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10 二度目の求婚
しおりを挟む窓から月明かりが入ってくるだけの薄暗い馬車の中、翠玉色の瞳がデイラを柔らかく見つめる。
「今夜も、すごくきれいだよ……」
デイラはそわそわと落ち着かないような気持ちになった。
小さいころから知っている八歳も年下のお坊っちゃんからそんなことを言われても、どう返していいのか分からない。
胸の奥に不可解なくすぐったさを感じながら、とりあえずデイラは少し話をずらすことにした。
「わ……私が夜会で浮かないように辺境伯夫人がいろいろと心を尽くしてくださって、本当にありがたく思っています。この付け毛も、本当によくできてますよね」
キアルズがつまんでいる銀灰色の髪に、デイラは視線を向ける。
「社交の場に短髪の女性はそうそういませんから、手配してくださって助かりました」
キアルズは毛先から手を離すと、少し寂しそうに訊いた。
「髪は……もう伸ばさないの?」
九年前のことをキアルズがまだ気にしているのを感じたデイラは、ことさらにさっぱりとした口調で言う。
「短いのに慣れてしまうと、伸ばすのはもう面倒で。動きやすくて気に入ってるんですよ」
デイラの気づかいを察したかのように、キアルズはふっと優しく微笑んだ。
「長い髪も良く似合うけど、短髪のデイラもかっこいいよね」
大人びた笑みを目にして、デイラの心の中は再び落ち着かなくなる。
「あ……、ありがとうございます」
話題を逸らしたつもりが、また褒められてしまった。
留学先で成人を迎えて社交の経験もそれなりに積んできたであろうキアルズにとって、同伴者を称賛するのは礼儀のひとつなのかも知れないが、作法やダンスは一応身についているとはいえ、ずっと騎士として生きてきたデイラからすると気恥ずかしくてたまらない。
普通の女性に対するような心配りは護衛には必要ないと言っておくべきだろうかと迷っているうちに、馬車は辺境伯邸に到着した。
「部屋まで案内するよ」
どこかほっとしたのも束の間、夜勤の召使いに扉を開けてもらい、仮眠のために用意してもらった客室に向かおうとしたとき、静まり返った夜半の廊下でキアルズがそう申し出た。
「大丈夫です。事前に夫人から場所を教えていただいたので」
「迷うかも知れないよ」
「警護対象者に送ってもらう護衛なんて聞いたことがありません」
「今夜のあなたの任務はもう終わってる。今は我が家の客人だよ」
さあ、と手を差し出そうとしたキアルズに、デイラは再度「大丈夫ですから」と告げる。
「キアルズさまも、疲れたお身体を早く休めてください」
挨拶を済ませて素早く立ち去ろうとしたデイラの背後から、切なそうな呟きが聴こえた。
「離れたくないな……」
デイラの心臓がなぜか大きく跳ねる。
動揺するような言葉ではないと、デイラはすぐに自分に言い聞かせた。
幼いキアルズも、楽しい外出先から帰宅しなくてはならないときには、よく「帰りたくないな……」とつまらなそうに口を尖らせていた。
そのたびにデイラは年長者らしくなだめたのだが、今だって同じようなものだ。
「そんなことをおっしゃってないで――」
軽く諫めようと振り返ると、思っていたよりもずっと近くにキアルズがいて、デイラは息を呑んだ。
熱っぽい視線に絡め取られたかのように、身動きが取れない。
「――もう、だめだ」
次の瞬間、デイラはキアルズに抱きすくめられていた。
「言わずにはいられない……」
見た目よりもずっと逞しい感触に包まれて、デイラは呆然とする。
「デイラ……、あなたしか見えないんだ」
身体を通して、あの甘い声が響いてきた。
「ぼくと結婚して欲しい」
◇ ◇ ◇
デイラが目を覚ますと、焦げ茶色の少しいびつな梁が並んだ天井が見えた。
ぼんやりしながら何度かまばたきを繰り返しているうちに、ここが大叔母の家の主寝室だということが分かる。
たしか、この家に着いてしばらくして気分が悪くなって――記憶をたどろうとしてみるが、よく思い出せない。
こうして寝台に横たわっているのだから、物入れの中から清潔な寝具を出して自分で寝床を整えたはずだが、全く覚えていなかった。
それにしても、立て続けにおかしな夢を見たものだ。
キアルズばかり出てきたことに、デイラは苦い笑みを浮かべた。
あの二度目の求婚も、デイラは軽く受け流した。
内心の動揺を面には出さず、「どうやらお酒を飲みすぎたようですね」とキアルズをやんわりと押しやり、「予行演習ではなく、ふさわしいご令嬢に本当の求婚をなさるときには、あまりお酒が入っていないときがいいと思いますよ」などと、年上ぶった助言までした。
すぐに背中を向けてしまったので、キアルズがどのような表情をしていたのかは分からない。
ただ、それからキアルズは変わった。
馬車の中でのデイラの進言を聞き入れたのか、若い令嬢たちと積極的に交流するようになったのだ。
少し離れたところからデイラが見守る中、キアルズは同世代のお嬢さん方と朗らかに語り合い、ダンスに興じ、札遊びを楽しみ、流行の装いを褒め讃え、時には親密そうに内緒話をして笑い合った。
じきに正式なお相手が決まるだろうと周囲からも目されるようになったが、なぜかキアルズはなかなか特定の女性と縁談を進めようとしなかった。
待ちきれなくなった誰かがキアルズの取り巻きから去っていくと、また新たな令嬢が彼を取り囲む女性たちに加わる――といった繰り返しを、デイラは何年も傍らで見ることとなった。
デイラが副隊長に昇進してからも、社交の季節が始まれば護衛の依頼が来て、ふたりは連れ立って社交の場に出掛けた。
キアルズはデイラに対して冷ややかになったわけではなく、いつもにこやかで礼儀正しかったが、会話はどこか事務的で踏み込んだ話は一切しなくなっていた。
毎年同じような日々を過ごす中で思わぬ変化が起きたのは、キアルズがエルトウィンに戻ってきてから六年目になる今年のことだった。
病に臥せっていた父を見送ったキアルズが新しい辺境伯となり、その数か月後に社交の季節が始まり、そしてあの夜の出来事が起きた。
「……っ」
ふたりの間にあったことを思い出してしまったデイラが両手で顔を覆ったとき、寝室の扉を叩く音がした。
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