上 下
4 / 5

第四話 過去の冬

しおりを挟む
遠く、青く、眩しく、冷たい日差しが差し込むサナトリウムの庭で、僕は裏乃と一緒にいた。

「いいから話しかけてみろよ」

「歩夢、無理だよ。きっと嫌な顔されるよ・・・・・・」

今にも泣きべそをかきそうな裏乃。それにはある理由があった。僕たちの目の前には、沙羅がいるのだ。無表情に裏乃を見つめる沙羅が。

「沙羅・・・・・・」

裏乃が話しかけると、無表情な沙羅は小首を傾げる。

「いいお天気だね」

裏乃は満面の笑みを見せて口を開くのだが。沙羅は相も変わらずの無表情だ。

「だから外に出たの。裏乃はどうして外に出たの?」

僕は素直に驚いた。僕が、このサナトリウムで生活するようになって二週間。沙羅が初めて、裏乃と会話らしい会話をしたのだ。

「歩夢、歩夢。沙羅が」

実に嬉しそうな声を出しながら、頬を少し赤くした裏乃は僕を見た。それも当然な反応だろう。沙羅が裏乃に対して、微かに心を開いた瞬間だったから。今まで沙羅は、ただ裏乃に嫌悪するだけだった。

「どうして外に出たの?」

沙羅はなおも裏乃に聞いた。どうして外に出たのかと。

「えーと、えーと」

裏乃は少しの間考え込むと、次の瞬間にはどこか満足気に口を開く。

「綺麗だから。冷たい光がとても綺麗だから」

それが裏乃の答え。精神病棟の自由時間に外に出た理由。冷たい光。きっと冬場の太陽のことだろう。

「確かに綺麗だね。綺麗でどこか心地いい」

沙羅は笑った。裏乃に向かって笑った。小首を傾げ、とても嬉しそうに。

「よかったじゃないか裏乃。大きな進歩だ」

「うん!」

元気よく返事をする裏乃。僕は祝福した。心の底から。そして、あることを思いつくのだった。

「ちょっと失礼するよ」

僕は、沙羅と裏乃の下を後にしようとする。

「歩夢、どこに行くの?」

不思議そうな面持ちで沙羅が聞く。

「氷室先生のとこだよ」

僕が答えると沙羅は「そう」とだけ口にする。しかしどういう理由か。裏乃は、氷室先生の名を聞いた途端。どこか浮かない表情を見せるのだった。

「氷室先生は怖い人だよ・・・・・・沙羅・・・・・・」

裏乃は沙羅の手を握り、早速、彼女に甘えだす。氷室先生が怖い? きっと裏乃が何か悪さをして、叱られることが大いに違いない。

「氷室先生はいい人だよ。だから安心して」

「あうー・・・・・・」

沙羅は、裏乃が思っている氷室先生への印象を弁明した。それでも裏乃は浮かない表情だ。

「私といれば大丈夫だから・・・・・・」

裏乃に告げる沙羅。一瞬、彼女が妖しい笑顔を見せたと思ったのは、僕の気のせいだろうか?

「うん、沙羅といる」

納得する裏乃。嫌に素直だ。僕はそう思った。

「沙羅、裏乃を頼むよ」

僕は二人を残し、庭を後にする。

院長室に氷室先生はいた。何枚もの処方箋用紙に、薬の名前を記入している最中のようだ。

「どうしました? まさか、ここでの生活が気に入りませんか?」

万年筆を机に置きながら、氷室先生は口を開く。

「いや、まさか。ここはとてもいい場所だ」

僕自身、ここの生活は快適だと思っている。気が合う沙羅に。妹のような存在の裏乃。毎日が楽しく思える。氷室先生は、患者でもない僕を歓迎してくれた。気が済むまで、このサナトリウムで生活していいと。

「それで、ご用件は? 私にできることなら、遠慮せずに言ってください」

「あ、でも、忙しいんじゃ・・・・・・? 」

「構いませんよ。急ぎの処方箋じゃないので」

気を使う僕だったが。それなら話が早かった。

「甘いお菓子を作りたいんです」

これが僕の目的。沙羅と裏乃が、きっと大喜びすると思った。

「甘いお菓子? たとえばビスケット?」

質問する氷室先生に僕は

「それだ。それがいい。ビスケットだ」

まるで自分で思いついたかのように納得する。

「ビスケットなら誰にでも作れますよ。けっして難しいお菓子じゃない」

氷室先生は椅子から立ち上がった。

「それにしても。甘いお菓子は沙羅への贈り物ですか?」

「少しだけ不正解。送りたい相手は二人。一人は沙羅。もう一人は裏乃」

このとき、氷室先生の顔色が少しだけ変わる。僕の目を見つめ、薄ら笑いを浮かべながら口を開く。

「裏乃。あの子は色々と問題の多い患者です。薬嫌いの沙羅が、きっと可愛らしく思えるでしょう」

氷室先生はそう答えた。

「え? そんなことはない。裏乃はいい子だ。少しだけワガママなとこがあるけど・・・・・・」

弁明しようとする僕だが。

「とにかく厨房に行きましょう。材料は豊富ですよ。きっと気に入るはずです」

厨房へと向かう氷室先生。歩きだし、院長室のドアを開ける。

「いや、だからその、裏乃は・・・・・・」

「さぁ、こちらです」

氷室先生に案内されるがまま、僕は厨房へと向かう。裏乃の話しを無視した先生。彼女に、何か嫌な印象でもあるのだろうか? 聞く耳を持たない態度をした、この人を見るのは初めてだ。

「材料はマーガリン、ミルク、砂糖に小麦粉。シンプルでしょう? 隠し味にくるみも使ってみましょう」

それらビスケットの材料を、先生はボールの中に入れる。

「さぁ、かき混ぜて」

ボールに入った材料をかき混ぜる僕。先生の言うとおり、難しいお菓子ではなさそうだ。料理素人の僕でもそう思う。しばらくして。

「後はボール状に小さく丸めて、オーブンで焼くだけです」

僕はオーブン皿に、まだ焼かれていないビスケットを、ボール状に丸めて置いていく。

「オーブンに入れて、後は待つだけです」

氷室先生は、少し微笑みを浮かべながら僕に頷いた。沙羅と裏乃の喜ぶ顔が待ち遠しい。僕がそう思ったときだった。

「氷室先生! 庭で沙羅が倒れました!」

厨房に看護婦が、慌てた様子で告げる。聞いた途端に、氷室先生は厨房から走り出す。

「沙羅・・・・・・? 沙羅・・・・・・!」

僕も少し遅れて厨房を後にする。心に動揺と焦りが走った。

庭では数人の看護師と、先に到着していた氷室先生がいた。そして血色が悪く、倒れた沙羅の姿が。

「ああ・・・・・・」

その目の前には、呆然と、自分の髪を両手でクシャクシャとかき回す裏乃がいる。そんな彼女に目もくれず、氷室先生は沙羅を処置していた。

「少し熱がある。きっと薬の副作用だ。氷枕を用意して、病室で寝かせましょう」

体格のいい看護師が沙羅を抱き上げ、病室へ連れて行く。

「待って、沙羅は大丈夫なのか? 薬の副作用って・・・・・・」

僕は堪らず聞く。僕と出会ってから、薬嫌いの沙羅は毎日薬を飲むようになった。だとしたら、彼女が倒れたのは僕のせいだ。

「悪いが裏乃を見ていてくれませんか? 沙羅が落ち着いたら、私からお知らせますので」

氷室先生は看護師たちと、サナトリウムの中に入っていく。僕と裏乃の二人だけが、庭に残された。沙羅が心配な僕だが。

「歩夢、沙羅はどうなっちゃうの・・・・・・? 死んじゃうの・・・・・・?」

こんな状態の裏乃を、ほっとくわけにはいかなかった。

「死んだりするもんか。きっと大丈夫だ」

僕はそう口にするが。裏乃は落ち着きを取り戻さない。

「私、氷室先生に睨まれた・・・・・・沙羅が倒れたのは、私のせいだと思ってる・・・・・・」

「そんなわけないだろう? 薬の副作用だって言ってたじゃないか」

当然、裏乃のせいなんかじゃない。悪いのは僕だ。

「またお仕置きされるよ・・・・・・どうしよう、どうしよう・・・・・・」

裏乃は急に怯え始めた。

「お仕置き? お仕置きってなんだ?」

聞いてみる僕だが。裏乃は小刻みに震え、それ以上は何も答えなかった。

「裏乃。病室へ帰る時間だ」

どこからともなく、一人の看護婦が現れる。裏乃の手を握り、精神病棟へと連れて行った。
裏乃が怯えるお仕置きとは、どういうものなのだろうか? あの怯え方に、尋常ないものを感じる。

僕は沙羅の病室の前で待った。もうすぐ夕暮れになる頃だというのに、氷室先生は一向に病室から出てこない。

「大丈夫なのか・・・・・・?」

僕は思わず、口からその言葉を漏らす。裏乃に、沙羅は大丈夫だと告げておきながら、自分を情けなく思う。所詮僕は口先だけだった。
ガチャ
その刹那、病室のドアが開く。

「沙羅は大丈夫です。しばらく安静にしていれば大丈夫でしょう。さぁ、どうぞ。あなたに会いたがってます」

病室の中へと案内する氷室先生。一刻も早く、沙羅に会いたい僕だったが。その前に一つだけ、先生に聞きたいことがあった。

「あの、裏乃が酷く怯えている。先生にお仕置きされるって」

氷室先生は僕を見つめる。一点に。

「あれは普通の怯え方じゃない。お仕置きって、一体どんなことを・・・・・・?」

質問する僕に対し、先生はニヤリと妖しく笑う。

「知ってしまえば、きっと後悔するでしょう。それに裏乃の存在は、我々にとって悪影響です」

このとき、僕は初めて氷室先生に、異様な不気味さを感じた。

「先生、患者さまがお待ちです」

一人の看護師が、氷室先生を呼びに来る。

「私はこれで失礼します」

氷室先生は立ち去って行った。

(裏乃が悪影響なもんか・・・・・・僕や沙羅にとっても・・・・・・)

一人心の中で思いながら、沙羅が僕を待つ病室の中へと入った。

「歩夢」

ベッドに横になっている沙羅は、僕の顔を見ると、まるで安心したかのように微笑んだ。

「沙羅、気分はどう? その、平気か?」

彼女のことが心配でたまらず聞いた。

「大丈夫。少し熱が出ただけだから。こんなの平気だよ」

平気と告げる沙羅。それでも顔色が少し悪い気がする。

「ずっと咳が止まらない夜だってある。それに比べたら、まだ楽なほうだよ」

沙羅は微笑んだ。優しく。もう知っていたことだ。沙羅は病に侵されている。だから、このサナトリウムの患者なのだ。ただ、彼女に聞けていないことが一つあった。一つだけ・・・・・・

「病気は治るのか?」

それは、聞いてはいけないことだった。心のどこかで、僕が無視し続けていたことだ。それでも沙羅は、顔色一つ変えない。

「治せないよ。ずっと。いつまでも」

彼女は平然と答えた。それを聞いた僕は、今にも膝から崩れ落ちそうだ。

「それでも私は、君を一人にはしないよ。必ず会いに行くから」

沙羅の言葉は、僕を辛くさせた。そんな言葉を口にした彼女を悲しく思う。僕は、もう大切な人を失いたくない。もう沢山だ。

「歩夢。私、少しだけ夢を見ていたの」

僕の辛さをまるで理解したかのように、沙羅は話題を変えた。

「どんな夢?」

僕は聞く。死の話題など、これ以上したくない。

「女の子の夢。歩夢を探していた。悲しそうに夕暮れの砂浜を歩いている。あの子は、まるで志保の生き写し。だけど、とても優しい子に思える。誰も愛せなかった志保とは違う」

詩織だ。沙羅が夢で見た少女は詩織だった。

「きっとまだ砂浜を歩いている。会ってあげて」

僕にそう口にした沙羅。それでも僕は、沙羅のそばを離れたくない。

「駄目だ。もう決めたんだ。君と一緒にいるって。僕は君だけを見つめていたい」

僕が自らの思いを告げると、沙羅の表情はどこか悲しいものへと変わる。

「会ってあげて。お願い。あの子には、きっと救う価値があるから」

僕が救う? 悲しみのどん底にいる詩織を救えるのか? 自信なんて到底持てない。

「あの子は歩夢を愛しているんだよ・・・・・・私と同じように・・・・・・」

冬の夕暮れの中、僕は砂浜へと向かっていた。志保が死んだ海へと。荒廃したようなオレンジの光が、酷く眩しく感じる。あのときと同じだ。

「あのときも・・・・・・」

心に異様な苦しさが現れ始める。僕は、過去を思い返していた。惨い罪を犯した過去を。

『僕は君が好きなんだ』

一年前の冬の海で、僕は志保に自分の思いを伝えた。告白されたというのに、志保は表情一つ変えず僕の顔を見つめている。

『・・・・・・愛してくれるの・・・・・・?』

それが志保の口から出た言葉。今思えば、人間味など微塵も感じられない声だった。

『・・・・・・私は歩夢を愛していない・・・・・・愛していないから・・・・・・』

志保は、自らの思いを僕に告げる。あのとき一瞬だけ、冷たい風が吹いたのを僕はよく覚えていた。

『なら、ただの友達のままか・・・・・・』

失恋した僕は空しく俯く。地面に見える白い砂が、遠い無限を錯覚させた。

『歩夢とは友達じゃないよ』

顔を上げ。一瞬、我が耳を疑った僕。志保は、薄ら笑みを浮かべ僕を見ていた。どこか人をあざ笑うかのような笑み。僕が耳にしたのは幻聴ではない。

『なら、どうして僕なんかと一緒にいるんだ?』

『それは・・・・・・』

志保が放った言葉は、僕の人生を変えてしまった。人格までも。彼女の恋人にもなれず。しかも僕は友達でもなった・・・・・・酷く悲しい・・・・・・心が壊れる・・・・・・

『成績を上げたかっただけ。歩夢は、そのための私の人形なんだよ』

彼女にとって、僕は人間でもなかったのだ・・・・・・

『ほら、友達のいない同級生に手を差し伸べるって、先生からの印象もいいでしょう?』

志保が笑う。目を細めて笑う。

『人形のくせに、歩夢は可哀想だね』

一人、砂浜を立ち去って行く志保。そんな彼女の後ろ姿を見つめながら、僕は二つの思いに駆られた。一つは殺意。そしてもう一つは。狂気だ・・・・・・

『苦しいか? 大丈夫。すぐ終わるから』

気が付けば、僕は自身の両手で、志保の細い首を絞める。彼女は苦しそうに足掻いたが、それはほんの少しの間だけだった。

『僕を騙したお前が悪いんだ!』

僕に絞殺された志保。砂浜で倒れこみ、息をしなくなった彼女に向かって僕は叫んでいた。聞こえるはずがないというのに。
その翌日の朝、志保の遺体だけが美里町の砂浜で見つかった。警察は今でも犯人を捜している。誰も、志保と友人以下だった僕を疑いもしなかった。そして僕は自分の心と記憶を偽り、のうのうと生き続ける。

「・・・・・・歩夢君・・・・・・」

目の前には、僕に向かって悲しそうに微笑む詩織の姿があった。

「よかった。見つかって。ずっと探していたんだよ・・・・・・」

どこか涙目の詩織。疲れた顔をしている。しかし次の瞬間には、まるで安心を取り戻したかのような笑顔を彼女は見せた。

「どうしてそんな風に笑えるんだ?」

聞いてしまう僕に、詩織は目を細めながら小首を傾げる。

「僕はここで志保を殺したんだ」

僕は自らの罪を告白した。姉と瓜二つの容姿をした妹の志保に。

「知ってるよ」

詩織は答えた。僕の背筋に冷たい悪寒が走るが、詩織はどこか落ち着いた表情を見せている。
 
「あの日、私は二人の後をつけていたの」

「どうしてそんなことを・・・・・・?」

「歩夢君のことがずっと気になっていたから・・・・・・最初に会ったときから・・・・・・」

それは思いもよらない詩織の告白だった。彼女は僕と同様に、どこか感情が欠落しているのか? 僕を見つめ、頬を少し赤くしていた。

「僕は君の姉を殺したんだぞ」

再び罪を口にする僕。詩織は目を閉じると、ゆっくりと首を左右に振る。そして目を開けると、悲しそうに俯いた。

「私の姉は。志保は本当にいい人間じゃなかった。歩夢君が志保の首を絞めたとき、心の底から安心したの」

それは志保の妹からの嘘偽りのない言葉。殺した犯人である僕は、内心驚いていた。詩織からは、恨みの思いなど微塵も感じられない。

「私は志保にいつも殴られていた・・・・・・」

「殴られていた? 何故・・・・・・?」

「同じ顔をした私が気に入らない。ただそれだけの理由だよ」

悲しそうに俯いていた詩織は顔を上げると、少しだけ微笑んだ。ほんの少しだけ・・・・・・

「痛くて泣いていても両親には、いつも無視されていた。きっと姉妹の中で、志保が一番可愛かったんだと思う」

これが詩織の味わった現実。優等生である彼女の正体。

「歩夢君は終わらせてくれたんだよ。私の辛い現実を・・・・・・」

僕が詩織は志保じゃないと、本当に理解できた瞬間だった。

「姉の志保は、誰も愛せなかったけど私は違う。歩夢君を心から愛せているから・・・・・・だから・・・・・・」

詩織は、僕に向かってゆっくりと背伸びする。

「歩夢君も、どうか私を愛して・・・・・・」

僕の頬に柔らかい感触。それは詩織の唇だった。

「駄目だ・・・・・・」

僕は詩織の愛を拒絶する。僕の中には、すでに沙羅が存在していたからだ。

「嬉しいけど、駄目なんだ・・・・・・君はいつも僕に優しくしてくれたのに・・・・・・それなのに僕は・・・・・・」

それは酷い罪悪感だった。優しくしてくれた彼女に、申し訳がない。それでも、片思いの詩織は、僕だけを見つめ微笑んでくれた。

「好きな人がいるんだね。その人はきっと綺麗な人でしょう? 綺麗で優しくて温かい人・・・・・・」

詩織は、沙羅の印象を見事に言い当てる。

「会ってみたい。その人に」

それは難しかった。沙羅は薬の副作用で、今でもベッドの上で休んでいるはずだ。

「今は駄目なんだ。重い病気で、ずっとサナトリウムにいる子だから・・・・・・」

僕は正直に答えるのだが。詩織は、どこか名残惜しそうに口を開くのだった。

「お願い。一目だけでいいから」

一目だけ? 詩織は、どうしてそんなに沙羅に会いたがるのだろうか? そんな僕の疑問を、彼女自らが教えてくれた。

「歩夢君が好きになった人が、どんな人か見て見たいの」

詩織の黒く綺麗な瞳に嘘はない。この子が素直なのは、僕が一番よく知っている。

「私は失恋したけど、嬉しい」

頬を赤くさせ、にこやかに笑う詩織。

「歩夢君が、志保以外に好きな人ができてとても嬉しい・・・・・・」

僕は、詩織を案内することにした。僕の居場所であるサナトリウムに・・・・・・

サナトリウムへと続く山道を、詩織と一緒に歩く僕。気のせいか? 夕暮れの光が、少しだけ強くなった気がする。もう夜が近いのだろうか?

「名前は?」

「え・・・・・・?」

「もう、その子の名前だよ」

「沙羅」

「沙羅? とても綺麗な名前。何だか羨ましい」

「詩織だっていい名前だろう」

答える僕に詩織は

「普通の名前だよ」

と笑顔で返すのだった。
サナトリウムに到着する僕と詩織。

「ここがそうなの・・・・・・?」

サナトリウムの西洋風の大きな玄関を見た途端、詩織はどこか怪訝な表情を見せた。

「そうだ。ここがサナトリウム。沙羅の病室まで案内するよ」

僕は詩織をつれ、サナトリウムの庭を歩く。

「ここの精神病棟に、裏乃って名前の年下の女の子がいてさ。これが妹みたいで可愛いんだ」

「そ、そうなんだ・・・・・・」

詩織の反応は曖昧だった。裏乃にまるで興味がないようだ。

(おかしいな? どうしたんだ?)

僕がそう思いながら、病棟のドアを開けると、そこには氷室先生が立っていた。まるで僕たちを待っていたかのように。先生は右手に、ビスケットが盛りつけられた皿を持っていた。僕が焼いたものに違いない。

「これは綺麗なお嬢さんだ。どうぞ中へ」

右手に皿を持ったまま、氷室先生は詩織に向かってお辞儀する。いつもと同じ西洋風のお辞儀を見せると、先生はサナトリウムの中へと入っていく。

「さぁ、行こう」

「え? 歩夢君?!」

僕は氷室先生に少し遅れて、サナトリウムの中に入る。どういう訳か? サナトリウムの中に入ると、詩織はどこか狼狽え始める。一階に飾られた絵画の数々に、動揺しているのだろうか? きっとそうだ。一階は、美術館のような内装をしている。動揺してしまうのも無理はないだろう。

「お一つ食べてみてください。あなたが焼いたものですから」

 皿に盛りつけられたビスケットを、僕に向かって差し出す氷室先生。正直、僕の中にはまだ先生への疑念が残っているのだが。

「どうも」

僕は、皿にあるビスケットを一枚手に取り、一かじりする。一応味見するためだ。せっかく作ったのに、沙羅と裏乃に不味いと突き返されるのもショックに思えた。

「いい出来だと思いませんか?」

僕が作ったビスケットは、素直に美味しいといえる。

「ああ、我ながらいい出来だ」

僕は疑念の残る氷室先生に、思わず笑みを零してしまう。沙羅が回復して、裏乃が落ち着けば、また楽しい日々が送れる。このビスケットを囲み、僕たちはまた笑いあうことができるのだ。三人で。いや、詩織を入れて四人だ。かけがえのない四人にしよう。そう心に誓う僕に、氷室先生は微笑んでいた。どこか屈折した笑顔で。

「どうです? ちゃんと味もするし、空腹も満たされるでしょう?」

「え?」

氷室先生の言葉の意味が理解できない。食べ物に味がし、空腹が満たされるのは当然のことだろう? 一体どうしたというのか?

「答えは彼女の口から聞けばいい。きっと納得できる。醜い自分を欺いていたと」

僕は振り返り、すぐ後ろにいた詩織の顔を見る。彼女は怯えた表情で僕を見ていた。

「・・・・・・誰と話しているの・・・・・・?」

僕に怯えた詩織の言葉。その言葉は、僕を苦しい現実に引き戻す。

「・・・・・・そうか、僕は知ってたんだ・・・・・・」

僕の目に映るのは、荒れ果てた廃墟だった。壊れたベッドや椅子にラジオ。割れた窓から入って来る海からの冷たく澄んだ空気だけが、この場所がかつてサナトリウムだった名残を残していた。

「サナトリウムなんて、もうないんだよ。私と一緒に帰ろう」

僕の手を握る詩織。その手は微かに震えていた。

「いや、帰らない。僕は帰らない・・・・・・ここに僕の大切な人がいるんだ・・・・・・」

口の中には、微かにビスケットの甘さが残っている。幽霊や怨霊の類では決してない。彼らは存在している。
沙羅・・・・・・君は僕の幻覚でも、愛しているんだ・・・・・・

「・・・・・・沙羅・・・・・・」

僕が最愛の人の名を呆然と口にしたとき、幻覚の世界へと戻った。腹部に感じた鋭い痛みと一緒に・・・・・・

「歩夢君・・・・・・?!」

「どうして、僕をこんな目に会わせる・・・・・・?」

僕の目の前には、先ほどの廃墟とは程遠い、いつものサナトリウム。氷室先生が立っている。不敵な笑みを浮かべながら・・・・・・

「心配はありません。すぐに処置すれば助かる・・・・・・」

僕の腹に、銀色に輝くナイフが刺さっていた。刺した本人は氷室先生だ。

「歩夢は哀れ、可愛そう」

その場には、志保も存在していた。幻覚の志保。僕が刺されたのを見て、微笑んでいる。彼女の手には、オレンジの火を灯したランプが握られていた。

「・・・・・・悲しい人だね・・・・・・」

ただ、微笑む志保。氷室先生。いや、氷室は僕の腹からナイフを抜く。酷い苦痛と一緒に、腹からは血が流れ出す。僕は堪らずその場に蹲る。今にも死にそうな痛みだったが、何とか顔だけは上げることができた。

「まさか・・・・・・本当に、本当に・・・・・・」

何かを確信したかのように、詩織は呆然としている。誰かが刺されるのを目にするのは、彼女にとってはもう沢山だろう。

「廃墟しか見えないのに・・・・・・廃墟しか見えないのに・・・・・・」

蹲る僕に近づき、詩織はただその言葉を繰り返すだけだった。

「そのランプは何だ? 一体どうするつもりだ?」

僕の血の付いたナイフを、丁寧にナプキンで拭きながら、氷室は志保に口を開く。

「幻覚のサナトリウムと、もう一人の私を燃やすの」

「燃やす? どうして?」

氷室の質問に、志保は妖しい笑みを浮かべ答えた。

「もっと壊れた歩夢を見たいから」

志保の歪んだ答え。たったそれだけの理由で、志保はランプを手に持っていたのだ。しかし、氷室にとって、このサナトリウムを燃やすのは、不満でしかなかった。

「そんなことは許さない。私の美しい沙羅が焼け死んでしまう」

「私の沙羅? 美しい? あんな歪んだ子がそんなに大切なの?」

「少なくとも誰も愛せない君より、はるかにいい子だ」

「誰も愛せない? 私が? 私は裏乃を心から愛しているのに」

「裏乃を愛しているだと?」

氷室は志保に向かって、まるで蔑んだ微笑を浮かべる。

「裏乃は嬉しかったんだって」

氷室を無視し、志保は、僕に向かって口を開いた。

「何が・・・・・・? 一体何がだ・・・・・・?」

痛む傷を堪えながら、僕は声を出す。志保の口から告げられる、答えを聞くために。

「歩夢が優しくしてくれて嬉しいって。私が愛してくれて嬉しいって」

志保は笑う。歪んだ笑みを浮かべ笑う。

「裏乃は可愛い。こんな私に懐いてくれたから」

あろうことか。僕の知らぬときに、志保は裏乃と会っていたらしい。

「最初は驚いたよ。ずぶ濡れの裏乃を少し温めただけで、あの子は私の虜になったんだから」

僕には、まるで裏乃が汚れた気分だった。志保は笑う。腹から血を流す僕を、どこか楽しげに見下ろしながら。

「お前らは幻覚だ・・・・・・僕が創りだした妄想なんだ・・・・・・存在しない人間なんだ・・・・・・裏乃も、沙羅も・・・・・・」

僕は思わず、自らにそう言い聞かせようとする。否定さえすれば、この幻想は消えると信じた。傷の痛みも消えると。
しかしどう足掻いても、僕の中には二人の少女の顔が浮かんでしまう。

「それは無駄なことだ。歩夢。君はもうサナトリウムに存在する沙羅の虜だ」

氷室は持っているナイフを、そばにあった待合用のテーブルの上に置くと、蹲る僕に距離を詰める。

「温かい食事も、君専用の病室も用意する。勿論、私のせいで負った傷の治療も」

傷を治療すると告げられ、僕の心には安心感が広がった。

「ただし、私は君を二度と外に出す気はない。君が存在さえしていれば、沙羅は消えなくてすむのだから」

嬉しそうに微笑む氷室に、僕は理解する。彼は、沙羅の延命だけを望んでいたことに。

「病室には頑丈な鍵をかけよう。誰の出入りもなく君は、一生をそこで過ごすんだ。愛する沙羅のために」

どうだ? 私のアイディアは素晴らしいだろう? そういわんばかりに氷室は、ニヤリと笑みを零す。そして彼が、ゆっくりと立ち上がったときだ。

「・・・・・・嫌な最後だ・・・・・・」

氷室が零した言葉に、一瞬僕には何が起こったのか理解できなかった。彼の左胸に鋭くとがった物が、貫通しているように見える。

「ナイフ・・・・・・?」

鋭くとがった物の正体はナイフだった。それも、氷室が僕を刺したナイフ。彼は誰かに、後ろから刺されたのだ。心臓を一突きにされて。あろうことか。氷室は、自らがテーブルに置いたナイフが仇となったのだ。

「・・・・・・」

目を見開き、氷室は無言で崩れ落ちた。そして僕は、氷室を刺した誰かと対面する。

「氷室先生、死んじゃったね」

無表情にナイフを右手に持ち、氷室を見下ろす少女・・・・・・裏乃だった。

「裏乃。よくできました。今日はいいことをしたね」

志保は溢れんばかりの笑顔で、氷室を刺殺した裏乃を褒め称える。

「志保のお願いなら、何でも聞くよ」

どうやら裏乃は、志保に命令されたようだった。僕の心に、志保への怒りが込み上がる。

「歩夢? どうして血が出ているの?」

そのとき、僕は裏乃と目が合う。小首を傾げ不思議そうな眼差しで、血を流し、弱っている僕を見下ろしていた。

「裏乃・・・・・・もう志保なんかと関わるな・・・・・・」

「どうして? 志保はいい人だよ」

「いい人なんかじゃない・・・・・・あいつはとんでもない狂人だ・・・・・・」

裏乃は僕に向かって、怪訝な表情を浮かべる。狂人の志保を、信じ切っているのが理解できた。

「狂人? 歩夢には言われたくない言葉だよ」

幻想のサナトリウムを創りだした張本人である僕。確かに狂人かもしれない。それでも・・・・・・

「黙れ、黙れよ・・・・・・! こんないい子に人殺しをさせて・・・・・・!」

「裏乃は、あの男に酷い仕打ちされたんだよ。歩夢が創ったあの男に。だから裏乃にはある。あの男を殺す権利がある」

「裏乃はいい子だ・・・・・・!」

最早、僕には志保にそんな言葉しか浴びせられなかった。傷口が、先ほどよりも痛み始める。

「・・・・・・畜生・・・・・・」

今にも死にそうな痛みの中で、僕を見てあざ笑う志保。

「ふーん・・・・・・裏乃が大切なんだ・・・・・・きっと沙羅と同じくらい・・・・・・」

やめろ。よせ。僕はそれらの言葉を声に出したかった。しかし、体力が続かない。

「裏乃、さぁ、おいで・・・・・・」

妖し志保に手招きされる裏乃。

「うん」

裏乃は疑いもせず、ランプを片手に持った志保に歩み寄っていく。

「裏乃、今から痛いことをするけど我慢できる?」

「痛いこと・・・・・・?」

不安げな裏乃。当然の反応だ。

「やめろ・・・・・・その子は失いたくない・・・・・・」

全身の力を振り絞り、僕は立ち上がる。今にも死にそうだ。

「火に包まれるの。大丈夫。私も一緒に包まれるから」

志保は笑顔で裏乃に告げた。曇りない笑顔で・・・・・・

「うん。志保と一緒なら、私は大丈夫」

「いい子だね・・・・・・だから愛したの・・・・・・」

志保は片方の手で裏乃の小さな体を抱くと、頭上にランプを掲げる。燃える荒廃したようなオレンジの火が、僕に冬の夕暮れを錯覚させた。

「歩夢、私たちの最後に教えてあげる。裏乃の存在する意味を」

僕に向かって、妖しく微笑む志保。そして語った。まるで遺言のように。

「裏乃は、歩夢に伝えるためだけに存在したの。サナトリウムが歩夢の幻想だって伝えるために。けど、この子には伝える術がなかった。どう伝えていいかわからなかったんだよ」

志保の語った言葉を、僕は理解することができた。今ならできる。だから裏乃は氷室に目の敵にされ、沙羅には無視されていたのだ。そんな裏乃はどこかキョトンとしながら、志保が頭上に掲げるランプを見つめていた。

「さぁ、歩夢、壊れて・・・・・・もっと酷く壊れて・・・・・・これは遺言だから・・・・・・」

志保は頭上からランプを落とす。二人の体は一瞬で炎に包まれる。苦しく痛がる悲鳴はなかった。ただ、二人は燃えていく・・・・・・

「・・・・・・裏乃、嫌だ・・・・・・嫌だ・・・・・・そいつと消えるんじゃない・・・・・・!」

傷の痛みを堪え、やっとの思いで立ち上がる僕。激痛が走り、また倒れそうになるが。僕の頭の中で裏乃の笑った顔が見えた・・・・・・可愛らしく、楽しそうに笑った顔が・・・・・・僕はゆっくりと歩き出す。激痛を堪えて、燃える二人に近づいた。

「裏乃、裏乃・・・・・・どんな形でも、もう一度、もう一度だけでいいから・・・・・」

燃え盛る炎の中で、僕は小さな人影を見る。裏乃に間違いない。僕は炎に包まれる裏乃を抱き締めた・・・・・・当然、僕の体に炎が移る・・・・・・

「歩夢君・・・・・・? 歩夢君!」

少女の声を聞いた気がする・・・・・・思い出せない懐かしい人に似た声だ・・・・・・
どうしてだろうか・・・・・・? この声に罪悪感を覚えた・・・・・・詩織・・・・・・確かそんな名前だった気がする・・・・・・
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

天端怪奇伝

湯殿たもと
恋愛
とある高校一年の男子が、これまたとある中学生の女子と出会い、恋を・・・するのか?はたして。それで怪奇ってなんじゃい。 完結しました。みんな見てね

四季物語 冬の山~ララとカイヤックブール~

ホーク・ハイ
ファンタジー
冬休みに訪れた紋別のおばあちゃんの家で起きる不思議な話。 おじいちゃんの書斎で出会ったボギービーストのコリンに、冬に太陽が昇らない理由と冬の元凶であるカイヤックブールの存在を知る。ララは、コリンと冬の女王ベラリサ、白狼のシュワルツと一緒に、妖精の世界ウェンデルへと旅立つ。 ウェンデルで冬の妖精たちに目を引かれながら、幻うさぎに自分という存在を特別視され困惑するが、ミタ・インディオのノーツも仲間に加わり、カイヤックブールと戦うことになる。 カイヤックブールの呪縛を解き、世界に冬の太陽グリアナンが戻るまで戦いを描いた西洋文学小説・ダークファンタジー小説。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

White Marriage

紫苑
恋愛
冬の日のひとつの恋の物語‥

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

処理中です...