桜はまだか?

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第一章「雛祭」

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「もう癖になっているのでございます」

 それまで、床に擦りつけるようにして頭を下げていた市左衛門が顔を上げ、苦しそうに口を開いた。

「もうあの子は、駄目でございます。火付けが癖になっているのでございます。このまま放っておけば、ご近所のみなさまどころか、町中の人にご迷惑をおかけすることになります。どうか……」

 市左衛門は、消え入るような声で言った。

「あの子を、御番所に連れて行ってくださいまし……」

 お店の主とすれば、近所の手前もあろう。

 人としても、これ以上の火付けを見逃すことはできない。

 が、父親としてはどうなのだろうか?

 火付けは火罪である。

 娘を失うことを、何とも思わないのだろうか?

「場合によっては、火罪もあるんだぜ?」

 そう問うと、市左衛門は項垂れた。

「仕方がございません」

 咽喉の奥から、絞り出すような声だった。

「あなた、そんな……」

 妻のおさいは、泣きながら夫にしがみ付いた。

「仕方がないじゃありませんか。もうこれ以上、みなさま方にご迷惑はおかけできませんよ」

「でも、そんな……、あなたは、あの子が可愛くはないのですか? あの子が、火罪になるかもしれないんですよ?」

「仕方がないでしょう」、市左衛門はおさいを怒鳴りつける、「これ以上、みなさまにご迷惑をかけたら、御店の名にも傷が付きます」

「御店って……、御店と娘と、どっちが大切なんですか?」

 市左衛門は、一瞬困ったような顔をした。

「ど、どっちも大切ですよ。ですが、私も、お前も、お七も、お客様の信用で食べていけてるんですよ。私たちだけではない。奉公人だってそうだ。その信用を失ったら、明日から路頭に迷うんですよ。それに、あの子をあんなふうに躾けたのは、お前さんじゃありませんか」

「ひどい、そんな……、すべて私のせいですか?」

 小次郎たちそっちのけで始まった夫婦喧嘩に、栄助が二人を怒鳴りつけた。

「止めねぇか、おめえら! 秋山様の前だぞ」

 市左衛門は慌てて頭を下げ、おさいは再び泣き崩れた。

 小次郎は、やれやれと苦笑いして毛の生え際辺りを掻いた。

「で、その娘っ子は?」

「へえ、奥の板の間に」

 小次郎は、上り框を上がり、市左衛門とおさいの間を抜けて障子を開けた。

 目が釘付けになった。

 三畳ほどの薄暗い部屋の真ん中に、青白い顔をした娘が静かに座っている。

 体躯は父親に似て結構いい。

 下膨れした顔に、小さな目が可愛らしい。

 口元は小さいが、ぷっくりと膨らんだ下唇が妙に色っぽかった。

 全体的に生気がないように見えたが、その目だけは異様なほどに美しく、輝いて見えた。

 こんな娘っ子が、付け火なんかするものかと、小次郎は訝った。

 そのときだった。

「旦那、大変です!」

 貞吉の素っ頓狂な声がした。

「何でぃ?」

「火付改の同心さかき様です。小者の辰三たつぞうも来やしたぜ」

 小次郎は眉を顰めた。

「くそ、相変わらず鼻だけは良く利きやがるぜ」

 表に出た。

 本郷の道筋から鬼瓦のような顔をした男と、その後ろに犬のような顔をした男が早足で駆けて来る。

(相変わらず食えねぇ顔をしてやがる)

 小次郎は鼻で笑った。

「これは榊様、お急ぎのようですが、何用ですかな?」

 火付改の同心榊一蔵いちぞうは、ぎっと小次郎を睨みつけた。

「おおよ、この辺りで火付けがあったと聞いてな、出張って来たわけよ」

「左様で。しかし、何かの間違いでは? 拙者も、その噂で駆けつけましたが、そのような輩は捕まっておりませんでして」

 一蔵は、胡散臭そうな顔で小次郎を舐めるように見ている。

「臭えな、どうにも焦げ臭えぜ、えぇ? 秋山よ」

「いつも火付けなんざ追い駆けてるから、鼻に匂いが染み付いてるんじゃありませんか?」

 小次郎も、嫌味の一つを言ってやる。

「秋山よ、火付けは我等火付改のお役目、そのお役目を邪魔するようなら、例え町同心といえども容赦はしねえぜ」

 一蔵は、行き成り十手を取り出した。

「榊様、十手を振り回しゃ、誰でも言うことを聞くと思ってるところが、火付改の悪い癖だぜ」

 小次郎も身構える。

 いつの間にか、二人を遠巻きに野次馬の輪ができている。

 すると、自身番の中から、

「痛てて、なにしやがんだ、このあま!」

 と、貞吉の声がしてきた。

 しばらくして、貞吉と栄助が、板の間に座っていた娘に縄を掛けて自身番から出て来た。

「あいたたたぁ!」

 貞吉は、わざとらしく自分の右手をしきりに見ている。

「どうしたい、貞吉?」

「へい、この娘っ子が暴れて、俺の手を噛みやがって、おぉぉいて。暴れた罪で、縄を掛けました」

「そうかい。ご覧のとおりですぜ、榊様。こいつは火付けじゃねえ、娘っ子が暴れただけですぜ」

「なんだとてめえ」

 一蔵の腰巾着、辰三が前にしゃしゃり出た。

「止めとけ」

 それを一蔵が止めた。

 一蔵が鼻先まで顔を近づけてくる。

「秋山よ、あんまり図に乗るなよ」

 と、臭い息を小次郎の顔に吹き付けた。

「行くぞ」

 一蔵は辰三を連れ、野次馬を押し分けて去って行った。

 それを見送った小次郎は、貞吉に言った。

「良くやったな、貞吉」

「へえ、雑作もねぇことで」

 貞吉は頭を掻いた。

 小次郎は娘を見た。

 娘の焦点は合っていない。

「このまま自身番に置いておくと、また火付改が煩かろうて。取り敢えずは大番屋に移すが、良いな?」

「よろしくお願いします」

 市左衛門は、神妙な顔で頭を下げた。

「おい」

「へい。おい、行くぞ」

 貞吉が娘の背中を押す。

 が、どうにも足下が覚束ない。

 まるで酔っ払っているようにふらふらと歩く。

 草履も脱げる。

 そのたびに、栄助が草履を履かせてやるのだが、すぐに脱げてしまう。

 しかたなく、裸足で歩かせる。

 娘の哀れな姿に、おさいが叫ぶ。

「お七~!」

 駆け出そうとするおさいを、市左衛門が必死で止めた。

(やれやれ、仕事とはいえ、いやな勤めだぜ)

 涙と絶叫に、小次郎はやるせない気持ちになった。
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