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其の参拾玖の弐

倭箸陵の戦い(下)

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下つ道に陣を構えた紀臣阿閉麻呂は、全軍に緊張を
持って敵が来るのを待ち受けるように命じてから、
下つ道の北から進軍してくる敵を待った。
半刻ほどもしないうちに敵兵の姿が見えてきて、
三里ほど向こうで軍が進行を止めた時に
敵軍の金で縁取られた白い布に大陸風の書体で
紀と書かれた旗がはっきりと見えた。
この旗は紀臣大人の物であったので、
紀臣阿閉麻呂は少し拍子抜けしてしまった。
ちなみに紀臣阿閉麻呂の旗は赤い布に
やや崩した書体で紀と書かれた旗なので、
向こうもこちらが紀臣阿閉麻呂であることは
その旗から分かったはずである。
まぁ、拍子抜けしたかどうかまでは分からないが…。
しばらくして向こうから騎兵が一人飛び出して来て、
近づくに連れて竹竿に木簡を挟んだものを
左右に振りながらこちらに向かって駆けて来る。
見たところ戦闘意欲は見受けられないので、
紀臣阿閉麻呂は全軍に待機を命じたまま
その騎兵を陣中へと招き入れた。彼の告げた用件は、
紀臣大人が紀臣阿閉麻呂と机上戦を行いたい
との事だったので、紀臣阿閉麻呂はこれを快く
了解した。両名はお互いの陣のちょうど中間に
あたる道の真ん中で、楯で机を拵えてお互いの
戦略を机上において展開し始めた。
「もう決着はついているが、どうする」と
紀臣阿閉麻呂が口を開いた。決着がついているとは
机上戦の話ではなく、実際のこの戦のことであった。
紀臣大人は渋い表情をしながら騎兵に当たる
駒を動かしてから「勿論。大海人皇子の作る
政を支えたいと思っているし、そもそも私は
改革を進めたいと思っている」と応えた。
それを受けて紀臣阿閉麻呂が歩兵に当たる駒を
紀臣大人の動かした騎兵に当たる駒の側面に
動かしてから「では、大海人皇子に
取り次ぐことにしよう」と言ったので、
紀臣大人は動かした騎兵に当たる駒を
後ろへ戻してから「お願いしたい」と応えてから、
不敵な笑みを浮かべて「だが、ここは実際にやったら
私の勝ちのようだな」と付け足して言ったので、
紀臣阿閉麻呂が笑みを浮かべて「では、やってみるか」
と誘いかけると「馬鹿を言うな。全体で
負けているのだから意味がない」と紀臣大人は
答えてから、ゆっくりと席を立って改めて
真剣な表情で「よろしく頼む。あ、それから耳が痛いぞ」
と言ったので、「そうであろう。何せ
裏切るわけだからな」と紀臣阿閉麻呂が答えると、
紀臣大人が首を横へ振ってから、仕方ないやつだ
と言う表情を浮かべ「そうではない。
声が大きいからだ」と言ったので、
紀臣阿閉麻呂は何故か恥ずかしくなって
「すまん。生まれつきでな」と小さな声で言った。
それを聞いて紀臣大人は「小さい声も出るのだな」
と言って揶揄すると、紀臣阿閉麻呂は
「止めてくれ。耳が痛い」と返した。それから
紀臣大人は一礼してから自らの陣へ戻っていった。
それを見届けてから紀臣阿閉麻呂も自らの陣へ戻り、
兵たちに倭古京への帰還を命じた。

中つ道に陣を構えた大伴連吹負の軍は、やはり今回も
苦戦を強いられていた。これは吹負たちが到着した時には、
すでに犬養連五十君(いぬかいのむらじいそきみ)は
村屋に陣を構えており、吹負軍が隊列を組もうとした時に、
すでに一里ほど手前に待機していた敵の弓隊が
一斉に矢を放って、吹負たちの妨害をし始めたので、
即時に弓隊への対応に追われることになった。
それで弓隊をどうにかしてから隊列を
組めたならば良かったのだが、さらにそこへ
廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)率いる
鯨部隊の騎兵二百名による突撃があって、
始まる前から一気に混戦状態になった。吹負が状況に
翻弄されて困惑状態に陥ってから、自らの意志で
一呼吸をおいて冷静さを取り戻した時には、
御行の姿も自分を守る兵たちの姿もなかった。
どうしたものかと探してみるとかなり離れた場所で
押し寄せる敵を追い払う御行の姿が見えた。
そこで一安心している所へ、鯨部隊の騎兵が
目の前にいるのが吹負だと分かって、
勢いづいて迫ってくる。鯨部隊の騎兵が
二間ほど手前まで来た時に、吹負は今度こそ
もう駄目だと思いつつも剣を抜いて
これに対峙せんとした時、吹負の目の前で
鯨部隊の騎兵は馬から転がり落ちた。
吹負がふと後ろを振り向くと大井寺の奴の徳麻呂と
その仲間たち五人が、正確に狙いを定めて次々と
鯨部隊の騎兵を射落とし始めた。
徳麻呂が吹負に近づき「ご無事でしたか。
申し訳ありません。仲間の一人が腹を下しまして、
皆で介抱しておりましたので遅れました」と告げたが、
九死に一生を得た吹負は辛うじて「有難い。助かった」
と返すだけが精一杯だった。大井寺の奴の徳麻呂と
その仲間たち五人の矢に怖れを抱いた廬井造鯨と
鯨部隊の騎兵は、言うまでもなく退却をし始めたが、
運悪くその時に上つ道で大野君果安軍を追い払った
三輪君高市麻呂と置染連兎と兎団、それから
よく分からない楯を着込んだ大男を先頭にした
敵が横から雪崩れ込んで来たので、退却どころか
大混乱に陥った。そんな中でも鯨部隊の
騎兵と違って、少しは冷静さを保っている
廬井造鯨が、何とか道を外れて逃げようと
馬を動かしたところ、馬の脚が泥田に嵌り込んで
進退窮まってしまった。それを見つけた吹負は
先ほどのお返しをしてやると言わんばかりに
「あそこに見える白馬に乗った者が
廬井造鯨である。すぐにあの者を射よ」と叫んだので、
これを受けて甲斐の勇者がみずからが射止めんと
弓を構えながら廬井造鯨に近づいていった。
これに気づいた廬井造鯨は、顔面蒼白となって
狂ったように意味不明の言葉を口走りながら、
馬の手綱を手繰り寄せ、手繰り寄せ、
馬首を引き上げて揺さぶり、揺さぶり、
必死に叱咤しつつ、その臀部を激しく鞭打ち
その場から離れんと半狂乱の状態。あと少しで
甲斐の勇者が確実に仕留められる所まで近づいた時に、
辛うじて馬の脚は泥田を抜けて自由となり、
そのまま全速力で北を目がけて駆けて行った。
頭が離脱したことに気づくと鯨部隊の騎兵も
次々と戦線を離脱して逃げて行く。
犬養連五十君の軍は鯨部隊苦境を知って
すぐに撤退したようであり、とっくに姿を消していた。
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