蒼き流れの中で

白い黒猫

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間章 ~狭間の世界~

絶望の渓谷

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 その渓谷の険しさは植物の生育すらも阻む。崖の途中の所々にしがみつくように僅かばかりの草が生えているのみ。この場所で動いているのは、過酷な環境に適応し僅かばかりの水と草を糧に生きる小さな動物だけである。
 半月の浮かぶ空の下、闇に沈む谷のくぼみにて、百人程の人間が眠っていた。彼らは鼠のように身を寄せ合っている。揺れる火に照らされた彼らの寝顔は夢の世界を漂うという穏やかなものではない。糸の切れたマリオネットのように生気がなく、近づいて息を確認しなければ死しているようにも見える。皆上質な絹の金糸と宝石が施された衣類を纏っているものの、何日も着替えていないのであろう。それは黒いシミが飛びホコリと汗と泥で汚れていた。

 たき火の側で腰を下ろした姿勢で眠っていた赤髪の少女は、薪の爆ぜる音で碧い瞳を開ける。そのまま静かに洞窟の中の様子に視線を巡らせた。闇に沈むくぼみの外をジッと見つめる。埃で汚れた赤い髪を紐で一つに簡単に纏めただけの姿だが、透き通るような白い肌と静かな大人びたまなざしが凜として美しい。埃っぽい洞窟が、少女がいるだけで神殿であるかのような神々しい空間にしていた。
 唇をキュッと引き締しめ、ジッと深い想いを秘めたその瞳は燃える炎の光をうけ揺れる。元は鮮やかな赤であったであろう膝まである上着は、焚き火の灯りでも激しく汚れているのが分かる。薄暗い洞窟の中では、墨をかぶったかのように黒ずんだその汚れ、実は血が飛び散ったもの。もう半年に及ぶ逃亡の間に、襲われて死んでいった仲間が流したモノ。それは汚れではなく少女にとって救うことのできなかった仲間の魂の欠片であり、彼女の心の涙の跡でもある。当てもなく逃げるこの旅に、神が導きし救いの未来など本当にあるのだろうか? 少女の心に絶望に近い不安が広がる。しかしソレを表情や言葉に出すわけにもいかない。

 ――神が必ずや我々に『約束の地』への道を示して下さる。だから前に進め――

 ソレを祈りの言葉と共に口にして、彷徨いつづけるだけ。
 少女は二色の宝石が柄についた剣を手にとる。周りの人を起こさないように、静かに音を立てないように立ち上がる。
「もう、交代の時間か?」
 たき火の向こうから男の声がする。たき火の反対側で寝ていた男が起き上がる。印象的な濃い蒼い瞳が少女をジッと見上げる。成人はかろうじて超えたくらいの年齢だろうか? 若いのに、その眼には無邪気さはなく鋭く冷めている。少女とよく似た足首がすぼまったズボンに黄色の長い上着を着ており、金糸など施され豪華であったであろうその衣装は、少女同様に忌々しい色の汚れを浴びていた。
 少女は首を横にふる。
「いえ、目がなんか冴えてしまったので、レニーの所に行ってきます」
 青年は眉を潜めジロっと少女を睨む。その瞳は少女に対して怒っているのではなく、案じての事。少女は口角をあげ笑いの表情を作り『大丈夫だ』と示す。しかし青年は首を横に振る。
「なら、まだ休んでおけ。時間まで眠れ!」
「大丈夫です。それにレニーの隣の方が安らぐから。レニーが今の段階でヤツらを察知していないということは、一刻は心配ないはずだから」
 青年はヤレヤレといったように大きく溜息をつく。
「お兄さんこそ、もう眠ってください。お兄さんが疲れたままだと、この後レニーがゆっくり眠れなくなります」
 あえてふざけた軽い口調でそんな事を言い、少女はそっと青年に近づき頬に口づけをする。青年は少女の小さい身体をそっと抱きしめ、その背を叩き見送る。青年は少女の姿が見えなくなると、横になり再び目を閉じる。

 くぼみを出る瞬間に、空気が震える。その感覚に少女は目を一旦閉じる。夜特有の刺すよう寒さが少女の身体を包む。簡易結界を出たことで、少女はそっと剣に手をやりあたりを伺う。堕人おちしひとの禍々しい気配は感じない。とはいえ少女の能力は探査には向いていないので、その探れる範囲も狭い。上を見上げ半月の僅かな明かりを頼りに、少女は近くの崖をカモシカのように身軽に跳び上がり登っていく。崖の半分辺りの岩場にまで来たとき、高台の上に今まで感じたことのない妙な気配を感じる。少女は身体を強張らせる。それは存在というには微かすぎるものだが、その気配に何故か怖じえ身体が震えるのを感じる。
《怖がる事はないよ。だからそんなに心配しないで》
 思念の声が少女の心に響く。崖の上にいる彼女の双子の兄からの声だ。
《何がいる? そこに!》
 少女は双子の兄に思念を返し、同時に兄の思念を通して崖の上の景色を探ろうとする。しかし相手が感覚の共有を拒み見ることができない。生まれてからどんな経験も感情も共有してきた兄が、初めて自分を拒絶したことに少女は動揺する。
《……なにも、ここにはね》 
 冷静な兄の声。
『――面白い――』
 その思念の陰に、何か別の存在の意志を感じる。少女は、ジッとしていられなくなり残りの崖を素早く駆け上る。崖の上についたときは、少女を不安にさせたあの気配は消えていた。
 肩までの黒髪を靡かせた少年が立って遠く北の方角を眺めているだけである。少女はそっとその少年に近づきその背中に抱きつく。少女とよく似た顔立ちの少年は、自分を抱きしめる腕に手をやりフワリと笑う。少年は少女の腕をやんわりと解き振り返り向き合う。赤い髪と碧の瞳、黒い髪と蒼い瞳であるものの、こうして向かい合うと、まるで鏡を見ているかのように二人の顔と体つきはよく似ていた。髪の長さの違い、赤い髪の子供の方がやや華奢で丸みのある身体をしていている事から二人の性別が違うことが分かる。
「まだ交代の時間には早いよ」
 少年は柔らかい笑みを少女に向ける。それはごく一部の身内にのみ見せる人間らしい表情であることを少女は知っている。
「なんか嫌な夢を見て……。そしてここに来たら変な気配を感じた……」
 少年は小さく溜息をつき、顔を上に向ける。少年の蒼い瞳に半分に欠けた月が映る。少女から身体をはなしマントを脱ぎ、少女の肩にかけ一緒に座るように促す。
「感じたかお前も。どう思った? あの気を」
 肩を包み込むように抱き寄せながら、少年はジッと北を見つめ問いかけてくる。
 少女は、少年のその目が惑っているものの自分のように恐れの色を帯びていない事が不思議でならない。
 ずっと敵に追われ心身とも疲れ果て、毎日のように死んでいく仲間の事を嘆きその事を己の所為と責め、苦悩し続けていた表情が久しぶりに明るい色を帯びているのを感じた。
「堕人のモノではないようだけど、アレは何て言うか近づいてはいけないモノのように感じる」
「だけど、アイツの気配だけで堕人は、怯え退散した。ホラ、分かるか? このあたりに堕人の気配がまったくないことを」
 少年は目を閉じ、キスをするかのように少女の顔を近づけ互いの額をくっつける。少女も目を閉じ、力を解放し相手の気に委ねる。岩陰にいる動物の気配はあるものの、禍々しい堕人のあの気配は十里ほど先まで探るが感じられなかった。そのまま自分が自然と同化し自由になった感覚を楽しむ。少女は自分の半身ともいうべきこの少年と、このように気を解放し融合させ自分では決して見ることの出来ないこの風景を感じる瞬間が一番好きだった。二人でこうしていることで、やっと本当の自分になれる気になる。
《レニーは、さっきのモノが神の導きだというの?》
 少年と心を解け合わせた浮遊感にも似た感覚に委ねながら、少女は少年に心で語りかける。
《……神ではないな。しかしその力は我々が未来を紡ぐのに必要なモノかもしれない。だからさらに、北へ行こう! 彼がいる、あの場所に》
《彼?》
 少女は何故か、一瞬ゾッとした恐怖を感じる。
《ああ、さっき一瞬、感情が交差した。味方かどうかは分からないけれど、アイツは敵ではない》 
「何故そんなのが分かる! 堕人よりももっと危険な存在でないと何故言い切れるの?」
 少女は少年から身体を離し、その胸にすがるように胸に手をやり叫ぶ。少年は目を優しく細め、少女の頭にそっと手をやり撫でる。
「分からない。しかし戦える人間も減ってきていている。守り旅を続けるには限界が近づいてきている。同時に皆の心にも絶望が広がっているのが分かるだろ? だったら偽りでも希望の道を示しそこを目指すしかない」
「偽りの希望……」
 少年はやさしく少女の頭を抱き寄せる。
「大丈夫、俺が本物の希望に変えてみせる。無ければ、自分達で『約束の地』を作ればいい。俺達が安心して暮らせる場所を」
 そんな場所が本当にあるのだろうか? 少女は少年の言う言葉の意味は分かるが、その言葉の意図が読めない。そんな事生まれて初めてだ。意思に相違を感じるのは。
「お前は俺が守る、どんな事をしても」
 近い位置で真っ直ぐ自分だけを見つめるその湖のような澄んだ瞳に、いつもと変わらない双子の兄の姿を見いだしややホッとする。安心した気持ちが、少女の表情に笑みを戻す。
「私の方が強いのだけどね。私がレニーを守るから! 穢らわしいヤツらなんかにレニーに指一本触れさせない」
 双子だけあって、二人の力は同じくらい強く、どちらが弱い、強いというわけではない。しかしその能力の方向は真逆だ。探査、癒し、防御の能力に長けている少年だが、破壊力・攻撃力といったものは少女の方が強い。
 そう笑う少女を、少年は悲しげな瞳で見つめかえす。二人は静かに抱きしめ合う。
 少女はそこでやっと分かる、少年の想いを。二人の意志がズレたのではない、根底に流れる想いがまったく同じ思いなのだと。

 ――大事な者をこれ以上傷つけたくない、失いたくない。だから守りたい。もっと強くなりたい――
 
 同じ母の体内で抱き合って生まれ、共に育ち、同じ思い出を持ち、同じ想いを抱え過ごしてきた。その心も身体も違えることはない。
 たとえ死さえも二人を引き裂くことはできない、おそらく死すときも一緒なのだろうから――。
 二人は互いを抱きしめる腕の力をさらに強めた。半分の月が、同じ想いと同じ顔をもち抱きしめ合う二人の姿を静かに照らす。
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