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16.兄の憎悪

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 兄の部屋に入ったレイチェルは、勧められたソファに腰掛ける。

「それで、相談とは?」

 向かい側のソファに座ったジェイクが問いかけてきた。

「実は……カーティスさまに求婚されたのです」

「カーティス殿下に!? まさか、いつの間にそんな進展が……」

 ジェイクは驚いた様子で目を見開く。しかし、すぐに落ち着きを取り戻して言った。

「そうか。それで、受けることにしたんだね?」

「……はい」

 レイチェルは小さく頷く。

「レイチェルが決めたのなら、それでいいよ。おめでとう」

 ジェイクはそう言って微笑んだ。妹の幸せを心から願う兄の笑顔だった。

「ありがとうございます」

 ほっとしながらレイチェルも微笑む。
 しかし、次の瞬間には兄の表情が深刻さをはらんだものへと変わった。

「だが、カーティス殿下がレイチェルを娶るということは、つまり……王位を狙うということだね。二人とも、それほどの覚悟でお互いを……」

「あ、いえ、その……一番の理由は、結界が綻びつつあることなのです」

 レイチェルが慌てて説明を加えると、ジェイクは不思議そうな顔をした。

「どういうこと?」

「実は、この国の結界は……」

 レイチェルはカーティスから聞いた話をかいつまんで説明する。

「……なるほど。身を引いていたカーティス殿下が出ようとするほど、状態は悪いのか。確かに……言われてみれば、年々、魔物の気配が近づいているような気がするね」

 ジェイクは難しい顔で腕を組んだ。

「お兄様、信じてくれるのですか?」

「もちろん。レイチェルの言うことを疑うはずがないだろう? それに……僕も四大公爵家の直系だからかな。なんとなくの肌感覚みたいなものはある」

「そうだったのですか」

 レイチェルは感心して頷いた。

「それに正直なところ、王太子殿下が王の器でないことは明らかだ。カーティス殿下を国王にすることに、異論はない。だけど……」

 ジェイクはそこで言葉を切ると、じっとレイチェルを見た。

「現在の国王陛下は、おそらくカーティス殿下が次期国王になることを許容できないだろう。あの方は自らの権威を示すために、己の子に王位を継がせたいと思っているからね」

「そうですね」

 レイチェルは頷いた。国王にとって重要なのは、結界や民の安寧よりも、己の権威の方だ。

「となると、四大公爵家の助力が必要不可欠だろうね。少なくとも半数以上の支持が必要だろう」

「ええ」

「まず、ウサーマス家は無理だろうね。国王陛下の母君の出身家だし、王妃殿下もそこの養女になっている。カーティス殿下を支持するなど、あり得ない」

「そうでしょうね」

 レイチェルはため息をついた。ウサーマス公爵家は、最も国王や王太子に近しい家柄だ。

「スーノン家は期待できるだろう。何せ、カーティス殿下の母君の出身家だ。カーティス殿下との関係は良好ではないとの噂もあるが、スーノン公爵は反王家派だ。少なくとも、国王陛下を支持することはない。きっと味方になってくれるよ」

 ジェイクはそう言って微笑む。

「そして、オウムト家。ここはよくわからないな。ただ、二十年近く前に魔物が大量発生して、王都から騎士たちが派遣されたという話がある」

「そうなんですか?」

「うん。結界で魔物との境界を隔ててはいるけれど、どうしても弱いものはすり抜けてしまうからね。そういったのが駆除されることなく、たまたま集合したのかもしれない。もっとも、その時は迅速に対処され、大きな被害はなかったそうだよ」

「そんな事件があったのですね……」

 レイチェルは相槌を打ちながら、考え込んだ。
 小説のストーリーでは、オウムト家は結界崩壊後、最も素早く動いて魔物と戦った一族だ。
 もしかすると、オウムト家は結界が綻びかけていたことに気づいていたのかもしれない。
 その二十年近く前の事件をきっかけに、備えていた可能性もある。

「当時、素早く騎士たちを派遣したのは現国王陛下だ。だから、それに対して恩を感じているかもしれない。ただ、結界の重要性を身をもって実感しているだろうから、結界の崩壊を容認することはないだろうね。説得できる可能性は高いと思う」

「なるほど……」

 レイチェルは深く頷いた。

「最後に、我がリグスーン家だ。残念ながら、現当主である父上は国王派だ。僕自身はカーティス殿下を支持するつもりだが、それを知られれば僕が排除されるだろう」

「そんな……」

 レイチェルは絶句した。
 正統な跡取りはジェイクしかいないのに、それを排除するなど、あまりにも愚かな行為だ。

「父上と国王陛下は、どこか似ているよ。自分自身の利益と権威を守ることが何より重要だと思っているんだ。後世のことなんか、何も考えていない」

「そのとおりでしょうね。とても愚かしく思えます」

 レイチェルがため息をつくと、ジェイクは苦笑した。

「僕もそう思うよ。だいたい、父上なんて僕が成人するまでの繋ぎの当主でしかないんだ。それなのに、愛人を公爵夫人として迎えて、勘違いも甚だしい。自分が正統な公爵だとでも思い込んでいるのだろう。恥知らずが」

 忌々しそうにジェイクは吐き捨てる。
 その声には隠し切れない憎悪が滲んでいて、レイチェルは思わず息をのむ。
 彼は父が愛人マイラを正式に妻として迎え、ケイティが公爵令嬢となったときも、淡々と受け止めていた。
 マイラやケイティのことを好ましく思っていないのは知っていたが、むしろ父に対する嫌悪の方が強いようだ。

「意外だったかい? 僕は穏やかで従順な、よくできた長男として振る舞ってきたからね」

 レイチェルの視線に気づいたのか、ジェイクが苦笑する。

「それも、父上に油断してもらうためだよ。当主の座に執着している父上は、僕が野心を見せればすぐにでも排除しようとするだろうからね」

「お兄様は、そこまで考えて……」

 レイチェルは愕然とした。
 いつも優しく微笑んでいる兄は、仮面の下にそんな憎悪を抱えていたのだ。

「この程度のこと、貴族なら当たり前だろう?」

 ジェイクはそう言って肩を竦める。

「でも、これほど明け透けに言うのは、レイチェルくらいだ。僕のたった一人の妹、今となっては唯一の家族であるきみだからね」

 そう言ってジェイクは微笑んだ。その目には、確かな信頼と愛情が浮かんでいる。
 レイチェルは胸が熱くなるのを感じた。
 そして、やはりケイティのことを妹として認めてはおらず、父のことも排除対象としてしか見ていないのだと確信した。

「それで、レイチェル。きみはカーティス殿下のことをどう思っているんだい?」

 ジェイクは唐突に話題を変えた。

「ど、どうとは?」

 突然の質問にレイチェルが戸惑っていると、ジェイクは苦笑した。

「そのままの意味だよ。カーティス殿下を好きかい?」

「そ……それは……」

 レイチェルは口ごもる。なんと答えれば良いのかわからなかったのだ。
 好きか嫌いかで言えば、間違いなく好きではある。そして、おそらくこれは恋愛感情なのだろう。
 しかし、素直にそう答えるのがためらわれるのだ。
 これは世界の都合のために植え付けられた感情なのではないか。そう思うと怖くなってしまい、自分の気持ちを素直に認めることが難しい。
 そんなレイチェルに、ジェイクは優しく微笑む。

「まあ、今ここで即答しなくてもいいさ」

 そう言って立ち上がると、ゆっくりと歩みを進めて妹の前に立って屈み込む。そして、目線を同じ高さにしてから言った。

「僕もカーティス殿下とお会いしないとね。この国の未来のために、そして妹の幸福のために」

「お兄さま……」

 レイチェルが兄を見上げると、ジェイクは彼女の頭を撫でた。

「さあ、もう遅いから休みなさい。明日に備えてね」

「はい。おやすみなさいませ」

 レイチェルはそう言って立ち上がると、一礼して兄の部屋を後にしたのだった。
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