蒼き流れの中で

白い黒猫

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十四章 〜想いとズレていく現実〜 カロルの世界

愚行の代償

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 ―――旅立ちを笑顔で見送ろう、再会の日までのしばしの別れ―――

 心地よい暖かさの中でまどろむカロルの耳に柔らかい歌声が入ってくる。この時は分からなかったが、カロルは今なら分かる、コレはマレの歌声。奥宮で会った時ではなくもっと昔の記憶。幼い赤ん坊のカロルはこの歌声の中、眠るが好きだった。自分を見下ろし優しく笑う声。
『カワイイ寝顔』
 自分を見守ってくれる視線の中で安心しながら眠りの世界へと落ちていく幸せな時間。
 カロルは眠りながらさらに記憶の海を泳ぐ。
『お願い、そんなに暴れないで。お母さんが苦しいから。生まれてきた後、君が満足するまで思いっきり遊んであげるから、今はいい子にしてね』
 自分を包む温かい水越しに聞こえてくる声。お腹の中にいるカロルにずっと語りかけて来た声。それが何故か今記憶から呼び起こされる。
 これらの声もマレ。自分へ向けられた高くもなく低くもない心地よい声。時間はさらに進む。
 柔らかい何かに小さな唇で吸い付き、カロルは必死に何かを飲んでいる。弟がフラムモーにしていたように。鼻腔に甘くミルクの香りを感じる。
『美味しい? そんなに必死に飲んで』
 優しさと愛情の籠った言葉。クスクスと笑い合う二人の人物の気配。カロルは幸せに包まれる。まだ歩く事も、満足に世界を見ることも出来ない時代、触覚と味覚と嗅覚と聴覚のみで感じる記憶。それらは暖かい優しさに満ちている
 夢を見ながら思う。自分は何故マレから愛されていないのでは? と馬鹿な事を考えたのだろうか。赤ん坊の時からこんなにも愛してくれていたではないかと。しかも何故自分はこんな素敵な時間を忘れていたのか?
 あの再会の日、奥宮で自分を見つめ細められる青い瞳。切なげに呼ばれる自分の名前。それだけで自分に欠けていたものが見つかり満たされた気持ちになった。あの時の事を思い出し嬉しくなって涙が出てきた。そして泣きながら目を覚ます。温かい涙で頬を濡らしながら。
 マレは逃げたけど、自分で戻ってきたという。つまりはカロルを捨てられなかったからだ。しかしソーリスはマレに罰としてカロルから引き離した。三十年間会えなかったのはそういう事情。そんな年月経ても、カロルにすぐ気付きその名を読んでくれたマレ。それこそがマレがカロルを思い続けてくれていた証拠。カロルは涙を流しつづけながら天蓋をただ見上げていた。

 ✳   ✳   ✳

 あのような事があった後でも、自分の世界は何一つ壊れてなんておらず、殆ど変わっていない事を確認してホッとする。マレはまだ体調は良くないという事でお見舞いは出来ないけれど無事だという。マレの研究室を覗くと、もう綺麗に掃除された後のようで、いつもと変わらないように見える。ただ今はマレがいないだけ。でもすぐに戻ってきて、また変わらぬ日常が戻ってくる。カロルはそう自分に言い聞かせる。
 マレの部屋を見つめていると、あのアミークスの少年が声をかけてきた。彼は昨日取り乱して無様な姿を見せた事を謝罪してくる。カロルとしては色々思う所はあったが、別に何も気にしてないからと答えておく。何か感じてしまった事を、自分の中で無かった事にする為に。相手の茶色の瞳がジッとカロルの顔を心配そうに見つめてくるのに戸惑う。カロルは己の心の中の困惑を見透かされているような気がして目を逸した。
「実は、シルワ様からの伝言があります。カロル様にフラムモー后への面会を許可を頂けました」
 カロルは、自分が傷つけそのまま謝る事も出来なかった友の事を今更のように思い出した。どんなに頼んでもまったく取り合ってもくれなかったシルワがその事を許可してくれた事にも驚く。
「え! 本当に?!」
 少年は真面目な表情で頷く。
「しかし、条件が少しありまして」
「もう勝手な事しない。フラムモーには紳士で接しろとかだろ?
 分かっているって! 馬鹿なことしないよ! とにかく俺はアイツに謝りたいんだ! 俺の考えなしの行動で傷つけ泣かせてしまったことを。それだけだから」
 少年は眉を少し寄せながら笑う。
「あと、私とイービス様も同行するなばと言われていまして……」
 言いにくそうに少年は言葉を続ける。
「……もしかしてお前、シルワに掛け合ってくれたの?」
 カロルの言葉に困ったように笑う。別に本当に困っているというより、元々こういう感じの笑い方する人のようだ。
「ありがとう」
 少年に驚いた顔をされるが、なんか今日は素直にそう思えた。少年はまた困ったように笑う。
「あ、花とか持って行った方がいいかな? フラムモーに」
 その言葉に柔らかく笑い『喜びますよ』と答える少年の顔にカロルはハッとする。何故かそれがマレの表情が重なったから。マレのような華やかさや美しさがまったくないのに、何故か似ていると感じてしまった。そんな馬鹿な考えを振り払うように首を横にふる。そして自分がすべきことを、思い出す。
「ならば花とってくる! だから待っていて!」
 慌ただしく出ていくカロルの背中に少年は声をかける。
「私は研究所ここで仕事しておりますから、ご用意出来ましたらお声をかけ下さい」
 カロルはその言葉を最後まで聞くこともせず研究所を飛び出していった。

 野山で花を摘みながら、マレが奥宮にいた時もこうして花や草を探して持っていった事を思い出す。マレはそれらをとても喜んでくれていた。マレが見舞いに行けるほど少し元気になったらマレにも花を持っていきたいなとも思う。そう考えるとだんだん楽しくなってくる。心の底で蟠っている嫌な気分も薄れてるいく気がした。

 研究所に戻り、あの少年を探すが見つからない。人に聞こうにも名前を知らない事に気がつく。仕方がなくイービスの居る場所を尋ねてそこにいくと、あの少年も共に仕事をしていた。イービスはカロルを見て露骨に嫌そう顔をする。
「そこで暫く待ってろ! 皆お前みたいに暇ではない。俺もシワンも后もな。それに今フラムモー后は医療チェック中だと聞いている」
 そう言われたソファーを指さす。二人と一緒にであることが、今日会う条件は二人が一緒にということなので大人しく待つことにする。カロルは一刻とすこし待たされた後に、ようやく離宮へと向かうことができた。やっとフラムモーに会えるので、待たされる時間も苦ではなかった。本当に二人が忙しいという事はよく分かったという事もある。仕事をするという事がまだ実感として分からないカロルにとっても、それは思ったよりも長閑でもないようだ。その事を口に出すと少年は困ったように笑う。
「今日はシルワ様とマレ様が急遽不在となっている事もあり、多少混乱をしていることもありますね」
 マレが怪我でいないのは分かったが、シルワまでいないことに驚く。
「シルワはなんでいないの?」
 イービスは呆れたように息を吐く。
「トゥルボー様が十二位議会招集を求めた。それで今、会議中だ。昨日の事件について話し合われるのだろう」
 なるほどとカロルは頷く。爵位を持つ全員が定例会ではなく招集される。かなりの異例事態である。という事は父ソーリスも会議中。昨日の事はカロルにとってだけでなく、社会全体にとっても大変な事だったと察する。しかしそういった動きもカロルと関係なく進行していく。

 数日ぶりに訪れた離宮は、前と殆ど変わりない。異なるのは弟が一回り大きくなったように感じる事くらいである。というか元々あまり気にしておらず、見ていなかった事もあり、改めて見てその変化に気が付き驚いているだけの状況である。
 フラムモーは訪れたカロルに怒りや怯えといった表情を見せる事なく笑顔で迎えてくれることに安堵する。謝罪するカロルの言葉も優しく受け入れ許し、花も受け取ってくれた。その視線をチラリとイービスの方に向ける。
「イービス様、先日はありがとうございました。
 お見苦しい姿お見せして」
 イービスはカロルに見せるのとはまったく異なる、柔らかな笑みをうかべ首を横に振る。こういう表情をするとイービスはトゥルボーによく似ている。カロルよりイービスの方が弟だと言われる方が自然に思える程。そこもカロルがイービスを嫌うところであった。
「いえいえ、美しい貴方のお供が出来て光栄でした。もうお身体の方は大丈夫ですか?」
 そんなイービスをフラムモーは何故か面白そうに見ている。カロルはそんなフラムモーに『コイツの優しさは表面的になものだけで、裏はいけ好かない嫌味な奴だぞ!』と声を大にして教えたくなるが、今日はあまり波風立てるのは得策ではないので耐えた。
 フラムモーをイービスはソファーに誘い、四人で向き合ってお茶会が始まる。フラムモーは甘える赤ん坊を次女に任せる事はせずに胸に抱いたままにカロルとイービスに向き直る。
「あの、マレ様はご無事なのでしょうか?」
 フラムモーが時候の挨拶もなく聞いてきたのはその事だった。実はカロルからの謝罪の言葉よりフラムモーが求めていたのはその質問に対する答えだった。
 ここにもその情報が伝わっていたことにカロルは驚きつつも、自分自身もマレの詳しい状況がよく分かっていないだけにイービスを注視する。イービスはフラムモーに真面目な顔で頷く。
「午前中にマレさまの診察も行われたようです。まだ意識はないようですが問題ないということです」
 意識がないという事に、他の三人の表情は固くなる。
「かなり身体と精神に負担がかかった状態であるので、完全に意識を閉じる事で、身体を回復のみに集中させる。良くある現象です。それに昨晩ソーリス様がかなりの量のルークスのフォルクタースを与気をされたという事もあるので意識がないのはその影響もあるかと……。
 ルークスは生命の力と同意。その分回復も早いでしょう」
 カロルはその言葉を聞いて安心したが、正面に座るフラムモーは何故か顔を赤らめ、少年は複雑な表情をし目をイービスから逸らした。少年は気分を落ち着ける為かフーと大きくため息つき、イービスに視線を戻す。
「ところで、議会によってコレからどうなるの? あの男はちゃんと裁かれるの?」
 カロルは昨日から、このアミークスの少年が大人しくもなく意見や質問を激しくしてくる事に驚いていた。しかも敬語ではなくはなしかけているアミークスにイービスそこには気にする様子もない。いつもは二人はこのように話しているのだろう。
「議会が開かれたという事で、あの男はますます普通に済まない状況になったとも言える。個人的で身勝手な感情で人を殺そうとした。それだけで処刑されることは間違いないが、今回の件はそれだけではない。
 牢獄内でひっそりと服毒とかギロチンなんて優しい形には終わらないだろう」
 カロルはそれは当然だと思う。生きたままジワジワと燃やすとかくらいまでしてもらわないと気が済まない。
 前の二人は黙り込み何か考えているようだ。
「今回の事はソーリス様への叛逆行為とも言うべき事。ソーリス様も温情をかける意志は全くなく、見せしめの意味からも、あの男にとって最高に苦しく残酷な罰となるのは間違いない。だから安心して欲しい」
 イービスは悩む二人に、朗らかで人の良さそうな優しく笑みを向ける。そう言われた二人はそんなイービスを見てぎこちなく笑った。暫く不自然な沈黙が支配する。
 そんな空気に耐えきれず、カロルは口開く。
「そう言えば、お前! 名前なんて言うの?」
 カロルに話しかけられ少年はビックリしたような顔を返す。
「私ですか? シワンと申します」
 聞きなれない不思議な響きの名前に首を傾げる。
「なんか、変わった名前……」
 シワンは、そう呟くカロルに気を悪くする様子もなく、少年はフフと笑う。
「そうですよね。マレ様の故郷の言葉なようです。【希望】を意味するとか」
 シワンがどこか誇らしげな顔に見えるのはカロルの気の所為ではないようだ。そしてカロルには【シワン】という異国の香りのするそ言葉がとてつもなく素敵な響きの言葉に思えて羨ましく感じる。
「いいな! シワンはマレ様が命名されたの?」
 フラムモーの言葉にシワンは照れたように笑う。フラムモーとカロルと同じ気持ちだったようだ。
「俺の場合、母親が名付ける事も叶わず死亡したから。マレ様が代わりにつけて下さったんだと思う」
 そうフラムモーに返事をするシワン。その砕けた会話からこの二人の仲良さを感じる。コレが兄弟というものなのだろう。
「フラムモーは違うの?」
 思わず聞く俺にフラムモーは笑い頷く。
「私は産みの親につけて貰いました。子供に母親が命と共に名前を与えるのが一般的なので」
「そうなんだ……ならば俺の名前は?」
 半分期待を込めてカロルはチラリとイービスを見る。
「ソーリス様かシルワ様では?」
 あっさり期待とは異なるイービスの言葉にガッカリする。それが悲しい訳ではないが、残念に思えて仕方がない。
「え、そうなんだ」
「ノービリスの名付けは基本父親がするものだから、あとは研究所内で妊娠中に記録を取る為に仮で付けられている名前がそのまま名になるパターンもあるけど。お前くらいの能力の高さがあると命名にソーリス様かシルワ様が関わっている可能性が高い」
 イービスは冷静な言葉で説明してくる。なんか自分が求めている命名の流れとは違う気がしてカロルはウーンと声を出して首を傾げる。フラムモーは腕に抱く子供に笑いかける。
「この子もソーリス様に名付けて頂きましたから」
 前は泣いているか寝ているかしかしていなかった弟だが、今日は起きていてフラムモーの腕の中でニコニコと笑っている。赤ちゃん時代のカロルのように、母親の腕の中で安心しきった様子で。以前より弟が周りに反応して表情を返して居るのだと気がついた。明らかに母親というものに甘えて、相手から望む反応を受け喜んでいる。言葉では無理にしても他者との交流が出来るように成長している。そういった様子を見ていると、不思議と可愛くも見えてくる。
「ソイツ、大きくなったよな」
 しみじみと言った声で言うカロルの言葉に嬉しそうにフラムモーは笑い、息子を慈しみ深い表情をして見つめ笑う。その笑みに弟は無邪気な笑顔を返す。愛し合った相手とでなく伽によりできた子供であっても愛情の籠った目を向けるフラムモーの表情にカロルこ心に不思議な喜びの感情がひろがる。やはり母親というものは子供を愛するものだと認識出来たから。
「フラムモーにとって、その子はどういう存在? カワイイ?」
 フラムモーはカロルにの質問に驚いたような顔をして、息子に視線を戻しその視線の先にある笑顔をみて柔らかく笑う。
「可愛いですよ! 息子ですから。私の中で誕生し育ち、こうして無事に生まれた。どれ程その事が嬉しかったか……。
 この子が産まれてくれたから、私はもう一人ではないと思えるようになりました」
 微笑ましそうに見つめていたシワンの顔が、少し歪められる。
「マ……フラムモー! 今までもこれからも君は一人ではないよ。俺だっている。俺はこの感じだと明らかに君より長生きするし」
 シワンの言葉にフラムモーが、クシャっと泣きそうに顔を歪めた。
「ありがとう。そうだよね」
「それに……アイツもいつも君と共にいるよ……」
 顔を見合わせ仲良く話す二人の様子が羨ましい。カロルとフラムモーの会話に、割り込んで来たことも面白くない。
「俺だっているし! 俺はコイツらと違って暇だからココにも多く来れるから」
 カロルはフラムモーと意識を自分に戻す為にそう主張する。そこで夢の中のマレの言葉が浮かぶ。『産まれてきたら、いっぱい遊んであげる』結局は叶わなかった事。前にいる弟に視線を向ける。
「俺は一番ソイツとも一緒に遊んでやること出来るし! あとさ、子供って手がかかるらしいぞ! ソイツも大きくなったら遊び盛りでヤンチャになり、寂しいなんて言ってられなくなるよ! だから俺が手伝ってやるよ」
 カロルはフラムモーにそう訴えかけ自分をアピールする。
 その言葉に隣のイービスとフラムモーは皆驚いたようにカロルを見つめてからイービスは吹き出し、フラムモーはフフっと笑う。シワンだけはジッとカロルを見つめていた。
「なんだよ!」
「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」
 フラムモーが笑いながらそう答える。その言葉が敬語であることが少し寂しかった。しかし、フラムモーのために自分が出来る事が、見つかった事は嬉しかった。コレからもっと心を開いて付き合い、距離を縮めて親友となっていけば良い。そう考え『任せとけ』とカロルは答えた。

 ✳   ✳   ✳

 その次の日、カロルの兄であるらしいニヒルの罪状と刑の執行内容が公示された。
 ジベットと呼ばれる人の形した檻のようなものに入れられ七日吊るされた後処刑となるという。カロルは思ったよりも甘い処罰にガッカリした。轡で言葉と自殺して逃げる道を封じられ、封術で力も無力化された状態で、処分を言い渡され老人は激しく暴れ轡されながらも何かを、訴えるように叫ぶ。しかしそんなニヒルを見つめるのは怒りや憎しみに満ちた瞳のアミークスと、あからさまに貶すんだ表情のノービリス。老人は必死に抵抗するが体格も良い刑吏二人に手際よく鉄で出来た枠のような檻に嵌め込められる。頭部分の檻を閉じられ、身体部分も閉じられ留金も締められると、老人は直立不動の姿勢から身動きが取れないようになる。頭部が固定されているために俯くような仕草すら出来ない。両肩と腿部分に身体の前面から背後にかけて打ち込められた杭のような金属により柵に固定される。吊るした時に身体がズレないように。身体が金属の棒で貫かれるたびに、痛みと衝撃からかくぐもった悲鳴をあげるが、誰からも同情すらされていない。しかも痛みに身体を捩り悶える事も出来ないし、身動き出来たとしても更に苦痛を感じるだけという状態で広場の中央に吊るされた。七日後頭部分と身体部分を繋ぐジョイントにある鍵紋が外され絞首刑となるという。頭部と胴体の二つの部位を納めた檻を繋ぐ鎖があるが、それは首が金属の檻に包まれた身体の重さに耐えきれず、万が一千切れるような事があっても身体部分が落下する事を予防するためのものであって、罪人の命を救うものとはなっていない。

 男は広場の中央に吊るされ、最初こそ声をあげて苦しんでいたが、次第にその声も小さくなっていく。顔を轡と痛みで歪ませ、肩と股の辺りの衣類を赤く染めていく以外の変化もなくカロルは見ているのも飽きてくる。皆もそうだったようでその異様なオブジェも一時間もしたら風景の一部のようになりそれぞれの日常生活に帰っていく。広場を、通る際にチラリも視線を向け老人が尚も苦しんでいるのを確認してそれをあざ笑いながら去っていく。傷が痛むのか、体勢が苦しいのか、それとも単に風に揺られただけなのかジベットは小さく揺れキィキィと不愉快な音をたて続ける。

 罪人は結界で護られており、気をぶつけても、石を投げても傷つけられない。ただそこで吊るされ続け、人の視線に晒されているのみ。カロルは見ているだけで何が出来るわけもないのでつまらなくなり立ち去ろうとした時、離れた塔から老人を静かに見続けている人物がいたことに気が付く。兄のトゥルボーである。蔑すむ訳でもなく、怒りを帯びている訳でもなくただ静かにジッと見つめている。
「トゥルボー兄さん」
 カロルは塔に上り声をかける。会話するのも三年ぶりくらいであることに気がつく。トゥルボーは弟の姿を認めカロルがよく知る優しく男らしい笑みをむけてくる。
「お前もここにきていたのか。もう流石に気が付いているかもしれないが、彼が俺達の兄であるニヒルだ」
 カロルは思いっきり顔を顰める。あんな能力もなく愚かな男と血が繋がっているなんて、そんな事認めたくもない。
「もう死ぬんだし、関係ない」
 カロルがそう返すとトゥルボーは眉を寄せる。何故自慢の兄が、あんな出来損ないな存在を気にかけるような表情をするのかも理解出来なかった。
「だって、もう何の価値もないだろ?」
 カロルの言葉にトゥルボーは目を細める。
「そうでもない。俺にとってはなかなか興味深く面白い存在だった。色々学ぶ所もあったしな」
 トゥルボーは過去形で自分の兄を語る。
「あんな奴から、兄さんが学ぶ事なんてあるとは思いませんが」
 トゥルボーはらしくなく人の悪い笑みでカロルを見下ろす。
「寧ろお前の方が、彼から学べき事は多いのかもな。カロル、お前は兄でもあるあの男をどう思う?」
 そう言いながらニヒルへと視線を戻す。
 カロルは改めて苦痛に身体を細かく震わせ吊るされている老いぼれたニヒルに視線を向ける。マレにしたこと、あの時口にした許し難い事が蘇り憎しみが再燃する。
「マレにした事が許せない! もっともっと杭を刺して苦しめてやればいいのに、甘いよこんな緩い刑罰。火あぶりとか首を落とすとかなかったの?」
 顔を動かさず視線だけトゥルボーは向ける。
「分かってないな。火刑や断首、そちらの方がよっぽど優しい刑罰だと。
 あと処刑はあくまでも公的な罰だ。単なる暴虐で行えば無道となる。
 そしてカロル……」
 トゥルボーに名前を呼ばれるカロルは顔をあげる。トゥルボーは真面目な顔でカロルを、見下ろしていた。
「感情だけで世界を見ると、物事を見誤るぞ」
 言っている事の意味がイマイチピンと来なかったのでカロルは首を傾げる。
「理性的な視野でちゃんと見ろ。あの男がやった事に対してうけた感情ではなく、あの男自身をみろ! 何処が愚かで、何故生きるべき道をまちがえたのか? ちゃんと見て、考えて、その答えをお前の糧にしろ」
 カロルはそんな答えは既に考えるもなくカロルの中にあるとこの時は思っていたから聞き流して、ただ頷いた。尊敬しているトゥルボーが何故カロルにこの時こういう事を言ってきたのかも深く考えもしなかった。あのニヒルという男が単に【無能な馬鹿】だから。それだけ。それがカロルのこの時にだしていた答えだった。
 しかし自分がニヒルと変わらず愚かで馬鹿な人間だったと後に嫌な程痛感することなる。
 身近に有能な兄がいて本来こう有るべき理想の姿という素晴らしい見本をみせており、罪人となった兄という解りやすい反面教師がいた。にも関わらず何も学べず生かせなかった事がカロルの失敗で、最悪な愚行への道を歩んでいることにも気付いていなかった。
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