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45 デイラにかけられた呪い 前
しおりを挟む「どうして?」
気を悪くしたふうでもなく、キアルズは純粋に不思議そうに訊ねる。
デイラは言葉に詰まった。森の家で「あなたと結婚できません」と宣言した場面がよみがえる。
あのときも、キアルズはデイラから想われていると確信がある様子で、一向に引き下がろうとしなかった。
「フェイニア嬢からは脅しのような言葉も囁かれたらしいけど、もうあなたやアイオンに害をなそうとする人はいないよ。もしいたとしても、あなたたちに近づけるつもりはないしね」
デイラはうつむき、膝に置いた手をぎゅっと握りしめる。
「……この宿には、大きなご恩がありまして」
「〝ダン・エド商会〟は、身重のあなたを好条件で雇い入れてくれたそうだね」
「はい。そのおかげで、これまで苦労することなく暮らしてこられました。従業員の方たちもとても親切で、キアルズさまがおっしゃった通り、アイオンのことも生まれたときから家族のように可愛がってくださって」
「あの子も、皆さんのことが大好きだしね」
デイラは首を縦に振った。
「していただくばかりで、私からはまだほとんど何も返せていません。この先も、警備係として少しでも旅荘フレイのお役に立てればと――」
「エルトウィンに住んでいたって、この宿に恩返しはできると思うよ」
どういうことかと顔を上げたデイラに、キアルズは微笑む。
「実はここ数年、マナカール会長の義妹さんが経営する〝オイアー貿易〟から、何度かぼくのもとへ商談を持ちかける手紙が届いていてね」
「フィアーナさんから……?」
辺境エルトウィンにはこれといった産物や産業はない。岩塩や水晶は採れるが、国内には他にも有名な産地があるため、北部地方でささやかに取り引きされているだけだ。
「会長の末の弟さんが結婚したとき、祝宴の会場に加えてご家族の宿泊場所として別邸もお貸ししたんだ。それぞれの部屋に母の手製の入浴剤や石鹸を置いておいたら、ずいぶん好評でね。エルトウィンの草花や岩塩を使っていることを知ったオイアーさんが、『ゆくゆくは外国にも販路を広げられるような一大産業に育てませんか?』と声を掛けてくれたんだ」
デイラの脳裏に、商売の種を見つけたフィアーナ・オイアーがキラキラと目を輝かせているのが浮かんだ。
「そのときは断ったんだけど、それからも彼女は粘り強く打診してくれて……」
「お断りになったんですか?」
「うん。ぼくも母も、あなたの許可なしに商品化はできないと思ってね」
「私の?」
不可解そうなデイラに、キアルズは説明する。
「あなたが置いていった森の家の鍵はぼくが預かってるんだ。あのあたりを捜索するときは、空気を入れ替えて掃除もしてた。あるとき、あなたが譲ってくれると言った大叔母さんの書き付けのことを思い出して、お言葉に甘えて持ち帰らせてもらったんだ」
「あ……」
デイラが察したような声を漏らすと、キアルズは「そう」と頷いた。
「母は、あなたの大叔母さんの帳面を見て石鹸や入浴剤を作ったんだよ」
キアルズたちの律義さを知り、デイラは慌てたように言う。
「も……もう差し上げたのですから、私の許可なんて要りませんのに」
「でも、あれは価値がはかれないほど貴重なものだよ。長いあいだ人々を助けてきた〝魔女さん〟の経験と知識がぎっしり詰まってるんだからね。売ったりはしていないけど、邸の者たちの怪我や体調不良を何度も救ってくれてるんだ」
「夫人は、そういったお薬まで手がけていらっしゃるんですか?」
デイラは少し驚いたように訊ねた。
「母には素晴らしい教科書があるからね。さらに優秀な師匠もいるから、まるで若い学生のように懸命に学んでるよ」
「師匠……?」
「敷地内に小さな研究所を建てて、豪雪で作業場所を失って困っていた薬師の夫婦にそこを使ってもらい、見習いとして師事してるんだ」
前辺境伯夫人の旺盛な好奇心と向学心に、デイラは感心したようにため息をつく。
「オイアーさんからは『まずは夫と義兄が経営しているフォルザの温泉宿に置いてみませんか』との提案もあってね」
「この宿に……?」
「他にはないような質の高さだから、自信はあるんだ。旅荘フレイの人気をますます押し上げるだろうって。――ね、これだって宿への貢献になるでしょう?」
キアルズは身を乗り出した。
「辺境伯夫人として事業に携われば、あなたはここの役に立つことができるよ」
「わ、私にそんな能力は……」
「大丈夫。トリウ隊長も言ってたよ。『クラーチは実務能力にも優れてる』って」
デイラは困ったように下を向く。
「で……でも、女性で警備の仕事を志望する人はなかなかいないそうなんです。現に私が採用されたときも、何年もかけて成り手を探していらしたとのことで。私が抜けるとご迷惑を……」
「ああ、四年前はそうだったかもね。でも、もうそんな心配は要らないと思うよ」
「え……?」
「二年ほど前に、各地に騎士学校が設立されたのは知ってるね?」
「は……はい」
準備段階での会合には、デイラも出席したことがあった。
「エルトウィンでも無事に開校したんだけど、士官経験者宅での修行の途中で騎士学校に切り替える例もあって、そういった生徒たちはもう進路を決めなきゃいけない年頃なんだ」
「進路……ですか」
「うん、校長によると全員が騎士を目指しているわけじゃないらしい。二割ほどは叙任のための認定試験は受けず、学んだことを活かして条件のいい護衛や警備の仕事に就くことを希望してるそうだ。その割合は、どの地方の騎士学校でも同じくらいだと聞いたよ」
「そうなんですか……」
皆が騎士になるという目標に向かっていた自分の修行時代とは、ずいぶん変わったのだとデイラは思う。
「だから、あなたに敵うほどではないにしても、警備係を引き受ける女性は以前より見つけやすくなってるはずだよ」
デイラは黙ってきゅっと唇を結んだ。
どんな理由を口にしてみても、キアルズは軽やかに打ち返してくる。
前の辺境伯は、折衝に強い領主だと評判だった。その血はキアルズにもしっかりと受け継がれているようだ。
どこか追い詰められているような息苦しさを感じながら、デイラはエルトウィンに行けない理由をまたひとつ捻り出した。
「そ……それから、アイオンにとって急に環境が変わることは望ましくないと思います」
「望ましくない?」
「はい。あの子はここで従業員の息子として生まれ育ちました。ありがたいことに周りの人たちから温かく見守られ、安心しきって毎日を過ごしています。突然知らない土地に連れていかれ、想像もしなかったような立場に置かれたら、不安でたまらなくなってしまうでしょう」
キアルズは先ほどまでとは違い、「それは心配だね……」と眉を曇らせる。
しかし、すぐにさっぱりとした口調で返してきた。
「まあ、最初は慣れなくて戸惑うこともあるだろうけど、この国では子供が幼いうちに進むべき道を決めて生家を出るというのは珍しいことじゃないしね」
「……っ」
「大抵の子供たちは修業や奉公に出たら家族と離れ離れになるけど、アイオンの場合はぼくたちと暮らしながら将来に向けての準備ができるんだから、恵まれた環境だと思うよ。フォルザが恋しくなったら、ときどき訪れたっていいんだし」
「で、ですが……」
反論が浮かばなくなったデイラに、キアルズは穏やかに声を掛ける。
「言い訳は、出し尽くした?」
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