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6 あふれた想い

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「へ……?」

 髪の毛を掴んでいた手元がふっと軽くなったのを感じた次の瞬間、クオトは向こうずねに焼けつくような熱さを感じ、その場にへたり込んだ。

「は……?」

 熱さは痛みとなり、クオトは不可解そうにその箇所に目をやる。脚衣の膝下あたりの布が横一文字に切られ、そこからじわじわと赤いものが滲んできていた。

「なっ……」

 わけが分からないままクオトが顔を上げると、ついさっきまで自分がいたぶっていたはずの町娘は既に立ち上がり、相棒デーヴィンの方へと足を踏み出していた。

 娘の後頭部は、短いざんばら髪になっている。

「……ひっ!?」

 ざっくりと切り離された銀灰色の髪の束を握っていることに気づいたクオトは、情けない声を上げてそれを打ち捨てた。

 デイラも、手の中にあった小刀を古い樽が積まれているあたりに放り込む。
 クオトから叩き落したそれをこっそり拾い上げて髪の毛を切り離したり脛を斬りつけるのに役立てたが、この後はおそらく必要ないだろう。

「バカ野郎っ、油断しやがっ――」

 仲間をなじろうとしたデーヴィンの手の甲に、鞭打たれたような衝撃が走る。

「……っ!?」

 痺れた手から短刀がぽとりと地上に落ちた。いつの間にか再び箒を構えていたデイラは、キアルズを拘束しているもう片方の腕も鋭く突く。

「ぐっ!」

 力が緩んだ隙にキアルズは大男の腕を振りほどき、デイラのもとに駆け寄った。

「デイラ!」
「こちらに」

 デイラはデーヴィンに視線を向けたまま、傍らの壁際にキアルズを誘導する。

「お……」

 当時のデイラにはまだ〝鋼鉄の氷柱つらら〟の異名はついていなかったが、冷気のようなものを漂わせながらじりじりと間合いを詰めていくと、切った張ったの世界を渡ってきたはずの大男はぶるっと身を震わせた。

「お、俺たちは、ちょっとした小遣いをいただきたかっただけで、本気であんたたちの命までどうこうしようなんて――」

 申し開きの途中で、容赦ない一撃がデーヴィンの顎の下あたりに炸裂する。男は大きな土けむりを立てて地面に倒れた。

「――おーい、大丈夫か!?」

 その直後、路地の入り口に黒い制服姿のふたつの影が姿を現した。
 祝日の町を警備するため巡回していた若い騎士たちだった。

「小間物屋のおかみから『財布泥棒を追っかけてった姉弟が戻って来ない』って聞いて、探してたんだ。通行人が『あっちで誰かが騒いでる』って教えてくれて……あっ」

 同僚であるデイラに気づいた彼らは口をつぐみ、黙ってその場を見回す。

 市井の者のような格好をした女騎士と辺境伯令息。
 仰向けで気を失っている頬に傷のある大男。
 脛から血を流して地面に座り込んでいる男。

 何が起きたのかを巡回の騎士たちはだいたい察し、デイラに小さく声を掛けた。

「……お疲れさん」

 その場で事情聴取を済ませた同僚たちは、クオトからキアルズの財布を取り返し、さらに応援に来た他の隊員たちと一緒に男たちを運んでいった。

 路地裏には、デイラとキアルズだけが残された。

「デイラ……、ごめ」
「腕を見せてください」

 デイラは少し血がにじむキアルズの袖をめくり、傷痕を確かめる。

「かすり傷だから痛くないよ」
深傷ふかでではありませんが……念のため止血をしておきましょう」

 自分が着ているもののどこかを裂いて包帯にしようとしたデイラは、それが辺境伯夫人からの借り物だったことをふと思い出した。

「……ちょっとお待ちくださいね」

 デイラはキアルズに背を向けると、胴衣の紐を緩め始めた。

「えっ……」
「こんなもので申し訳ないですが、毎日洗いたてを使っていますので」

 大きく開いたブラウスの襟元から、デイラはしゅるしゅると白い帯状の布を引っ張り出し始める。

「な……」

 それは、胸を押さえるために使っているさらし布だった。
 女性用の衣装を着るときには外しておいても良かったのだが、習い性で今日は着けたままにしていた。
 デイラは布を適当な幅に裂き、キアルズの腕に巻こうとする。

「待っ……」
 キアルズはなぜか後ずさりした。

「怖がらなくていいですから」
「い、いや、怖がってるとかじゃ……」
「じゃあ、おとなしくしていてください」

 そう頼んでも、不可解なことにキアルズは頬を赤く染めてどんどん後ろに下がっていく。

「キアルズさま。もう小さな子供じゃないんですから」
「……っ」

 煉瓦塀まで追い詰めるような体勢になると、キアルズはようやく逃げるのを諦めた。

「大丈夫だって言ってるのに……」

 顔をそむけながら口を尖らせて手当てを受けているキアルズを見て、デイラは少し微笑む。
 本当に、まるで弟みたいだ。

 大きな怪我がなくて良かったと安堵すると共に、デイラの胸には一抹の寂しさがよぎった。

 大事には至らなかったとはいえ、今回の騒動の責任はデイラにある。今後はキアルズの護衛から外されるに違いない。
 あと数年は、行事の際に警護を頼まれたり姉弟のふりをして出かけたりできると思っていたが、それは叶わなくなるだろう。

 やむを得ないことだと、デイラはきゅっと唇を結ぶ。

「――キアルズさま、このたびは怖い思いをさせてしまった上に、お怪我まで負わせてしまい、大変申し訳ありませんでした」

 キアルズは驚いたように目を見開く。

「なんで謝るの!? デイラは何も悪くないよ! ぼくが言いつけを破って勝手に追いかけてきちゃったから……」

 悲しそうに眉根を寄せたキアルズは、傷を負っていないほうの腕をデイラの頭の後ろに回した。

「ぼくのほうこそ、ごめんなさい……」

 短くなってしまった銀灰色の髪を、キアルズはそっと撫でる。

「あんなにきれいな髪だったのに……」

 潤んだ翠玉色の瞳でじっと見つめられていると、デイラは再び胸の奥がくすぐられているようなあの感覚を覚えた。

「はい、応急処置は終わりましたよ」

 デイラはキアルズからやんわりと離れ、髪の毛を切り離したときに地面に落ちたままだった空色の飾り紐を拾い上げる。

「実は、長い髪は戦うときに邪魔なんで、短くしてしまおうかと思っていたところだったんです。いただいたこの飾り紐は、髪を結うこと以外で大切に使わせていただきますね」

 安心させようと笑みを浮かべてみせると、キアルズはますます泣きそうな顔になった。

「デイラッ……!」
「もう謝らないでくださ――」

 路地裏に、キアルズの大きな声が響く。

「ぼくが大人になったら、結婚してくださいっ!」
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