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36 氷の壁
しおりを挟む「そ……それにしても」
ヴリアン・レヒトは、無骨者が多いエルトウィンの騎士にしては珍しく社交性があり、場を和ませることに関しても割と得意な方だと自負している。
「昨日の青い衣装もすごく似合ってたけど、今日のリンダール特産の生地を使った深紅のドレスも、アイリにぴったりだよねえ」
「…………」
「アイリ、とっても素敵だよ?」
「……ああ。……ありがとう」
そのヴリアンをもってしても、アイリーネとフィンの間を流れる冷え凍った空気を温めることは全くできていなかった。
王の〝ごく私的な晩餐〟に与るため、身繕いをして三人で馬車に乗って王宮に向かっていた間も、前日に謁見した部屋に再び通されて待機している現在も、ヴリアンの空回りな独演会状態が続いている。
アイリーネの周りには分厚い氷で作られた高い壁が冷ややかにそびえ立っているようだし、フィンはその強固な壁に手も足も出ない様子で、深刻な表情で押し黙っている。
ヴリアンはため息をつくと、思い切ったように二人に向かって言った。
「ねえ、できるだけ余計な口を挟みたくはないんだけどさあ――」
そのとき、急に廊下のあたりが騒がしくなった。
部屋には出入り口が二か所あるが、そのうちアイリーネたちが入ってきた扉の向こうで、何者かが言い争いをしているようだった。
「……困ります……お客様が……」
「……を困る……がある! ……であるぞっ」
「しかし……から、……もお通しせぬようにと」
「うるさいっ、どけっ!」
前触れもなく乱暴に扉が開かれると、そこには、でっぷりとした身体を豪奢な衣装に詰め込んだ、脂ぎった六十がらみの男性が息を荒らげて立っていた。
どこか見覚えのあるその人物が誰なのかアイリーネが思い出す前に、ヴリアンは愛想のいい笑顔を浮かべ、すっと立ち上がった。
「これは、コーヘリッグ公爵殿下。お久しぶりでございます」
青い瞳と上背があること以外は兄とどこも似通ったところがない、王の弟だった。
アイリーネとフィンも席を立ち、ヴリアンと一緒にお辞儀をすると、公爵の背後から甲高い声が響いた。
「あらぁっ! ヴリアンちゃんじゃないのぉ!?」
巨漢の影からひょっこりと細長い顔を出していたのは、公爵の妻ベオーガだった。
「ああ、公爵夫人もお揃いでしたか」
ベオーガは紅をべったりと塗り込めた薄い唇をほころばせ、夫を押しのけて隙間を作ると、オスのクジャクの仮装でもしているのかと思うほどそっくりな色柄の衣装をはためかせ、クネクネとヴリアンの前へと歩み寄った。
「あんな辺境に行ったきりで、どれほどむさ苦しくなってるのかしらって気を揉んでたんだけど、ますます男ぶりが上がってるじゃなぁい」
「はは……もったいないお言葉でございます、公爵夫人」
ずいと差し出された指輪だらけの筋張った手を取り、ヴリアンは優雅に唇を落とす。
「どういうことだ……?」
満面の笑みをたたえている妻とは裏腹に、混乱したような顔をして立ち尽くすコーヘリッグ公爵は、怒鳴るような語気で訊ねた。
「ヴリアン、なぜそなたがここにおるのだっ!?」
剣幕に気圧されることなく、ヴリアンはにっこりと微笑む。
「久しぶりにこの時期に休暇が取れましたので、国王陛下に少し早いお誕生日のお祝いを申し上げに参りましたところ、友人と共に晩餐にお招きいただきまして」
「ぬ……」
唸り声を上げた公爵は、アイリーネたちの方を見た。
「友人、だと……?」
どすどすと近づいてきた公爵は、脂肪にくるまれた指でいきなりアイリーネの顎を掴み、ぐいっと上を向かせた。
「う……?」
「公爵殿下、何をなさいます……!」
ヴリアンが咎めるような声を上げてもお構いなしに、公爵は肉に埋まった青い目で至近距離からアイリーネの顔をじろじろと眺める。
「――黒い髪に、灰茶とも金茶ともつかぬ不思議な色の瞳……か……」
公爵は親指でアイリーネの顎をねっとりとなぞってから離すと、独り言のように呟いた。
「……金髪でも、青い目でもない……」
ヴリアンは、今にも噛みつきそうな目つきになったフィンの前に歩み出ると、やんわりと抗議した。
「恐れ入りますが公爵殿下、私の大切な友人にそのようなおふるまいは困ります」
「友人ではなく、本当はそなたの恋人ではないのか?」
「残念ながら、彼女には他に婚約者が」
公爵は、ふん、と鼻を鳴らし、下卑た笑みを浮かべた。
「そうそういないような美しい女だ。寝取ってやれ、ヴリアン」
間髪入れず、ベオーガが抗議する。
「あなたぁっ、ヴリアンちゃんにおかしなこと焚き付けないでえぇっ」
妻の金切り声に、公爵は耳を塞ぐ。
「ヴリアンちゃん、あなたにふさわしいお相手は、わたくしが探してあげますからね?」
「そのお気持ちだけでも身に余ります」
如才なく応えるヴリアンに向かって、公爵夫人は意味ありげに片目をつぶってみせる。
「寛容な奥さまになれるようなお相手を見つけてあげる。旦那さまが魅力的な年上の恋人と少々火遊びしても赦してくれるような……ねっ?」
「はは……」
公爵は気が削がれたような顔になると、ヴリアンにふるいつきそうになっている妻に「行くぞ」と声を掛け、踵を返した。
「公爵殿下、国王陛下にご用がおありだったのでは?」
ヴリアンに問われ、コーヘリッグ公爵は大きな背中を向けたまま頭を振った。
「兄上には取り立てて用はない。どうせ、明後日の式典で顔を合わせるのだから、今夜はもうよい……」
公爵夫人は慌ててもう一度手の甲を突き出し、ヴリアンから暇乞いの口づけを受けると、名残惜しそうに言った。
「ヴリアンちゃん、近いうちに公爵邸にもいらっしゃいな」
「あいにく、じきにエルトウィンに戻らなくてはなりませんので……」
「休暇なんて延ばせばいいじゃなぁい!」
「ベオーガ、行くぞ」
「そうなさいねっ、ヴリアンちゃん!」
扉が閉まり、ドスドスと重そうな足音とキンキンと騒々しい話し声が去っていくと、アイリーネは深い息を吐き、ヴリアンは「相変わらずの下衆っぷりだなあ……」と苦笑し、フィンは不機嫌そうな顔で椅子に腰を下ろした。
「――ヴリアン様、助かりました」
唐突に宰相の声が響き、三人が驚いて室内を見回すと、前日に王が入ってきた方の扉が大きく開いた。
「宰相閣下……」
姿を現した小柄な宰相は、にこやかに長身のヴリアンを見上げた。
「ヴリアン様は既に事情を把握していらっしゃるようだと、キールト様がおっしゃっていましたが、どうやら本当にそのようですね」
「把握というよりは当て推量でしたが、それほど的外れでもなかったようで……」
「フィン様から意識を逸らしてくださったことも、ありがたく存じます」
「とりあえず気取られずに済んだようで、良かったです」
二人のやりとりをアイリーネは不可解そうな面持ちで眺めていたが、宰相はそれに気づかぬ様子で、きびきびと客人たちを促した。
「では、こちらへどうぞ。準備は整っております」
先ほど宰相が入ってきた扉から見覚えのない廊下に出ると、すぐ向かい側の小さな扉が開かれる。
「お入りください」
そこは、小ぢんまりとした部屋だった。
壁や天井に品のいい装飾があしらわれてはいたが、壁際にいくつかの調度品が置かれているだけで机も椅子もなく、とても食事がふるまわれる場所のようには見えない。
「ひとくちに王の私的区域と申しましても、さらに奥まった部分がございまして……」
宰相は、壁の漆喰に直接描かれた床まである縦長の大きな神話画に近づき、その縁をぐるりと囲むように施された浮き彫りの装飾の中のアザミの花を、手のひらで押した。
かすかに金属が軋むような音と共に壁絵自体が扉のように開き、三人は揃って目を瞠った。
「ここからは、王弟殿下もご存じありません」
壁絵の向こうの薄暗い通路に入り、宰相の後ろについて突き当たりに見える明かりを目指して進んでいくと、何やら食欲をそそる匂いが漂ってくる。
「――おお、よく来てくれたな」
通路を抜けて明るい部屋に出ると、王の穏やかな声が客人たちを迎えた。
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