな」

 源太郎は、お七の無表情な顔を思い出す。

 あの顔の下には、いったいどんな想いがあるのだろうか?

 源太郎は、夕餉の前に幸恵の寝顔を覗いた。

 うつ伏せになって、親指を銜えている。

 白桃のような頬には、やはり白い跡が残っていた。

(そうか、今日は雛祭であったな……)

 源太郎は、親指の腹で頬の白い跡を拭ってやり、乱れた髪をそっと直してやった。

 桃の香りが、ふわりふわりと漂ってきた。
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