蒼き流れの中で

白い黒猫

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九章 ~鼓動の先~ キンバリーの世界

傷を介して交差する

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 キンバリーは心を落ち着ける為に、大きく深呼吸する。それ以上の動揺を避ける為に遠見を中断して、薪拾いの作業に集中する事にする。あれ以上自分が見ても良い状況ではない。大人な事をしているのにそれを覗いてアレコレ言うのも無粋というものだろう。取り敢えず合流する前に落ち着かないといけない。キンバリーは何度目になるか分からない深呼吸をする。
 背後にパキっと枝を踏む音で振り返る。そこに今一番会いたくない相手が立っていてドキリとするが、その動揺を隠し、笑みを作った。
 イサールはいつもの笑顔で笑いかけてくるが、キンバリーは別のことが気になった。その白い頬に痛々しい引っ掻き傷ができていた。キンバリーの視線に気付いたのだろうイサールは苦笑する。
「マギーにやられました」
 愛称で呼んでいる事にキンバリーの心が揺れる。その美しい顔や目を見ていられなくて傷だけを見つめることにする。爪でやられたにしては深い。指輪が引っかかったのだろうか? 抉れていてかなり痛そうである。傷を観察する事で良く分からない吹き荒れる感情を落ち着かせる事に必死だった。
「見ていたから分るでしょう。彼女は本当に無茶苦茶だ。『女との本当のキス教えてあげる』と突然キスしてきて、コチラが普通に応えたら引っぱたいてくる」
 余りにも普通の事のように軽く言ってくるイサールにキンバリーはどう反応して、どこから聞くべきか悩む。何故マグダレンとそう言う会話の流れになったのか? 何故それにイサールはあっさり応えたのか?
「もしかして、イサールって童貞?」
 色々悩んだ結果、一番どうでもよく、そして恥ずかしい事を聞いてしまい、キンバリーは慌てるしかない。処女のキンバリーが聞く事でもない。イサールも驚いた目をするが直ぐに笑い出す。余計にキンバリーは恥ずかしくなった。
「伽はまだですが、それなりの経験はしています。まさかこの年で童貞と思われているとは……」
 自分で聞いていながら恥ずかしくなりキンバリーは俯く。同時に経験豊かだからこそ、簡単にマグダレンとのキスに応じたと思うとムカついてくる。
「じゃあ、マグダレンとのことは遊び? 不誠実な付き合いをしようというのならば許さない」
 キンバリーとしては、娘として当然の苦情を真剣に訴えたのだが、イサールは呆気にとられた顔を返す。
「彼女とそんな関係はありません。有り得ないでしょう。
 そもそも身体の関係は一切ありませんし、キスしたのも先ほどのモノが初めてで、恐らくは最後でしょう。
 さっきも寧ろアチラが俺をからかってきてしたものですし。俺が慌てて動揺するとでも思ってやったのではないでしょうか。
 マギーは予想と異なり、平然とキスを返してきたからぶっ叩いてきたという感じ?」
 何となく想像出来るだけに、キンバリーはどう反応すべきか迷う。そんな事を娘である存在に冷静に報告するイサールもイサールである。
「分かりませんか? マギーは自虐的な事もしてくる。俺にキスなんて寒気する程嫌な筈なのにあえてそうしてくる。嫌がらせをするために。
 ほら、さっきから何度も唇擦って歩いている。そんなに嫌なら、そんなことをしなければ良いのに」
 イサールは森に視線を向けそう静かに言う。離れた所にいるマグダレンの様子を風の力を使い見ているのだろう。
 キンバリーの頭の中に先程の、キスシーンが甦がえりまたムカムカしてきた。キンバリーは深呼吸し落ち着かせる。
「マグダかそれだけ嫌な思いをする事を分かっていて、何故貴方はキスに応じたの?」
 責めるようなキンバリーの視線に、イサールは初めて申し訳無さそうな顔をする。
「キスはある程度親愛を覚えた相手にする行為ですよね、ですから応える事でコチラの友情を示せると思ったからです」
 友愛のキスって、頬とか額とかにするものだとキンバリーは思う。
「それで、あのキスはないでしょ!」
 イサールは、『ウ~ン』と顎に、手をやり何故か考え込んでいる。避けていたイサールの唇をうっかり見てしまいキンバリーは体温が上がるのを感じた。視線を慌てて逸らし頬の傷に戻す。そこはそこで痛々しくて別の意味で落ち着かない。
「ここでは多少その意味が違うようですね。俺にとって相手をそれなりに認め信頼しているから出来る行為という感覚だったのですが、少し認識を改めるべきですね」
「そこは、改めて! 一般的にああいうキスは男女の関係へ誘っているとしか思えないわよ!」
 キンバリーは、速攻訴える。少し詰め寄ったことで近い位置で感じるイサールの存在に我に返る。その顔を真っすぐ見てられなくて、再び傷に視線を戻す。
「すいません。今後は軽率な行動は慎みますから。反省しています」
 真面目な顔でそう言ってくるイサールを、見つめ返す事ができない。イサールもそんなキンバリーの様子に戸惑っていた。まだキンバリーが怒っていると思ったのだろう。謝罪の言葉をさらに重ねてくる。イサールのその言葉にキンバリーはだんだん落ち着いてきて、やっと目を合わせる事が出来る。そこには自分を見つめる静かな緑の目があるだけ。その瞳は優しく静かで悪い感情は見えない。そんな顔の何を恐れていたのだろうかとも思う。
「こ、今回の事は、貴方も自業自得です。とはいえマグダが先にしでかした事。しかも感情のままに貴方にこんな傷を負わせてしまった事は謝ります」
 キンバリーはイサールの頬にそっと手をやり、ゆっくりと傷に気を送りこみ細胞に干渉していく。イサールはキンバリーの治癒術を受け、目を見開く。しかし何も言わず目を閉じてその行為を受け入れた。
 キンバリーはそんな相手を見つめながら傷を媒体に交わるイサールの気の刺激を指先から受け『ホウ』と小さく息を吐く。それは今まで感じたことないくらいの強く、輝きに満ちていたものだった。
「なんて美しい、そして暖かくて心地よい」
 キンバリーの心に浮かんだ言葉が、イサールの唇から漏れる。視線を上げるとそこには翠玉のように美しい瞳がありキンバリーを写していた。その瞳に見詰められキンバリーの顔に柔らかい笑みが浮かぶ。イサールはキンバリーを見つめ眩しそうな表情を返す。無言のまま見詰め合い、気を交わす二人はただ相手の存在だけを感じ受け容れあう。
 治癒が終え離そうとしたキンバリーの手がイサール掴まれる。イサールは目を細め愛おしそうな表情でその指先に掌に優しく啄むようにキスをしてくる。その唇の感触にサワワと背中に刺激が走り身体の奥が疼く。
 キンバリーは顔を真っ赤にして、手を慌てて引く。
「だから、こういう事したらダメって言いましたよね?!」
 イサールはバタバタと手を動かし真っ赤な顔で慌てているキンバリーを見てクスクスと笑う。
「すいません。
 ……でも、今のは……」
「キミー!!
 美味しそうなウサギを捕まえたの♪」
 マグダレンの声が遮るように聞こえる。近くの草叢の所を見るとマグダレンが立っていた。キンバリーに笑いかけながら、イサールを睨みつけるという器用な表情をしている。気絶してグッタリとした二羽のウサギをキンバリーに誇らしげ示す様子はいつものマグダレンにも見えるが、近づき肩に回された手が強すぎる力でキンバリーを掴む。
 イサールへのあからさまな敵意。そこには、愛しさとかいう良い感情は一切感じられなかった。それなのに何故マグダレンはイサールにキスをしたのか? マグダレンは性に奔放な訳でもなく、寧ろ逆で頑なで潔癖なところがある。だからこそ伽すら拒否をし続けてきた。
 そもそもマグダレンの心にはずっと忘れられない誰かがいる。
《この男を信用してはダメ! あの笑顔に騙されないで》
 マグダレンはそう心話で話しかけながらニッコリとキンバリーに微笑んだ。キンバリーはうまく感情を言葉に出来ず返事ができなかった。
《見たでしょ? さっきの事。アイツは誰とでもあんな事が出来る。
 この男には、まともな心や感情がない。だから人を愛するなんて事も出来ない。愛する価値もない》
 キンバリーはそっと少し離れた所にいるイサールに視線を向ける。コチラを困ったように笑うイサールと目が合う。その表情は心や感情がないというような人のするものには思えなかった。

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