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第四話 過去の冬
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遠く、青く、眩しく、冷たい日差しが差し込むサナトリウムの庭で、僕は裏乃と一緒にいた。
「いいから話しかけてみろよ」
「歩夢、無理だよ。きっと嫌な顔されるよ・・・・・・」
今にも泣きべそをかきそうな裏乃。それにはある理由があった。僕たちの目の前には、沙羅がいるのだ。無表情に裏乃を見つめる沙羅が。
「沙羅・・・・・・」
裏乃が話しかけると、無表情な沙羅は小首を傾げる。
「いいお天気だね」
裏乃は満面の笑みを見せて口を開くのだが。沙羅は相も変わらずの無表情だ。
「だから外に出たの。裏乃はどうして外に出たの?」
僕は素直に驚いた。僕が、このサナトリウムで生活するようになって二週間。沙羅が初めて、裏乃と会話らしい会話をしたのだ。
「歩夢、歩夢。沙羅が」
実に嬉しそうな声を出しながら、頬を少し赤くした裏乃は僕を見た。それも当然な反応だろう。沙羅が裏乃に対して、微かに心を開いた瞬間だったから。今まで沙羅は、ただ裏乃に嫌悪するだけだった。
「どうして外に出たの?」
沙羅はなおも裏乃に聞いた。どうして外に出たのかと。
「えーと、えーと」
裏乃は少しの間考え込むと、次の瞬間にはどこか満足気に口を開く。
「綺麗だから。冷たい光がとても綺麗だから」
それが裏乃の答え。精神病棟の自由時間に外に出た理由。冷たい光。きっと冬場の太陽のことだろう。
「確かに綺麗だね。綺麗でどこか心地いい」
沙羅は笑った。裏乃に向かって笑った。小首を傾げ、とても嬉しそうに。
「よかったじゃないか裏乃。大きな進歩だ」
「うん!」
元気よく返事をする裏乃。僕は祝福した。心の底から。そして、あることを思いつくのだった。
「ちょっと失礼するよ」
僕は、沙羅と裏乃の下を後にしようとする。
「歩夢、どこに行くの?」
不思議そうな面持ちで沙羅が聞く。
「氷室先生のとこだよ」
僕が答えると沙羅は「そう」とだけ口にする。しかしどういう理由か。裏乃は、氷室先生の名を聞いた途端。どこか浮かない表情を見せるのだった。
「氷室先生は怖い人だよ・・・・・・沙羅・・・・・・」
裏乃は沙羅の手を握り、早速、彼女に甘えだす。氷室先生が怖い? きっと裏乃が何か悪さをして、叱られることが大いに違いない。
「氷室先生はいい人だよ。だから安心して」
「あうー・・・・・・」
沙羅は、裏乃が思っている氷室先生への印象を弁明した。それでも裏乃は浮かない表情だ。
「私といれば大丈夫だから・・・・・・」
裏乃に告げる沙羅。一瞬、彼女が妖しい笑顔を見せたと思ったのは、僕の気のせいだろうか?
「うん、沙羅といる」
納得する裏乃。嫌に素直だ。僕はそう思った。
「沙羅、裏乃を頼むよ」
僕は二人を残し、庭を後にする。
院長室に氷室先生はいた。何枚もの処方箋用紙に、薬の名前を記入している最中のようだ。
「どうしました? まさか、ここでの生活が気に入りませんか?」
万年筆を机に置きながら、氷室先生は口を開く。
「いや、まさか。ここはとてもいい場所だ」
僕自身、ここの生活は快適だと思っている。気が合う沙羅に。妹のような存在の裏乃。毎日が楽しく思える。氷室先生は、患者でもない僕を歓迎してくれた。気が済むまで、このサナトリウムで生活していいと。
「それで、ご用件は? 私にできることなら、遠慮せずに言ってください」
「あ、でも、忙しいんじゃ・・・・・・? 」
「構いませんよ。急ぎの処方箋じゃないので」
気を使う僕だったが。それなら話が早かった。
「甘いお菓子を作りたいんです」
これが僕の目的。沙羅と裏乃が、きっと大喜びすると思った。
「甘いお菓子? たとえばビスケット?」
質問する氷室先生に僕は
「それだ。それがいい。ビスケットだ」
まるで自分で思いついたかのように納得する。
「ビスケットなら誰にでも作れますよ。けっして難しいお菓子じゃない」
氷室先生は椅子から立ち上がった。
「それにしても。甘いお菓子は沙羅への贈り物ですか?」
「少しだけ不正解。送りたい相手は二人。一人は沙羅。もう一人は裏乃」
このとき、氷室先生の顔色が少しだけ変わる。僕の目を見つめ、薄ら笑いを浮かべながら口を開く。
「裏乃。あの子は色々と問題の多い患者です。薬嫌いの沙羅が、きっと可愛らしく思えるでしょう」
氷室先生はそう答えた。
「え? そんなことはない。裏乃はいい子だ。少しだけワガママなとこがあるけど・・・・・・」
弁明しようとする僕だが。
「とにかく厨房に行きましょう。材料は豊富ですよ。きっと気に入るはずです」
厨房へと向かう氷室先生。歩きだし、院長室のドアを開ける。
「いや、だからその、裏乃は・・・・・・」
「さぁ、こちらです」
氷室先生に案内されるがまま、僕は厨房へと向かう。裏乃の話しを無視した先生。彼女に、何か嫌な印象でもあるのだろうか? 聞く耳を持たない態度をした、この人を見るのは初めてだ。
「材料はマーガリン、ミルク、砂糖に小麦粉。シンプルでしょう? 隠し味にくるみも使ってみましょう」
それらビスケットの材料を、先生はボールの中に入れる。
「さぁ、かき混ぜて」
ボールに入った材料をかき混ぜる僕。先生の言うとおり、難しいお菓子ではなさそうだ。料理素人の僕でもそう思う。しばらくして。
「後はボール状に小さく丸めて、オーブンで焼くだけです」
僕はオーブン皿に、まだ焼かれていないビスケットを、ボール状に丸めて置いていく。
「オーブンに入れて、後は待つだけです」
氷室先生は、少し微笑みを浮かべながら僕に頷いた。沙羅と裏乃の喜ぶ顔が待ち遠しい。僕がそう思ったときだった。
「氷室先生! 庭で沙羅が倒れました!」
厨房に看護婦が、慌てた様子で告げる。聞いた途端に、氷室先生は厨房から走り出す。
「沙羅・・・・・・? 沙羅・・・・・・!」
僕も少し遅れて厨房を後にする。心に動揺と焦りが走った。
庭では数人の看護師と、先に到着していた氷室先生がいた。そして血色が悪く、倒れた沙羅の姿が。
「ああ・・・・・・」
その目の前には、呆然と、自分の髪を両手でクシャクシャとかき回す裏乃がいる。そんな彼女に目もくれず、氷室先生は沙羅を処置していた。
「少し熱がある。きっと薬の副作用だ。氷枕を用意して、病室で寝かせましょう」
体格のいい看護師が沙羅を抱き上げ、病室へ連れて行く。
「待って、沙羅は大丈夫なのか? 薬の副作用って・・・・・・」
僕は堪らず聞く。僕と出会ってから、薬嫌いの沙羅は毎日薬を飲むようになった。だとしたら、彼女が倒れたのは僕のせいだ。
「悪いが裏乃を見ていてくれませんか? 沙羅が落ち着いたら、私からお知らせますので」
氷室先生は看護師たちと、サナトリウムの中に入っていく。僕と裏乃の二人だけが、庭に残された。沙羅が心配な僕だが。
「歩夢、沙羅はどうなっちゃうの・・・・・・? 死んじゃうの・・・・・・?」
こんな状態の裏乃を、ほっとくわけにはいかなかった。
「死んだりするもんか。きっと大丈夫だ」
僕はそう口にするが。裏乃は落ち着きを取り戻さない。
「私、氷室先生に睨まれた・・・・・・沙羅が倒れたのは、私のせいだと思ってる・・・・・・」
「そんなわけないだろう? 薬の副作用だって言ってたじゃないか」
当然、裏乃のせいなんかじゃない。悪いのは僕だ。
「またお仕置きされるよ・・・・・・どうしよう、どうしよう・・・・・・」
裏乃は急に怯え始めた。
「お仕置き? お仕置きってなんだ?」
聞いてみる僕だが。裏乃は小刻みに震え、それ以上は何も答えなかった。
「裏乃。病室へ帰る時間だ」
どこからともなく、一人の看護婦が現れる。裏乃の手を握り、精神病棟へと連れて行った。
裏乃が怯えるお仕置きとは、どういうものなのだろうか? あの怯え方に、尋常ないものを感じる。
僕は沙羅の病室の前で待った。もうすぐ夕暮れになる頃だというのに、氷室先生は一向に病室から出てこない。
「大丈夫なのか・・・・・・?」
僕は思わず、口からその言葉を漏らす。裏乃に、沙羅は大丈夫だと告げておきながら、自分を情けなく思う。所詮僕は口先だけだった。
ガチャ
その刹那、病室のドアが開く。
「沙羅は大丈夫です。しばらく安静にしていれば大丈夫でしょう。さぁ、どうぞ。あなたに会いたがってます」
病室の中へと案内する氷室先生。一刻も早く、沙羅に会いたい僕だったが。その前に一つだけ、先生に聞きたいことがあった。
「あの、裏乃が酷く怯えている。先生にお仕置きされるって」
氷室先生は僕を見つめる。一点に。
「あれは普通の怯え方じゃない。お仕置きって、一体どんなことを・・・・・・?」
質問する僕に対し、先生はニヤリと妖しく笑う。
「知ってしまえば、きっと後悔するでしょう。それに裏乃の存在は、我々にとって悪影響です」
このとき、僕は初めて氷室先生に、異様な不気味さを感じた。
「先生、患者さまがお待ちです」
一人の看護師が、氷室先生を呼びに来る。
「私はこれで失礼します」
氷室先生は立ち去って行った。
(裏乃が悪影響なもんか・・・・・・僕や沙羅にとっても・・・・・・)
一人心の中で思いながら、沙羅が僕を待つ病室の中へと入った。
「歩夢」
ベッドに横になっている沙羅は、僕の顔を見ると、まるで安心したかのように微笑んだ。
「沙羅、気分はどう? その、平気か?」
彼女のことが心配でたまらず聞いた。
「大丈夫。少し熱が出ただけだから。こんなの平気だよ」
平気と告げる沙羅。それでも顔色が少し悪い気がする。
「ずっと咳が止まらない夜だってある。それに比べたら、まだ楽なほうだよ」
沙羅は微笑んだ。優しく。もう知っていたことだ。沙羅は病に侵されている。だから、このサナトリウムの患者なのだ。ただ、彼女に聞けていないことが一つあった。一つだけ・・・・・・
「病気は治るのか?」
それは、聞いてはいけないことだった。心のどこかで、僕が無視し続けていたことだ。それでも沙羅は、顔色一つ変えない。
「治せないよ。ずっと。いつまでも」
彼女は平然と答えた。それを聞いた僕は、今にも膝から崩れ落ちそうだ。
「それでも私は、君を一人にはしないよ。必ず会いに行くから」
沙羅の言葉は、僕を辛くさせた。そんな言葉を口にした彼女を悲しく思う。僕は、もう大切な人を失いたくない。もう沢山だ。
「歩夢。私、少しだけ夢を見ていたの」
僕の辛さをまるで理解したかのように、沙羅は話題を変えた。
「どんな夢?」
僕は聞く。死の話題など、これ以上したくない。
「女の子の夢。歩夢を探していた。悲しそうに夕暮れの砂浜を歩いている。あの子は、まるで志保の生き写し。だけど、とても優しい子に思える。誰も愛せなかった志保とは違う」
詩織だ。沙羅が夢で見た少女は詩織だった。
「きっとまだ砂浜を歩いている。会ってあげて」
僕にそう口にした沙羅。それでも僕は、沙羅のそばを離れたくない。
「駄目だ。もう決めたんだ。君と一緒にいるって。僕は君だけを見つめていたい」
僕が自らの思いを告げると、沙羅の表情はどこか悲しいものへと変わる。
「会ってあげて。お願い。あの子には、きっと救う価値があるから」
僕が救う? 悲しみのどん底にいる詩織を救えるのか? 自信なんて到底持てない。
「あの子は歩夢を愛しているんだよ・・・・・・私と同じように・・・・・・」
冬の夕暮れの中、僕は砂浜へと向かっていた。志保が死んだ海へと。荒廃したようなオレンジの光が、酷く眩しく感じる。あのときと同じだ。
「あのときも・・・・・・」
心に異様な苦しさが現れ始める。僕は、過去を思い返していた。惨い罪を犯した過去を。
『僕は君が好きなんだ』
一年前の冬の海で、僕は志保に自分の思いを伝えた。告白されたというのに、志保は表情一つ変えず僕の顔を見つめている。
『・・・・・・愛してくれるの・・・・・・?』
それが志保の口から出た言葉。今思えば、人間味など微塵も感じられない声だった。
『・・・・・・私は歩夢を愛していない・・・・・・愛していないから・・・・・・』
志保は、自らの思いを僕に告げる。あのとき一瞬だけ、冷たい風が吹いたのを僕はよく覚えていた。
『なら、ただの友達のままか・・・・・・』
失恋した僕は空しく俯く。地面に見える白い砂が、遠い無限を錯覚させた。
『歩夢とは友達じゃないよ』
顔を上げ。一瞬、我が耳を疑った僕。志保は、薄ら笑みを浮かべ僕を見ていた。どこか人をあざ笑うかのような笑み。僕が耳にしたのは幻聴ではない。
『なら、どうして僕なんかと一緒にいるんだ?』
『それは・・・・・・』
志保が放った言葉は、僕の人生を変えてしまった。人格までも。彼女の恋人にもなれず。しかも僕は友達でもなった・・・・・・酷く悲しい・・・・・・心が壊れる・・・・・・
『成績を上げたかっただけ。歩夢は、そのための私の人形なんだよ』
彼女にとって、僕は人間でもなかったのだ・・・・・・
『ほら、友達のいない同級生に手を差し伸べるって、先生からの印象もいいでしょう?』
志保が笑う。目を細めて笑う。
『人形のくせに、歩夢は可哀想だね』
一人、砂浜を立ち去って行く志保。そんな彼女の後ろ姿を見つめながら、僕は二つの思いに駆られた。一つは殺意。そしてもう一つは。狂気だ・・・・・・
『苦しいか? 大丈夫。すぐ終わるから』
気が付けば、僕は自身の両手で、志保の細い首を絞める。彼女は苦しそうに足掻いたが、それはほんの少しの間だけだった。
『僕を騙したお前が悪いんだ!』
僕に絞殺された志保。砂浜で倒れこみ、息をしなくなった彼女に向かって僕は叫んでいた。聞こえるはずがないというのに。
その翌日の朝、志保の遺体だけが美里町の砂浜で見つかった。警察は今でも犯人を捜している。誰も、志保と友人以下だった僕を疑いもしなかった。そして僕は自分の心と記憶を偽り、のうのうと生き続ける。
「・・・・・・歩夢君・・・・・・」
目の前には、僕に向かって悲しそうに微笑む詩織の姿があった。
「よかった。見つかって。ずっと探していたんだよ・・・・・・」
どこか涙目の詩織。疲れた顔をしている。しかし次の瞬間には、まるで安心を取り戻したかのような笑顔を彼女は見せた。
「どうしてそんな風に笑えるんだ?」
聞いてしまう僕に、詩織は目を細めながら小首を傾げる。
「僕はここで志保を殺したんだ」
僕は自らの罪を告白した。姉と瓜二つの容姿をした妹の志保に。
「知ってるよ」
詩織は答えた。僕の背筋に冷たい悪寒が走るが、詩織はどこか落ち着いた表情を見せている。
「あの日、私は二人の後をつけていたの」
「どうしてそんなことを・・・・・・?」
「歩夢君のことがずっと気になっていたから・・・・・・最初に会ったときから・・・・・・」
それは思いもよらない詩織の告白だった。彼女は僕と同様に、どこか感情が欠落しているのか? 僕を見つめ、頬を少し赤くしていた。
「僕は君の姉を殺したんだぞ」
再び罪を口にする僕。詩織は目を閉じると、ゆっくりと首を左右に振る。そして目を開けると、悲しそうに俯いた。
「私の姉は。志保は本当にいい人間じゃなかった。歩夢君が志保の首を絞めたとき、心の底から安心したの」
それは志保の妹からの嘘偽りのない言葉。殺した犯人である僕は、内心驚いていた。詩織からは、恨みの思いなど微塵も感じられない。
「私は志保にいつも殴られていた・・・・・・」
「殴られていた? 何故・・・・・・?」
「同じ顔をした私が気に入らない。ただそれだけの理由だよ」
悲しそうに俯いていた詩織は顔を上げると、少しだけ微笑んだ。ほんの少しだけ・・・・・・
「痛くて泣いていても両親には、いつも無視されていた。きっと姉妹の中で、志保が一番可愛かったんだと思う」
これが詩織の味わった現実。優等生である彼女の正体。
「歩夢君は終わらせてくれたんだよ。私の辛い現実を・・・・・・」
僕が詩織は志保じゃないと、本当に理解できた瞬間だった。
「姉の志保は、誰も愛せなかったけど私は違う。歩夢君を心から愛せているから・・・・・・だから・・・・・・」
詩織は、僕に向かってゆっくりと背伸びする。
「歩夢君も、どうか私を愛して・・・・・・」
僕の頬に柔らかい感触。それは詩織の唇だった。
「駄目だ・・・・・・」
僕は詩織の愛を拒絶する。僕の中には、すでに沙羅が存在していたからだ。
「嬉しいけど、駄目なんだ・・・・・・君はいつも僕に優しくしてくれたのに・・・・・・それなのに僕は・・・・・・」
それは酷い罪悪感だった。優しくしてくれた彼女に、申し訳がない。それでも、片思いの詩織は、僕だけを見つめ微笑んでくれた。
「好きな人がいるんだね。その人はきっと綺麗な人でしょう? 綺麗で優しくて温かい人・・・・・・」
詩織は、沙羅の印象を見事に言い当てる。
「会ってみたい。その人に」
それは難しかった。沙羅は薬の副作用で、今でもベッドの上で休んでいるはずだ。
「今は駄目なんだ。重い病気で、ずっとサナトリウムにいる子だから・・・・・・」
僕は正直に答えるのだが。詩織は、どこか名残惜しそうに口を開くのだった。
「お願い。一目だけでいいから」
一目だけ? 詩織は、どうしてそんなに沙羅に会いたがるのだろうか? そんな僕の疑問を、彼女自らが教えてくれた。
「歩夢君が好きになった人が、どんな人か見て見たいの」
詩織の黒く綺麗な瞳に嘘はない。この子が素直なのは、僕が一番よく知っている。
「私は失恋したけど、嬉しい」
頬を赤くさせ、にこやかに笑う詩織。
「歩夢君が、志保以外に好きな人ができてとても嬉しい・・・・・・」
僕は、詩織を案内することにした。僕の居場所であるサナトリウムに・・・・・・
サナトリウムへと続く山道を、詩織と一緒に歩く僕。気のせいか? 夕暮れの光が、少しだけ強くなった気がする。もう夜が近いのだろうか?
「名前は?」
「え・・・・・・?」
「もう、その子の名前だよ」
「沙羅」
「沙羅? とても綺麗な名前。何だか羨ましい」
「詩織だっていい名前だろう」
答える僕に詩織は
「普通の名前だよ」
と笑顔で返すのだった。
サナトリウムに到着する僕と詩織。
「ここがそうなの・・・・・・?」
サナトリウムの西洋風の大きな玄関を見た途端、詩織はどこか怪訝な表情を見せた。
「そうだ。ここがサナトリウム。沙羅の病室まで案内するよ」
僕は詩織をつれ、サナトリウムの庭を歩く。
「ここの精神病棟に、裏乃って名前の年下の女の子がいてさ。これが妹みたいで可愛いんだ」
「そ、そうなんだ・・・・・・」
詩織の反応は曖昧だった。裏乃にまるで興味がないようだ。
(おかしいな? どうしたんだ?)
僕がそう思いながら、病棟のドアを開けると、そこには氷室先生が立っていた。まるで僕たちを待っていたかのように。先生は右手に、ビスケットが盛りつけられた皿を持っていた。僕が焼いたものに違いない。
「これは綺麗なお嬢さんだ。どうぞ中へ」
右手に皿を持ったまま、氷室先生は詩織に向かってお辞儀する。いつもと同じ西洋風のお辞儀を見せると、先生はサナトリウムの中へと入っていく。
「さぁ、行こう」
「え? 歩夢君?!」
僕は氷室先生に少し遅れて、サナトリウムの中に入る。どういう訳か? サナトリウムの中に入ると、詩織はどこか狼狽え始める。一階に飾られた絵画の数々に、動揺しているのだろうか? きっとそうだ。一階は、美術館のような内装をしている。動揺してしまうのも無理はないだろう。
「お一つ食べてみてください。あなたが焼いたものですから」
皿に盛りつけられたビスケットを、僕に向かって差し出す氷室先生。正直、僕の中にはまだ先生への疑念が残っているのだが。
「どうも」
僕は、皿にあるビスケットを一枚手に取り、一かじりする。一応味見するためだ。せっかく作ったのに、沙羅と裏乃に不味いと突き返されるのもショックに思えた。
「いい出来だと思いませんか?」
僕が作ったビスケットは、素直に美味しいといえる。
「ああ、我ながらいい出来だ」
僕は疑念の残る氷室先生に、思わず笑みを零してしまう。沙羅が回復して、裏乃が落ち着けば、また楽しい日々が送れる。このビスケットを囲み、僕たちはまた笑いあうことができるのだ。三人で。いや、詩織を入れて四人だ。かけがえのない四人にしよう。そう心に誓う僕に、氷室先生は微笑んでいた。どこか屈折した笑顔で。
「どうです? ちゃんと味もするし、空腹も満たされるでしょう?」
「え?」
氷室先生の言葉の意味が理解できない。食べ物に味がし、空腹が満たされるのは当然のことだろう? 一体どうしたというのか?
「答えは彼女の口から聞けばいい。きっと納得できる。醜い自分を欺いていたと」
僕は振り返り、すぐ後ろにいた詩織の顔を見る。彼女は怯えた表情で僕を見ていた。
「・・・・・・誰と話しているの・・・・・・?」
僕に怯えた詩織の言葉。その言葉は、僕を苦しい現実に引き戻す。
「・・・・・・そうか、僕は知ってたんだ・・・・・・」
僕の目に映るのは、荒れ果てた廃墟だった。壊れたベッドや椅子にラジオ。割れた窓から入って来る海からの冷たく澄んだ空気だけが、この場所がかつてサナトリウムだった名残を残していた。
「サナトリウムなんて、もうないんだよ。私と一緒に帰ろう」
僕の手を握る詩織。その手は微かに震えていた。
「いや、帰らない。僕は帰らない・・・・・・ここに僕の大切な人がいるんだ・・・・・・」
口の中には、微かにビスケットの甘さが残っている。幽霊や怨霊の類では決してない。彼らは存在している。
沙羅・・・・・・君は僕の幻覚でも、愛しているんだ・・・・・・
「・・・・・・沙羅・・・・・・」
僕が最愛の人の名を呆然と口にしたとき、幻覚の世界へと戻った。腹部に感じた鋭い痛みと一緒に・・・・・・
「歩夢君・・・・・・?!」
「どうして、僕をこんな目に会わせる・・・・・・?」
僕の目の前には、先ほどの廃墟とは程遠い、いつものサナトリウム。氷室先生が立っている。不敵な笑みを浮かべながら・・・・・・
「心配はありません。すぐに処置すれば助かる・・・・・・」
僕の腹に、銀色に輝くナイフが刺さっていた。刺した本人は氷室先生だ。
「歩夢は哀れ、可愛そう」
その場には、志保も存在していた。幻覚の志保。僕が刺されたのを見て、微笑んでいる。彼女の手には、オレンジの火を灯したランプが握られていた。
「・・・・・・悲しい人だね・・・・・・」
ただ、微笑む志保。氷室先生。いや、氷室は僕の腹からナイフを抜く。酷い苦痛と一緒に、腹からは血が流れ出す。僕は堪らずその場に蹲る。今にも死にそうな痛みだったが、何とか顔だけは上げることができた。
「まさか・・・・・・本当に、本当に・・・・・・」
何かを確信したかのように、詩織は呆然としている。誰かが刺されるのを目にするのは、彼女にとってはもう沢山だろう。
「廃墟しか見えないのに・・・・・・廃墟しか見えないのに・・・・・・」
蹲る僕に近づき、詩織はただその言葉を繰り返すだけだった。
「そのランプは何だ? 一体どうするつもりだ?」
僕の血の付いたナイフを、丁寧にナプキンで拭きながら、氷室は志保に口を開く。
「幻覚のサナトリウムと、もう一人の私を燃やすの」
「燃やす? どうして?」
氷室の質問に、志保は妖しい笑みを浮かべ答えた。
「もっと壊れた歩夢を見たいから」
志保の歪んだ答え。たったそれだけの理由で、志保はランプを手に持っていたのだ。しかし、氷室にとって、このサナトリウムを燃やすのは、不満でしかなかった。
「そんなことは許さない。私の美しい沙羅が焼け死んでしまう」
「私の沙羅? 美しい? あんな歪んだ子がそんなに大切なの?」
「少なくとも誰も愛せない君より、はるかにいい子だ」
「誰も愛せない? 私が? 私は裏乃を心から愛しているのに」
「裏乃を愛しているだと?」
氷室は志保に向かって、まるで蔑んだ微笑を浮かべる。
「裏乃は嬉しかったんだって」
氷室を無視し、志保は、僕に向かって口を開いた。
「何が・・・・・・? 一体何がだ・・・・・・?」
痛む傷を堪えながら、僕は声を出す。志保の口から告げられる、答えを聞くために。
「歩夢が優しくしてくれて嬉しいって。私が愛してくれて嬉しいって」
志保は笑う。歪んだ笑みを浮かべ笑う。
「裏乃は可愛い。こんな私に懐いてくれたから」
あろうことか。僕の知らぬときに、志保は裏乃と会っていたらしい。
「最初は驚いたよ。ずぶ濡れの裏乃を少し温めただけで、あの子は私の虜になったんだから」
僕には、まるで裏乃が汚れた気分だった。志保は笑う。腹から血を流す僕を、どこか楽しげに見下ろしながら。
「お前らは幻覚だ・・・・・・僕が創りだした妄想なんだ・・・・・・存在しない人間なんだ・・・・・・裏乃も、沙羅も・・・・・・」
僕は思わず、自らにそう言い聞かせようとする。否定さえすれば、この幻想は消えると信じた。傷の痛みも消えると。
しかしどう足掻いても、僕の中には二人の少女の顔が浮かんでしまう。
「それは無駄なことだ。歩夢。君はもうサナトリウムに存在する沙羅の虜だ」
氷室は持っているナイフを、そばにあった待合用のテーブルの上に置くと、蹲る僕に距離を詰める。
「温かい食事も、君専用の病室も用意する。勿論、私のせいで負った傷の治療も」
傷を治療すると告げられ、僕の心には安心感が広がった。
「ただし、私は君を二度と外に出す気はない。君が存在さえしていれば、沙羅は消えなくてすむのだから」
嬉しそうに微笑む氷室に、僕は理解する。彼は、沙羅の延命だけを望んでいたことに。
「病室には頑丈な鍵をかけよう。誰の出入りもなく君は、一生をそこで過ごすんだ。愛する沙羅のために」
どうだ? 私のアイディアは素晴らしいだろう? そういわんばかりに氷室は、ニヤリと笑みを零す。そして彼が、ゆっくりと立ち上がったときだ。
「・・・・・・嫌な最後だ・・・・・・」
氷室が零した言葉に、一瞬僕には何が起こったのか理解できなかった。彼の左胸に鋭くとがった物が、貫通しているように見える。
「ナイフ・・・・・・?」
鋭くとがった物の正体はナイフだった。それも、氷室が僕を刺したナイフ。彼は誰かに、後ろから刺されたのだ。心臓を一突きにされて。あろうことか。氷室は、自らがテーブルに置いたナイフが仇となったのだ。
「・・・・・・」
目を見開き、氷室は無言で崩れ落ちた。そして僕は、氷室を刺した誰かと対面する。
「氷室先生、死んじゃったね」
無表情にナイフを右手に持ち、氷室を見下ろす少女・・・・・・裏乃だった。
「裏乃。よくできました。今日はいいことをしたね」
志保は溢れんばかりの笑顔で、氷室を刺殺した裏乃を褒め称える。
「志保のお願いなら、何でも聞くよ」
どうやら裏乃は、志保に命令されたようだった。僕の心に、志保への怒りが込み上がる。
「歩夢? どうして血が出ているの?」
そのとき、僕は裏乃と目が合う。小首を傾げ不思議そうな眼差しで、血を流し、弱っている僕を見下ろしていた。
「裏乃・・・・・・もう志保なんかと関わるな・・・・・・」
「どうして? 志保はいい人だよ」
「いい人なんかじゃない・・・・・・あいつはとんでもない狂人だ・・・・・・」
裏乃は僕に向かって、怪訝な表情を浮かべる。狂人の志保を、信じ切っているのが理解できた。
「狂人? 歩夢には言われたくない言葉だよ」
幻想のサナトリウムを創りだした張本人である僕。確かに狂人かもしれない。それでも・・・・・・
「黙れ、黙れよ・・・・・・! こんないい子に人殺しをさせて・・・・・・!」
「裏乃は、あの男に酷い仕打ちされたんだよ。歩夢が創ったあの男に。だから裏乃にはある。あの男を殺す権利がある」
「裏乃はいい子だ・・・・・・!」
最早、僕には志保にそんな言葉しか浴びせられなかった。傷口が、先ほどよりも痛み始める。
「・・・・・・畜生・・・・・・」
今にも死にそうな痛みの中で、僕を見てあざ笑う志保。
「ふーん・・・・・・裏乃が大切なんだ・・・・・・きっと沙羅と同じくらい・・・・・・」
やめろ。よせ。僕はそれらの言葉を声に出したかった。しかし、体力が続かない。
「裏乃、さぁ、おいで・・・・・・」
妖し志保に手招きされる裏乃。
「うん」
裏乃は疑いもせず、ランプを片手に持った志保に歩み寄っていく。
「裏乃、今から痛いことをするけど我慢できる?」
「痛いこと・・・・・・?」
不安げな裏乃。当然の反応だ。
「やめろ・・・・・・その子は失いたくない・・・・・・」
全身の力を振り絞り、僕は立ち上がる。今にも死にそうだ。
「火に包まれるの。大丈夫。私も一緒に包まれるから」
志保は笑顔で裏乃に告げた。曇りない笑顔で・・・・・・
「うん。志保と一緒なら、私は大丈夫」
「いい子だね・・・・・・だから愛したの・・・・・・」
志保は片方の手で裏乃の小さな体を抱くと、頭上にランプを掲げる。燃える荒廃したようなオレンジの火が、僕に冬の夕暮れを錯覚させた。
「歩夢、私たちの最後に教えてあげる。裏乃の存在する意味を」
僕に向かって、妖しく微笑む志保。そして語った。まるで遺言のように。
「裏乃は、歩夢に伝えるためだけに存在したの。サナトリウムが歩夢の幻想だって伝えるために。けど、この子には伝える術がなかった。どう伝えていいかわからなかったんだよ」
志保の語った言葉を、僕は理解することができた。今ならできる。だから裏乃は氷室に目の敵にされ、沙羅には無視されていたのだ。そんな裏乃はどこかキョトンとしながら、志保が頭上に掲げるランプを見つめていた。
「さぁ、歩夢、壊れて・・・・・・もっと酷く壊れて・・・・・・これは遺言だから・・・・・・」
志保は頭上からランプを落とす。二人の体は一瞬で炎に包まれる。苦しく痛がる悲鳴はなかった。ただ、二人は燃えていく・・・・・・
「・・・・・・裏乃、嫌だ・・・・・・嫌だ・・・・・・そいつと消えるんじゃない・・・・・・!」
傷の痛みを堪え、やっとの思いで立ち上がる僕。激痛が走り、また倒れそうになるが。僕の頭の中で裏乃の笑った顔が見えた・・・・・・可愛らしく、楽しそうに笑った顔が・・・・・・僕はゆっくりと歩き出す。激痛を堪えて、燃える二人に近づいた。
「裏乃、裏乃・・・・・・どんな形でも、もう一度、もう一度だけでいいから・・・・・」
燃え盛る炎の中で、僕は小さな人影を見る。裏乃に間違いない。僕は炎に包まれる裏乃を抱き締めた・・・・・・当然、僕の体に炎が移る・・・・・・
「歩夢君・・・・・・? 歩夢君!」
少女の声を聞いた気がする・・・・・・思い出せない懐かしい人に似た声だ・・・・・・
どうしてだろうか・・・・・・? この声に罪悪感を覚えた・・・・・・詩織・・・・・・確かそんな名前だった気がする・・・・・・
「いいから話しかけてみろよ」
「歩夢、無理だよ。きっと嫌な顔されるよ・・・・・・」
今にも泣きべそをかきそうな裏乃。それにはある理由があった。僕たちの目の前には、沙羅がいるのだ。無表情に裏乃を見つめる沙羅が。
「沙羅・・・・・・」
裏乃が話しかけると、無表情な沙羅は小首を傾げる。
「いいお天気だね」
裏乃は満面の笑みを見せて口を開くのだが。沙羅は相も変わらずの無表情だ。
「だから外に出たの。裏乃はどうして外に出たの?」
僕は素直に驚いた。僕が、このサナトリウムで生活するようになって二週間。沙羅が初めて、裏乃と会話らしい会話をしたのだ。
「歩夢、歩夢。沙羅が」
実に嬉しそうな声を出しながら、頬を少し赤くした裏乃は僕を見た。それも当然な反応だろう。沙羅が裏乃に対して、微かに心を開いた瞬間だったから。今まで沙羅は、ただ裏乃に嫌悪するだけだった。
「どうして外に出たの?」
沙羅はなおも裏乃に聞いた。どうして外に出たのかと。
「えーと、えーと」
裏乃は少しの間考え込むと、次の瞬間にはどこか満足気に口を開く。
「綺麗だから。冷たい光がとても綺麗だから」
それが裏乃の答え。精神病棟の自由時間に外に出た理由。冷たい光。きっと冬場の太陽のことだろう。
「確かに綺麗だね。綺麗でどこか心地いい」
沙羅は笑った。裏乃に向かって笑った。小首を傾げ、とても嬉しそうに。
「よかったじゃないか裏乃。大きな進歩だ」
「うん!」
元気よく返事をする裏乃。僕は祝福した。心の底から。そして、あることを思いつくのだった。
「ちょっと失礼するよ」
僕は、沙羅と裏乃の下を後にしようとする。
「歩夢、どこに行くの?」
不思議そうな面持ちで沙羅が聞く。
「氷室先生のとこだよ」
僕が答えると沙羅は「そう」とだけ口にする。しかしどういう理由か。裏乃は、氷室先生の名を聞いた途端。どこか浮かない表情を見せるのだった。
「氷室先生は怖い人だよ・・・・・・沙羅・・・・・・」
裏乃は沙羅の手を握り、早速、彼女に甘えだす。氷室先生が怖い? きっと裏乃が何か悪さをして、叱られることが大いに違いない。
「氷室先生はいい人だよ。だから安心して」
「あうー・・・・・・」
沙羅は、裏乃が思っている氷室先生への印象を弁明した。それでも裏乃は浮かない表情だ。
「私といれば大丈夫だから・・・・・・」
裏乃に告げる沙羅。一瞬、彼女が妖しい笑顔を見せたと思ったのは、僕の気のせいだろうか?
「うん、沙羅といる」
納得する裏乃。嫌に素直だ。僕はそう思った。
「沙羅、裏乃を頼むよ」
僕は二人を残し、庭を後にする。
院長室に氷室先生はいた。何枚もの処方箋用紙に、薬の名前を記入している最中のようだ。
「どうしました? まさか、ここでの生活が気に入りませんか?」
万年筆を机に置きながら、氷室先生は口を開く。
「いや、まさか。ここはとてもいい場所だ」
僕自身、ここの生活は快適だと思っている。気が合う沙羅に。妹のような存在の裏乃。毎日が楽しく思える。氷室先生は、患者でもない僕を歓迎してくれた。気が済むまで、このサナトリウムで生活していいと。
「それで、ご用件は? 私にできることなら、遠慮せずに言ってください」
「あ、でも、忙しいんじゃ・・・・・・? 」
「構いませんよ。急ぎの処方箋じゃないので」
気を使う僕だったが。それなら話が早かった。
「甘いお菓子を作りたいんです」
これが僕の目的。沙羅と裏乃が、きっと大喜びすると思った。
「甘いお菓子? たとえばビスケット?」
質問する氷室先生に僕は
「それだ。それがいい。ビスケットだ」
まるで自分で思いついたかのように納得する。
「ビスケットなら誰にでも作れますよ。けっして難しいお菓子じゃない」
氷室先生は椅子から立ち上がった。
「それにしても。甘いお菓子は沙羅への贈り物ですか?」
「少しだけ不正解。送りたい相手は二人。一人は沙羅。もう一人は裏乃」
このとき、氷室先生の顔色が少しだけ変わる。僕の目を見つめ、薄ら笑いを浮かべながら口を開く。
「裏乃。あの子は色々と問題の多い患者です。薬嫌いの沙羅が、きっと可愛らしく思えるでしょう」
氷室先生はそう答えた。
「え? そんなことはない。裏乃はいい子だ。少しだけワガママなとこがあるけど・・・・・・」
弁明しようとする僕だが。
「とにかく厨房に行きましょう。材料は豊富ですよ。きっと気に入るはずです」
厨房へと向かう氷室先生。歩きだし、院長室のドアを開ける。
「いや、だからその、裏乃は・・・・・・」
「さぁ、こちらです」
氷室先生に案内されるがまま、僕は厨房へと向かう。裏乃の話しを無視した先生。彼女に、何か嫌な印象でもあるのだろうか? 聞く耳を持たない態度をした、この人を見るのは初めてだ。
「材料はマーガリン、ミルク、砂糖に小麦粉。シンプルでしょう? 隠し味にくるみも使ってみましょう」
それらビスケットの材料を、先生はボールの中に入れる。
「さぁ、かき混ぜて」
ボールに入った材料をかき混ぜる僕。先生の言うとおり、難しいお菓子ではなさそうだ。料理素人の僕でもそう思う。しばらくして。
「後はボール状に小さく丸めて、オーブンで焼くだけです」
僕はオーブン皿に、まだ焼かれていないビスケットを、ボール状に丸めて置いていく。
「オーブンに入れて、後は待つだけです」
氷室先生は、少し微笑みを浮かべながら僕に頷いた。沙羅と裏乃の喜ぶ顔が待ち遠しい。僕がそう思ったときだった。
「氷室先生! 庭で沙羅が倒れました!」
厨房に看護婦が、慌てた様子で告げる。聞いた途端に、氷室先生は厨房から走り出す。
「沙羅・・・・・・? 沙羅・・・・・・!」
僕も少し遅れて厨房を後にする。心に動揺と焦りが走った。
庭では数人の看護師と、先に到着していた氷室先生がいた。そして血色が悪く、倒れた沙羅の姿が。
「ああ・・・・・・」
その目の前には、呆然と、自分の髪を両手でクシャクシャとかき回す裏乃がいる。そんな彼女に目もくれず、氷室先生は沙羅を処置していた。
「少し熱がある。きっと薬の副作用だ。氷枕を用意して、病室で寝かせましょう」
体格のいい看護師が沙羅を抱き上げ、病室へ連れて行く。
「待って、沙羅は大丈夫なのか? 薬の副作用って・・・・・・」
僕は堪らず聞く。僕と出会ってから、薬嫌いの沙羅は毎日薬を飲むようになった。だとしたら、彼女が倒れたのは僕のせいだ。
「悪いが裏乃を見ていてくれませんか? 沙羅が落ち着いたら、私からお知らせますので」
氷室先生は看護師たちと、サナトリウムの中に入っていく。僕と裏乃の二人だけが、庭に残された。沙羅が心配な僕だが。
「歩夢、沙羅はどうなっちゃうの・・・・・・? 死んじゃうの・・・・・・?」
こんな状態の裏乃を、ほっとくわけにはいかなかった。
「死んだりするもんか。きっと大丈夫だ」
僕はそう口にするが。裏乃は落ち着きを取り戻さない。
「私、氷室先生に睨まれた・・・・・・沙羅が倒れたのは、私のせいだと思ってる・・・・・・」
「そんなわけないだろう? 薬の副作用だって言ってたじゃないか」
当然、裏乃のせいなんかじゃない。悪いのは僕だ。
「またお仕置きされるよ・・・・・・どうしよう、どうしよう・・・・・・」
裏乃は急に怯え始めた。
「お仕置き? お仕置きってなんだ?」
聞いてみる僕だが。裏乃は小刻みに震え、それ以上は何も答えなかった。
「裏乃。病室へ帰る時間だ」
どこからともなく、一人の看護婦が現れる。裏乃の手を握り、精神病棟へと連れて行った。
裏乃が怯えるお仕置きとは、どういうものなのだろうか? あの怯え方に、尋常ないものを感じる。
僕は沙羅の病室の前で待った。もうすぐ夕暮れになる頃だというのに、氷室先生は一向に病室から出てこない。
「大丈夫なのか・・・・・・?」
僕は思わず、口からその言葉を漏らす。裏乃に、沙羅は大丈夫だと告げておきながら、自分を情けなく思う。所詮僕は口先だけだった。
ガチャ
その刹那、病室のドアが開く。
「沙羅は大丈夫です。しばらく安静にしていれば大丈夫でしょう。さぁ、どうぞ。あなたに会いたがってます」
病室の中へと案内する氷室先生。一刻も早く、沙羅に会いたい僕だったが。その前に一つだけ、先生に聞きたいことがあった。
「あの、裏乃が酷く怯えている。先生にお仕置きされるって」
氷室先生は僕を見つめる。一点に。
「あれは普通の怯え方じゃない。お仕置きって、一体どんなことを・・・・・・?」
質問する僕に対し、先生はニヤリと妖しく笑う。
「知ってしまえば、きっと後悔するでしょう。それに裏乃の存在は、我々にとって悪影響です」
このとき、僕は初めて氷室先生に、異様な不気味さを感じた。
「先生、患者さまがお待ちです」
一人の看護師が、氷室先生を呼びに来る。
「私はこれで失礼します」
氷室先生は立ち去って行った。
(裏乃が悪影響なもんか・・・・・・僕や沙羅にとっても・・・・・・)
一人心の中で思いながら、沙羅が僕を待つ病室の中へと入った。
「歩夢」
ベッドに横になっている沙羅は、僕の顔を見ると、まるで安心したかのように微笑んだ。
「沙羅、気分はどう? その、平気か?」
彼女のことが心配でたまらず聞いた。
「大丈夫。少し熱が出ただけだから。こんなの平気だよ」
平気と告げる沙羅。それでも顔色が少し悪い気がする。
「ずっと咳が止まらない夜だってある。それに比べたら、まだ楽なほうだよ」
沙羅は微笑んだ。優しく。もう知っていたことだ。沙羅は病に侵されている。だから、このサナトリウムの患者なのだ。ただ、彼女に聞けていないことが一つあった。一つだけ・・・・・・
「病気は治るのか?」
それは、聞いてはいけないことだった。心のどこかで、僕が無視し続けていたことだ。それでも沙羅は、顔色一つ変えない。
「治せないよ。ずっと。いつまでも」
彼女は平然と答えた。それを聞いた僕は、今にも膝から崩れ落ちそうだ。
「それでも私は、君を一人にはしないよ。必ず会いに行くから」
沙羅の言葉は、僕を辛くさせた。そんな言葉を口にした彼女を悲しく思う。僕は、もう大切な人を失いたくない。もう沢山だ。
「歩夢。私、少しだけ夢を見ていたの」
僕の辛さをまるで理解したかのように、沙羅は話題を変えた。
「どんな夢?」
僕は聞く。死の話題など、これ以上したくない。
「女の子の夢。歩夢を探していた。悲しそうに夕暮れの砂浜を歩いている。あの子は、まるで志保の生き写し。だけど、とても優しい子に思える。誰も愛せなかった志保とは違う」
詩織だ。沙羅が夢で見た少女は詩織だった。
「きっとまだ砂浜を歩いている。会ってあげて」
僕にそう口にした沙羅。それでも僕は、沙羅のそばを離れたくない。
「駄目だ。もう決めたんだ。君と一緒にいるって。僕は君だけを見つめていたい」
僕が自らの思いを告げると、沙羅の表情はどこか悲しいものへと変わる。
「会ってあげて。お願い。あの子には、きっと救う価値があるから」
僕が救う? 悲しみのどん底にいる詩織を救えるのか? 自信なんて到底持てない。
「あの子は歩夢を愛しているんだよ・・・・・・私と同じように・・・・・・」
冬の夕暮れの中、僕は砂浜へと向かっていた。志保が死んだ海へと。荒廃したようなオレンジの光が、酷く眩しく感じる。あのときと同じだ。
「あのときも・・・・・・」
心に異様な苦しさが現れ始める。僕は、過去を思い返していた。惨い罪を犯した過去を。
『僕は君が好きなんだ』
一年前の冬の海で、僕は志保に自分の思いを伝えた。告白されたというのに、志保は表情一つ変えず僕の顔を見つめている。
『・・・・・・愛してくれるの・・・・・・?』
それが志保の口から出た言葉。今思えば、人間味など微塵も感じられない声だった。
『・・・・・・私は歩夢を愛していない・・・・・・愛していないから・・・・・・』
志保は、自らの思いを僕に告げる。あのとき一瞬だけ、冷たい風が吹いたのを僕はよく覚えていた。
『なら、ただの友達のままか・・・・・・』
失恋した僕は空しく俯く。地面に見える白い砂が、遠い無限を錯覚させた。
『歩夢とは友達じゃないよ』
顔を上げ。一瞬、我が耳を疑った僕。志保は、薄ら笑みを浮かべ僕を見ていた。どこか人をあざ笑うかのような笑み。僕が耳にしたのは幻聴ではない。
『なら、どうして僕なんかと一緒にいるんだ?』
『それは・・・・・・』
志保が放った言葉は、僕の人生を変えてしまった。人格までも。彼女の恋人にもなれず。しかも僕は友達でもなった・・・・・・酷く悲しい・・・・・・心が壊れる・・・・・・
『成績を上げたかっただけ。歩夢は、そのための私の人形なんだよ』
彼女にとって、僕は人間でもなかったのだ・・・・・・
『ほら、友達のいない同級生に手を差し伸べるって、先生からの印象もいいでしょう?』
志保が笑う。目を細めて笑う。
『人形のくせに、歩夢は可哀想だね』
一人、砂浜を立ち去って行く志保。そんな彼女の後ろ姿を見つめながら、僕は二つの思いに駆られた。一つは殺意。そしてもう一つは。狂気だ・・・・・・
『苦しいか? 大丈夫。すぐ終わるから』
気が付けば、僕は自身の両手で、志保の細い首を絞める。彼女は苦しそうに足掻いたが、それはほんの少しの間だけだった。
『僕を騙したお前が悪いんだ!』
僕に絞殺された志保。砂浜で倒れこみ、息をしなくなった彼女に向かって僕は叫んでいた。聞こえるはずがないというのに。
その翌日の朝、志保の遺体だけが美里町の砂浜で見つかった。警察は今でも犯人を捜している。誰も、志保と友人以下だった僕を疑いもしなかった。そして僕は自分の心と記憶を偽り、のうのうと生き続ける。
「・・・・・・歩夢君・・・・・・」
目の前には、僕に向かって悲しそうに微笑む詩織の姿があった。
「よかった。見つかって。ずっと探していたんだよ・・・・・・」
どこか涙目の詩織。疲れた顔をしている。しかし次の瞬間には、まるで安心を取り戻したかのような笑顔を彼女は見せた。
「どうしてそんな風に笑えるんだ?」
聞いてしまう僕に、詩織は目を細めながら小首を傾げる。
「僕はここで志保を殺したんだ」
僕は自らの罪を告白した。姉と瓜二つの容姿をした妹の志保に。
「知ってるよ」
詩織は答えた。僕の背筋に冷たい悪寒が走るが、詩織はどこか落ち着いた表情を見せている。
「あの日、私は二人の後をつけていたの」
「どうしてそんなことを・・・・・・?」
「歩夢君のことがずっと気になっていたから・・・・・・最初に会ったときから・・・・・・」
それは思いもよらない詩織の告白だった。彼女は僕と同様に、どこか感情が欠落しているのか? 僕を見つめ、頬を少し赤くしていた。
「僕は君の姉を殺したんだぞ」
再び罪を口にする僕。詩織は目を閉じると、ゆっくりと首を左右に振る。そして目を開けると、悲しそうに俯いた。
「私の姉は。志保は本当にいい人間じゃなかった。歩夢君が志保の首を絞めたとき、心の底から安心したの」
それは志保の妹からの嘘偽りのない言葉。殺した犯人である僕は、内心驚いていた。詩織からは、恨みの思いなど微塵も感じられない。
「私は志保にいつも殴られていた・・・・・・」
「殴られていた? 何故・・・・・・?」
「同じ顔をした私が気に入らない。ただそれだけの理由だよ」
悲しそうに俯いていた詩織は顔を上げると、少しだけ微笑んだ。ほんの少しだけ・・・・・・
「痛くて泣いていても両親には、いつも無視されていた。きっと姉妹の中で、志保が一番可愛かったんだと思う」
これが詩織の味わった現実。優等生である彼女の正体。
「歩夢君は終わらせてくれたんだよ。私の辛い現実を・・・・・・」
僕が詩織は志保じゃないと、本当に理解できた瞬間だった。
「姉の志保は、誰も愛せなかったけど私は違う。歩夢君を心から愛せているから・・・・・・だから・・・・・・」
詩織は、僕に向かってゆっくりと背伸びする。
「歩夢君も、どうか私を愛して・・・・・・」
僕の頬に柔らかい感触。それは詩織の唇だった。
「駄目だ・・・・・・」
僕は詩織の愛を拒絶する。僕の中には、すでに沙羅が存在していたからだ。
「嬉しいけど、駄目なんだ・・・・・・君はいつも僕に優しくしてくれたのに・・・・・・それなのに僕は・・・・・・」
それは酷い罪悪感だった。優しくしてくれた彼女に、申し訳がない。それでも、片思いの詩織は、僕だけを見つめ微笑んでくれた。
「好きな人がいるんだね。その人はきっと綺麗な人でしょう? 綺麗で優しくて温かい人・・・・・・」
詩織は、沙羅の印象を見事に言い当てる。
「会ってみたい。その人に」
それは難しかった。沙羅は薬の副作用で、今でもベッドの上で休んでいるはずだ。
「今は駄目なんだ。重い病気で、ずっとサナトリウムにいる子だから・・・・・・」
僕は正直に答えるのだが。詩織は、どこか名残惜しそうに口を開くのだった。
「お願い。一目だけでいいから」
一目だけ? 詩織は、どうしてそんなに沙羅に会いたがるのだろうか? そんな僕の疑問を、彼女自らが教えてくれた。
「歩夢君が好きになった人が、どんな人か見て見たいの」
詩織の黒く綺麗な瞳に嘘はない。この子が素直なのは、僕が一番よく知っている。
「私は失恋したけど、嬉しい」
頬を赤くさせ、にこやかに笑う詩織。
「歩夢君が、志保以外に好きな人ができてとても嬉しい・・・・・・」
僕は、詩織を案内することにした。僕の居場所であるサナトリウムに・・・・・・
サナトリウムへと続く山道を、詩織と一緒に歩く僕。気のせいか? 夕暮れの光が、少しだけ強くなった気がする。もう夜が近いのだろうか?
「名前は?」
「え・・・・・・?」
「もう、その子の名前だよ」
「沙羅」
「沙羅? とても綺麗な名前。何だか羨ましい」
「詩織だっていい名前だろう」
答える僕に詩織は
「普通の名前だよ」
と笑顔で返すのだった。
サナトリウムに到着する僕と詩織。
「ここがそうなの・・・・・・?」
サナトリウムの西洋風の大きな玄関を見た途端、詩織はどこか怪訝な表情を見せた。
「そうだ。ここがサナトリウム。沙羅の病室まで案内するよ」
僕は詩織をつれ、サナトリウムの庭を歩く。
「ここの精神病棟に、裏乃って名前の年下の女の子がいてさ。これが妹みたいで可愛いんだ」
「そ、そうなんだ・・・・・・」
詩織の反応は曖昧だった。裏乃にまるで興味がないようだ。
(おかしいな? どうしたんだ?)
僕がそう思いながら、病棟のドアを開けると、そこには氷室先生が立っていた。まるで僕たちを待っていたかのように。先生は右手に、ビスケットが盛りつけられた皿を持っていた。僕が焼いたものに違いない。
「これは綺麗なお嬢さんだ。どうぞ中へ」
右手に皿を持ったまま、氷室先生は詩織に向かってお辞儀する。いつもと同じ西洋風のお辞儀を見せると、先生はサナトリウムの中へと入っていく。
「さぁ、行こう」
「え? 歩夢君?!」
僕は氷室先生に少し遅れて、サナトリウムの中に入る。どういう訳か? サナトリウムの中に入ると、詩織はどこか狼狽え始める。一階に飾られた絵画の数々に、動揺しているのだろうか? きっとそうだ。一階は、美術館のような内装をしている。動揺してしまうのも無理はないだろう。
「お一つ食べてみてください。あなたが焼いたものですから」
皿に盛りつけられたビスケットを、僕に向かって差し出す氷室先生。正直、僕の中にはまだ先生への疑念が残っているのだが。
「どうも」
僕は、皿にあるビスケットを一枚手に取り、一かじりする。一応味見するためだ。せっかく作ったのに、沙羅と裏乃に不味いと突き返されるのもショックに思えた。
「いい出来だと思いませんか?」
僕が作ったビスケットは、素直に美味しいといえる。
「ああ、我ながらいい出来だ」
僕は疑念の残る氷室先生に、思わず笑みを零してしまう。沙羅が回復して、裏乃が落ち着けば、また楽しい日々が送れる。このビスケットを囲み、僕たちはまた笑いあうことができるのだ。三人で。いや、詩織を入れて四人だ。かけがえのない四人にしよう。そう心に誓う僕に、氷室先生は微笑んでいた。どこか屈折した笑顔で。
「どうです? ちゃんと味もするし、空腹も満たされるでしょう?」
「え?」
氷室先生の言葉の意味が理解できない。食べ物に味がし、空腹が満たされるのは当然のことだろう? 一体どうしたというのか?
「答えは彼女の口から聞けばいい。きっと納得できる。醜い自分を欺いていたと」
僕は振り返り、すぐ後ろにいた詩織の顔を見る。彼女は怯えた表情で僕を見ていた。
「・・・・・・誰と話しているの・・・・・・?」
僕に怯えた詩織の言葉。その言葉は、僕を苦しい現実に引き戻す。
「・・・・・・そうか、僕は知ってたんだ・・・・・・」
僕の目に映るのは、荒れ果てた廃墟だった。壊れたベッドや椅子にラジオ。割れた窓から入って来る海からの冷たく澄んだ空気だけが、この場所がかつてサナトリウムだった名残を残していた。
「サナトリウムなんて、もうないんだよ。私と一緒に帰ろう」
僕の手を握る詩織。その手は微かに震えていた。
「いや、帰らない。僕は帰らない・・・・・・ここに僕の大切な人がいるんだ・・・・・・」
口の中には、微かにビスケットの甘さが残っている。幽霊や怨霊の類では決してない。彼らは存在している。
沙羅・・・・・・君は僕の幻覚でも、愛しているんだ・・・・・・
「・・・・・・沙羅・・・・・・」
僕が最愛の人の名を呆然と口にしたとき、幻覚の世界へと戻った。腹部に感じた鋭い痛みと一緒に・・・・・・
「歩夢君・・・・・・?!」
「どうして、僕をこんな目に会わせる・・・・・・?」
僕の目の前には、先ほどの廃墟とは程遠い、いつものサナトリウム。氷室先生が立っている。不敵な笑みを浮かべながら・・・・・・
「心配はありません。すぐに処置すれば助かる・・・・・・」
僕の腹に、銀色に輝くナイフが刺さっていた。刺した本人は氷室先生だ。
「歩夢は哀れ、可愛そう」
その場には、志保も存在していた。幻覚の志保。僕が刺されたのを見て、微笑んでいる。彼女の手には、オレンジの火を灯したランプが握られていた。
「・・・・・・悲しい人だね・・・・・・」
ただ、微笑む志保。氷室先生。いや、氷室は僕の腹からナイフを抜く。酷い苦痛と一緒に、腹からは血が流れ出す。僕は堪らずその場に蹲る。今にも死にそうな痛みだったが、何とか顔だけは上げることができた。
「まさか・・・・・・本当に、本当に・・・・・・」
何かを確信したかのように、詩織は呆然としている。誰かが刺されるのを目にするのは、彼女にとってはもう沢山だろう。
「廃墟しか見えないのに・・・・・・廃墟しか見えないのに・・・・・・」
蹲る僕に近づき、詩織はただその言葉を繰り返すだけだった。
「そのランプは何だ? 一体どうするつもりだ?」
僕の血の付いたナイフを、丁寧にナプキンで拭きながら、氷室は志保に口を開く。
「幻覚のサナトリウムと、もう一人の私を燃やすの」
「燃やす? どうして?」
氷室の質問に、志保は妖しい笑みを浮かべ答えた。
「もっと壊れた歩夢を見たいから」
志保の歪んだ答え。たったそれだけの理由で、志保はランプを手に持っていたのだ。しかし、氷室にとって、このサナトリウムを燃やすのは、不満でしかなかった。
「そんなことは許さない。私の美しい沙羅が焼け死んでしまう」
「私の沙羅? 美しい? あんな歪んだ子がそんなに大切なの?」
「少なくとも誰も愛せない君より、はるかにいい子だ」
「誰も愛せない? 私が? 私は裏乃を心から愛しているのに」
「裏乃を愛しているだと?」
氷室は志保に向かって、まるで蔑んだ微笑を浮かべる。
「裏乃は嬉しかったんだって」
氷室を無視し、志保は、僕に向かって口を開いた。
「何が・・・・・・? 一体何がだ・・・・・・?」
痛む傷を堪えながら、僕は声を出す。志保の口から告げられる、答えを聞くために。
「歩夢が優しくしてくれて嬉しいって。私が愛してくれて嬉しいって」
志保は笑う。歪んだ笑みを浮かべ笑う。
「裏乃は可愛い。こんな私に懐いてくれたから」
あろうことか。僕の知らぬときに、志保は裏乃と会っていたらしい。
「最初は驚いたよ。ずぶ濡れの裏乃を少し温めただけで、あの子は私の虜になったんだから」
僕には、まるで裏乃が汚れた気分だった。志保は笑う。腹から血を流す僕を、どこか楽しげに見下ろしながら。
「お前らは幻覚だ・・・・・・僕が創りだした妄想なんだ・・・・・・存在しない人間なんだ・・・・・・裏乃も、沙羅も・・・・・・」
僕は思わず、自らにそう言い聞かせようとする。否定さえすれば、この幻想は消えると信じた。傷の痛みも消えると。
しかしどう足掻いても、僕の中には二人の少女の顔が浮かんでしまう。
「それは無駄なことだ。歩夢。君はもうサナトリウムに存在する沙羅の虜だ」
氷室は持っているナイフを、そばにあった待合用のテーブルの上に置くと、蹲る僕に距離を詰める。
「温かい食事も、君専用の病室も用意する。勿論、私のせいで負った傷の治療も」
傷を治療すると告げられ、僕の心には安心感が広がった。
「ただし、私は君を二度と外に出す気はない。君が存在さえしていれば、沙羅は消えなくてすむのだから」
嬉しそうに微笑む氷室に、僕は理解する。彼は、沙羅の延命だけを望んでいたことに。
「病室には頑丈な鍵をかけよう。誰の出入りもなく君は、一生をそこで過ごすんだ。愛する沙羅のために」
どうだ? 私のアイディアは素晴らしいだろう? そういわんばかりに氷室は、ニヤリと笑みを零す。そして彼が、ゆっくりと立ち上がったときだ。
「・・・・・・嫌な最後だ・・・・・・」
氷室が零した言葉に、一瞬僕には何が起こったのか理解できなかった。彼の左胸に鋭くとがった物が、貫通しているように見える。
「ナイフ・・・・・・?」
鋭くとがった物の正体はナイフだった。それも、氷室が僕を刺したナイフ。彼は誰かに、後ろから刺されたのだ。心臓を一突きにされて。あろうことか。氷室は、自らがテーブルに置いたナイフが仇となったのだ。
「・・・・・・」
目を見開き、氷室は無言で崩れ落ちた。そして僕は、氷室を刺した誰かと対面する。
「氷室先生、死んじゃったね」
無表情にナイフを右手に持ち、氷室を見下ろす少女・・・・・・裏乃だった。
「裏乃。よくできました。今日はいいことをしたね」
志保は溢れんばかりの笑顔で、氷室を刺殺した裏乃を褒め称える。
「志保のお願いなら、何でも聞くよ」
どうやら裏乃は、志保に命令されたようだった。僕の心に、志保への怒りが込み上がる。
「歩夢? どうして血が出ているの?」
そのとき、僕は裏乃と目が合う。小首を傾げ不思議そうな眼差しで、血を流し、弱っている僕を見下ろしていた。
「裏乃・・・・・・もう志保なんかと関わるな・・・・・・」
「どうして? 志保はいい人だよ」
「いい人なんかじゃない・・・・・・あいつはとんでもない狂人だ・・・・・・」
裏乃は僕に向かって、怪訝な表情を浮かべる。狂人の志保を、信じ切っているのが理解できた。
「狂人? 歩夢には言われたくない言葉だよ」
幻想のサナトリウムを創りだした張本人である僕。確かに狂人かもしれない。それでも・・・・・・
「黙れ、黙れよ・・・・・・! こんないい子に人殺しをさせて・・・・・・!」
「裏乃は、あの男に酷い仕打ちされたんだよ。歩夢が創ったあの男に。だから裏乃にはある。あの男を殺す権利がある」
「裏乃はいい子だ・・・・・・!」
最早、僕には志保にそんな言葉しか浴びせられなかった。傷口が、先ほどよりも痛み始める。
「・・・・・・畜生・・・・・・」
今にも死にそうな痛みの中で、僕を見てあざ笑う志保。
「ふーん・・・・・・裏乃が大切なんだ・・・・・・きっと沙羅と同じくらい・・・・・・」
やめろ。よせ。僕はそれらの言葉を声に出したかった。しかし、体力が続かない。
「裏乃、さぁ、おいで・・・・・・」
妖し志保に手招きされる裏乃。
「うん」
裏乃は疑いもせず、ランプを片手に持った志保に歩み寄っていく。
「裏乃、今から痛いことをするけど我慢できる?」
「痛いこと・・・・・・?」
不安げな裏乃。当然の反応だ。
「やめろ・・・・・・その子は失いたくない・・・・・・」
全身の力を振り絞り、僕は立ち上がる。今にも死にそうだ。
「火に包まれるの。大丈夫。私も一緒に包まれるから」
志保は笑顔で裏乃に告げた。曇りない笑顔で・・・・・・
「うん。志保と一緒なら、私は大丈夫」
「いい子だね・・・・・・だから愛したの・・・・・・」
志保は片方の手で裏乃の小さな体を抱くと、頭上にランプを掲げる。燃える荒廃したようなオレンジの火が、僕に冬の夕暮れを錯覚させた。
「歩夢、私たちの最後に教えてあげる。裏乃の存在する意味を」
僕に向かって、妖しく微笑む志保。そして語った。まるで遺言のように。
「裏乃は、歩夢に伝えるためだけに存在したの。サナトリウムが歩夢の幻想だって伝えるために。けど、この子には伝える術がなかった。どう伝えていいかわからなかったんだよ」
志保の語った言葉を、僕は理解することができた。今ならできる。だから裏乃は氷室に目の敵にされ、沙羅には無視されていたのだ。そんな裏乃はどこかキョトンとしながら、志保が頭上に掲げるランプを見つめていた。
「さぁ、歩夢、壊れて・・・・・・もっと酷く壊れて・・・・・・これは遺言だから・・・・・・」
志保は頭上からランプを落とす。二人の体は一瞬で炎に包まれる。苦しく痛がる悲鳴はなかった。ただ、二人は燃えていく・・・・・・
「・・・・・・裏乃、嫌だ・・・・・・嫌だ・・・・・・そいつと消えるんじゃない・・・・・・!」
傷の痛みを堪え、やっとの思いで立ち上がる僕。激痛が走り、また倒れそうになるが。僕の頭の中で裏乃の笑った顔が見えた・・・・・・可愛らしく、楽しそうに笑った顔が・・・・・・僕はゆっくりと歩き出す。激痛を堪えて、燃える二人に近づいた。
「裏乃、裏乃・・・・・・どんな形でも、もう一度、もう一度だけでいいから・・・・・」
燃え盛る炎の中で、僕は小さな人影を見る。裏乃に間違いない。僕は炎に包まれる裏乃を抱き締めた・・・・・・当然、僕の体に炎が移る・・・・・・
「歩夢君・・・・・・? 歩夢君!」
少女の声を聞いた気がする・・・・・・思い出せない懐かしい人に似た声だ・・・・・・
どうしてだろうか・・・・・・? この声に罪悪感を覚えた・・・・・・詩織・・・・・・確かそんな名前だった気がする・・・・・・
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