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この世界で生きるには
二話
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「これはこれは――様。本日も足をお運びいただき、ありがとうございます。今夜は誰をご指名でしょうか」
「そうだな。適当に見繕ってくれ」
時刻は既に深夜過ぎ。ピーク時の真っ只中で、俺は店内を駆け回っていた。
料理を運んで、皿を下げて、オプション(えっちなやつ)を届けて、また調理場へ。
うちは高級店かつ紹介制ではあるけれど、その方が安心できるということで、お偉いさん方には人気らしい。実際、こんなに客が入っているのだから、ボロ儲けもいいところだ。
「アサ、ちょっとこっちに来て」
汗を垂らしながら動いていれば、扉の隙間から、生白い腕が手招きをした。
ちなみにアサというのは俺の偽名で、路地裏で寝落ちていたところを、揺り起こされたのが名の由来。
朝であったことに驚いて『朝……え、朝!?』と何度も繰り返しているうちに、それが名前だと勘違いされてしまったのだ。
特に実害もないからいいのだけれど、振り返れば、実にアホらしいエピソードだと思う。
「はーい。何でしょう」
「実は、お願いしたいことがあるんだけど……」
尻すぼみ的な口調と伏せられたまつ毛。よっぽど言いにくい話なのか、忙しそうな俺に頼むのを若干躊躇しているのか。
正直どっちでもいいんだけど、言うなら言うで早くして欲しい。俺、これから休憩だし。目線で続きを促せば、彼女は一度口をつぐみ、意を結したように顔を上げた。
「少しの間だけ、私の代わりをして欲しいの」
「………へ?」
「無理なお願いなのは分かってる。でも、ほんの四半刻の間だけだから。必ず時間までには帰ってくるし、今夜は指名も入ってないわ。──ね、だからお願い」
驚きに目を見開いたまま固まって、硬直した体は、あっという間に部屋の中へと引き摺り込まれた。
ぱさり 美しいドレスが床に散る。雪よりも白いその肌に、慌てて両目を覆い隠した。
いくら慣れてきたとはいえ、まじまじ凝視できるほど、俺は場数を踏んでいない。布が擦れ合うような音がして、しばらくのあと、それが止んだ。
(終わったか……?)
恐る恐る目を開ければ、窓に身を乗り出す彼女の姿。紺一色のシンプルな服に身を包み、片手に靴を握っている。見た目からして脱走する気満々だ。
ちょ、駄目だって……!
止めようと慌てて伸ばした手の先で、彼女はひらりと闇に消えた。
「………うそぉ」
一人取り残された部屋。情けなく呟いた声は、やけにはっきりと耳に届いて、目の前がじんわり滲んでいく。
どうしよう。いくら少しの間でも、彼女が娼館を抜け出したことに変わりはない。
うちは比較的自由だけど、脱走に関しては、かなりキツイ仕置きが待っている。きっとご飯抜きなんて簡単な罰では済まされないだろう。
仕置き部屋。
ふと、そんな単語が頭を過って、恐ろしさに何度も頭を横に振る。以前に一度、本当に一度だけ、仕置き部屋に物を届けたことがあった。
「……ゔぇ」
胃の腑から迫り上がってくるものを押し込めて、派手なドレスに手を伸ばす。例え相手が誰だとしても、俺が告げ口したせいで、仕置き部屋行きになるのは見たくなかった。
別に正義感なんかじゃない、罪悪感の問題だ。
「これ、バレたら俺もヤバいよなぁ」
四半刻 つまり三十分の間は、誰にもバレてはいけないということ。休憩に入るタイミングだったのは、まだ不幸中の幸いだと言えるだろう。
(客が来ませんように客が来ませんように客が来ませんように)
それだけをただ一心に祈りながら、部屋の奥、ついたての後ろにあるベッドの上に腰を下ろす。
ついたてのおかげで入口からは見えないはずだし、すっぽり覆い隠されているから、まだ心理的にも安心できる。
ドレスはどうするか迷った末に、隅の方に押しやった。体格的にはギリギリ着れないこともないだろうけど、自分の女装姿なんて想像しただけで鳥肌ものだ。
「そうだな。適当に見繕ってくれ」
時刻は既に深夜過ぎ。ピーク時の真っ只中で、俺は店内を駆け回っていた。
料理を運んで、皿を下げて、オプション(えっちなやつ)を届けて、また調理場へ。
うちは高級店かつ紹介制ではあるけれど、その方が安心できるということで、お偉いさん方には人気らしい。実際、こんなに客が入っているのだから、ボロ儲けもいいところだ。
「アサ、ちょっとこっちに来て」
汗を垂らしながら動いていれば、扉の隙間から、生白い腕が手招きをした。
ちなみにアサというのは俺の偽名で、路地裏で寝落ちていたところを、揺り起こされたのが名の由来。
朝であったことに驚いて『朝……え、朝!?』と何度も繰り返しているうちに、それが名前だと勘違いされてしまったのだ。
特に実害もないからいいのだけれど、振り返れば、実にアホらしいエピソードだと思う。
「はーい。何でしょう」
「実は、お願いしたいことがあるんだけど……」
尻すぼみ的な口調と伏せられたまつ毛。よっぽど言いにくい話なのか、忙しそうな俺に頼むのを若干躊躇しているのか。
正直どっちでもいいんだけど、言うなら言うで早くして欲しい。俺、これから休憩だし。目線で続きを促せば、彼女は一度口をつぐみ、意を結したように顔を上げた。
「少しの間だけ、私の代わりをして欲しいの」
「………へ?」
「無理なお願いなのは分かってる。でも、ほんの四半刻の間だけだから。必ず時間までには帰ってくるし、今夜は指名も入ってないわ。──ね、だからお願い」
驚きに目を見開いたまま固まって、硬直した体は、あっという間に部屋の中へと引き摺り込まれた。
ぱさり 美しいドレスが床に散る。雪よりも白いその肌に、慌てて両目を覆い隠した。
いくら慣れてきたとはいえ、まじまじ凝視できるほど、俺は場数を踏んでいない。布が擦れ合うような音がして、しばらくのあと、それが止んだ。
(終わったか……?)
恐る恐る目を開ければ、窓に身を乗り出す彼女の姿。紺一色のシンプルな服に身を包み、片手に靴を握っている。見た目からして脱走する気満々だ。
ちょ、駄目だって……!
止めようと慌てて伸ばした手の先で、彼女はひらりと闇に消えた。
「………うそぉ」
一人取り残された部屋。情けなく呟いた声は、やけにはっきりと耳に届いて、目の前がじんわり滲んでいく。
どうしよう。いくら少しの間でも、彼女が娼館を抜け出したことに変わりはない。
うちは比較的自由だけど、脱走に関しては、かなりキツイ仕置きが待っている。きっとご飯抜きなんて簡単な罰では済まされないだろう。
仕置き部屋。
ふと、そんな単語が頭を過って、恐ろしさに何度も頭を横に振る。以前に一度、本当に一度だけ、仕置き部屋に物を届けたことがあった。
「……ゔぇ」
胃の腑から迫り上がってくるものを押し込めて、派手なドレスに手を伸ばす。例え相手が誰だとしても、俺が告げ口したせいで、仕置き部屋行きになるのは見たくなかった。
別に正義感なんかじゃない、罪悪感の問題だ。
「これ、バレたら俺もヤバいよなぁ」
四半刻 つまり三十分の間は、誰にもバレてはいけないということ。休憩に入るタイミングだったのは、まだ不幸中の幸いだと言えるだろう。
(客が来ませんように客が来ませんように客が来ませんように)
それだけをただ一心に祈りながら、部屋の奥、ついたての後ろにあるベッドの上に腰を下ろす。
ついたてのおかげで入口からは見えないはずだし、すっぽり覆い隠されているから、まだ心理的にも安心できる。
ドレスはどうするか迷った末に、隅の方に押しやった。体格的にはギリギリ着れないこともないだろうけど、自分の女装姿なんて想像しただけで鳥肌ものだ。
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