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第六章 城へ

18話

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 何度も込み上げてくる吐き気を必死に堪えていると、急に視界が明るくなる。

「……ッはぁ、ようやく見つけた。 セシェル……? どうしたんだ。顔色が――」
『陛下! どうされましたか』
『様子がおかしい。すぐに医者を呼べ! 私が部屋まで運ぶ』

 クローゼットの扉を開けたのはヴィラだった。吐き気を堪えるのに必死になりすぎて、こちらに近づく足音すら聞こえていなかったようだ。

 もう何をしても気持ち悪くて、抱き上げられた瞬間に思わず吐いてしまった。朝から紅茶しか飲んでいなかったから固形物はほとんどない。けれど、高そうな絨毯やヴィラの服を胃液で汚してしまって、恥ずかしさと申し訳なさに涙が滲む。

 一度吐いたことで吐き気はかなり治ったけど、頭痛と幻覚は少しも良くなる気配がない。濡れた布で口の周りを拭われ、先程まで寝ていたベッドに横たえられる。襲いくる痛みに耐えていると、またバタバタと忙しない足音が聞こえてきた。

『陛下! お待たせしました。病人はどこに』
『ここにいる。早く診てくれ、先程吐いたばかりだ』
『嘔吐の他に症状は?』
『頭痛と……何かに、怯えていたようだった』
『――なるほど、頭痛と幻覚ですね。触診の為に少々触らせていただきますが、よろしいですか』
『あぁ勿論だ』

 初老の医師は一通りの診察を終えると、鞄から透明の液体が入った小瓶を取り出した。
 ぐったりと目を閉じているセラシェルの頭を少しだけ持ち上げ、半開きの口に中身の液体を流し込む。反射で吐き出そうとしたところを、すかさず水で流し込んで、落ち着くのを待ってからようやく手を離した。

「けほッ……げほッ……」

 いきなり飲み込まされた液体に咽せていると、男性の手が僕の左胸に添えられた。そこからぽかぽかとした温かさが流れ込んできて、全身にじんわりと広がっていく。気持ちが良くて身を委ねていると、不思議と頭痛は消えていて、何故だか吐き気まで治まっていた。

『恐らくは副交感神経の異常ですな。心当たりは?』
『……スリープマッシュの香水を顔に吹きかけた』
『間違いなくそれが原因でしょうな。あれはハンカチやタオルなどに染み込ませて使う為の濃度です。直接吹きかければ、耐性のない者程強い副反応が出ます』
『そうだな……私の失態だ』
『陛下、どうぞご安心ください。解毒に加えて治癒魔法も施しておきましたので、暫く休めば回復するでしょう』
 
 彼は深々と一礼すると、部屋から出て行ってしまった。全く眠気はなかったけれど、ずっとクローゼットの中にいたからか、シャンデリアの光が妙に眩しく感じて瞼を閉じる。

 ――そういえば、先程の男性が使っていたのは治癒魔法なんだろうか?  

 治癒魔法は、光の加護を受けた者の中でも極少数の人にしか扱えない。その才能をもつ人は"聖人"と呼ばれ、貴重な才能故に誘拐や人身売買などの犯罪に巻き込まれる可能性が高いのだ。
 だから大抵の場合は国の保護下に置かれており、平民は滅多にお目にかかれない。僕も、実際目にしたのは初めてだった。

 ふと、冷たい手が頬に触れる。驚いて目を開けると、心配そうなヴィラの瞳がこちらを覗き込んでいた。

 僕が目を開けたことで安心したのか、彼の手はゆっくりと離れていく。ヴィラは長い銀髪を紫色のリボンでゆるく纏め、見たこともないような綺麗な服を着ていた。

 深い紺色の生地は金と銀の刺繍で丁寧に縁取りされており、金ボタンで留められた袖口から幾重にも重なったレースが覗いている。こうして見ると、本物の王子様みたいだ。――いや、本物ではあるのか。即位したと言っていたから正確には王子じゃなくて王なんだろうけど。

 ヴィラの服には汚れどころか皺ひとつなかったから、僕が吐いた服は既に着替えたのだろう。
 あんな服に吐いてしまったのかと思うと血の気が引くけれど、ひとまず王宮の洗濯技術を信じて心の中で祈ることにした。弁償しろと言われたら、一生をかけても返しきれないような金額になりそうなのがまた恐ろしい。

(本当にお願いします神様洗濯係様)

 心の中で四回祈り終えて、ヴィラの方を流し見る。話したいことは沢山あるのに、なんて切り出せばいいのかが分からない。それは相手も同じらしく、お互い何も喋らないまま気まずい沈黙が続いた。

「あの……」

 勇気を持って第一声を絞り出すと、ヴィラの肩がピクリと揺れた。

 こういう時のヴィラは本当にわかりやすい。怒られると思って身構えている時は、声をかけると必ず肩が揺れるし、これは無意識かもしれないけど眉尻もほんの少しだけ下がって、まるで捨てられる子犬みたいな表情をするのだ。僕は正直この顔に弱い。

「もう……誘拐した張本人がなんて顔してるんだよ」
「………」
「ひとつ言っておくと、僕は別に怒ってないよ」

 ちょいちょいと手招きをすると、ヴィラは素直に近づいてくる。長い前髪をそっと左手でどかして、剥き出しになった綺麗なおでこを指で思いっきり弾いてやった。ふふ……驚いてる驚いてる。切れ長の目が大きく見開かれて、少しだけ気分がスッとした。

「怒ってはないけど、驚いてはいる。なんでいきなりこんなことしたの」
「……セシェルはもう、私のことなんてどうでも良くなったのだと……」
「あり得ない。ヴィラ以上に大切なものなんてないよ」「なら――」
「でも、ヴィラが大切なのと森を離れるのとはまた別の話なんだよ。お願いだから分かって」

 力いっぱい手を握って、この三年間どれだけ落ち込んだかを交えながら、君への愛情が薄れたわけではないと真摯に伝える。表情が和らいできたタイミングを見計らって、それでも森に帰してほしいとお願いすると、ヴィラの顔から一切の感情が抜け落ちた。

「森には帰さない」
「ヴィラ!」
「どうしてもというのなら、森を離れられない理由を教えろ」
「……それは、」
「話せないならこの話は終わりだ。何かあればサイドテーブルにあるベルを鳴らせ。……また明日来る」
「ちょっとまっ──」
 
 バタン

 目の前で閉まる扉を眺めてため息を吐く。ヴィラは僕を帰す気がないようだし、僕も理由を話すつもりはない。どこまでもいっても平行線だ。

 ベッドを降りて見上げるほど大きな窓に近づく。閉じられていた分厚いカーテンを捲ると外は既に真っ暗だった。部屋のシャンデリアがあまりにも明るかったので、既に夜だなんて考えてもみなかった。

 ……遠くに見える灯りは城下町のものだろうか、色とりどりの小さな光がかなり広範囲に渡って続いていた。あの光ひとつひとつにそれぞれ別の人間が暮らしているのかと思うと、なんだか不思議な感じがする。

 暗闇の中浮かび上がるその光景が、まるで夜空を映したみたいで、飽きもせずに暫く眺めていた。

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