年下騎士は生意気で

乙女田スミレ

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8 リルの夜

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「詐欺師の才能、あるよね……」
 裸のアイリーネが、ぼそっと呟いた。

「おいっ、俺ひとりですっげえ頑張ったのに、そんな言い方ねえだろ?」
 同じく裸のフィンが、天井の方を向いて不愉快そうな声を上げる。

 その夜、二人はリルの街にある宿の一室で、日中に馬車の中でフィンがでっち上げた〝馴れ初め〟を振り返っていた。裸で。――とはいっても、全く色っぽい状況ではなく、寝台を挟んで互いに背中を向け、自分の身体を拭き清めているだけだったが。
 それぞれの傍らには、宿から提供された聖地リルの泉の湧水ゆうすいが入った桶が置かれている。

「おまえが全然あてになんねーから、こっちは全力でひねり出したんだぞっ」
「それにしたって、即興でよくあんなデタラメがスラスラと出てくるよね」
「……虚実きょじつ織り交ぜたからな」

 フィンの返事に、アイリーネは首を傾げた。

「事実の部分なんて、元婚約者が銀髪だったってことくらいでしょ? あとは思いつきであそこまで語れるなんて、大したもんだね」

 少し沈黙した後、フィンは面白くなさそうに言った。

「……親しくなったきっかけとか、告白のあたりなんかは、義姉あねたちの愛読書を参考にした……」
義姉あね?」
「四人いる兄貴のうち上の三人が結婚してて、休暇で実家に帰って親族が集まると、甘ったるい恋愛小説が転がってたりすんだよ。雨の日続きでめちゃくちゃ暇なときに、押しつけられて何冊か読まされたことがあって……」
「へえ……」

 アイリーネは、自分の姉妹たちもそういった本を好んで読んでいたことを思い出した。

「じゃあ、あの愛妻家芝居も小説を参考にしたんだ。すごい熱演だったけど」
 すご過ぎた、とアイリーネは振り返る。

「……おまえの方は、もうちょっと気合い入れて演じろよ」
「は?」
「は? じゃねえよ。パン職人の嫁さん見ただろ? ああいうのが新妻らしい態度なんじゃねえのか? 少しは可愛げ出してけよ」
「可愛げ……」

 確かにフィンはしっかり別人になりきっていた。あんなとびきり甘い笑顔のフィンなど今まで見たことがない。任務に忠実だったのはフィンの方だと言えるだろう。――しかし。

「どうしたらいいのか分からない……」

 アイリーネは途方に暮れた。恋愛小説を少々読んだくらいであそこまでやれるとは、フィンの学習能力は侮れない。

「……キールト・ケリブレといるときみたいに甘えればいいんじゃね」

 投げやりなフィンの助言に、アイリーネは間の抜けた声を出した。
「へ?」

「へ? じゃねえよ」
「私、キールトといるとき甘えてる?」
「自覚ねえのかよ」

 フィンが呆れたように息を吐く音が、アイリーネの耳にまで届く。

「よく笑うし、表情は柔らかいし、肩肘張らずに頼みごともするし。……婚約してただけのことはあるよな」
「それはたぶん、幼なじみだから……」
「じゃあ、俺を幼なじみだと思って頼ってみろ」
「げっ」
「げっじゃねえよ!」

「――よし、完了」
 フィンの憤慨をよそに、アイリーネは手早く衣装の紐を結んで声を掛けた。

「こっちはもう服着たよー。そっちはまだ?」
「お、俺はもうちょっと……」

 アイリーネの背後で、ばさばさと衣擦れの音がする。

「早くしないと、そろそろあの人たちが戻って――」
 ちょうどそのとき、廊下から扉を叩く音が聴こえてきた。

「ケランさーん、入ってもいいかーい?」

 男性の朗らかな呼び掛けに、慌てて上着を羽織りながらフィンが返事をすると、ほかほかと顔を上気させたパン職人夫婦が扉を開けて入ってきた。

「とってもいいお湯だったわあ」

 聖なる泉を有するリルの街の訪問者もかなり多く、昨晩のチェドラスに続いて空室のある宿はそう簡単には見つからなかった。
 やっとのことで二つの寝台が置かれた一室だけが空いているこの宿を探し出し、アイリーネたちとパン職人夫婦で相部屋として使うことにしたのだった。

「あちこちで空きがないって断られたときはどうなることかと思ったけど、リルの泉水せんすいを沸かした風呂がある宿に泊まれるなんて、運が良かったなあ」

 パン職人夫婦は嬉しそうに微笑み合う。宿の一階には連れ同士で使える貸し切りの浴室が備えられており、夫婦はそこを利用してきたところだった。

「本当に気持ち良かったわよー。やっぱりあなたたちもお風呂に入ってきたら?」
 
 パン職人の妻に勧められ、アイリーネたちはやんわりと断った。
「も、もう身体拭き終えて、さっぱりしたんで」

 パン職人もニコニコしながら浴室の様子を語る。
「掃除が行き届いてて、浴槽は夫婦で一緒に浸かれるくらいゆったりしてたよ!」

「へ、へえ……」
「い、いいなあ」
 そんなものに二人で入れるわけがない。アイリーネとフィンは必死で愛想笑いを作った。

「でも、あなたたちが身体を拭いた水も、リルの泉のものだったんでしょう?」

 アイリーネたちが頷くと、パン職人の妻は満足げな笑みを浮かべた。

「リルの湧き水は子宝の水でもあるから、きっとみんなにご利益りやくがあるわね!」

   ◇  ◇  ◇

 夜半、怪しい音に気がついてアイリーネは目を覚ました。

 規則的な打擲音ちょうちゃくおんに眉をひそめて耳を澄ますと、女性の呻き声のようなものも混ざって聴こえてくる。
 すぐさまアイリーネは身を起こそうとしたが、それよりも速く後ろから回ってきた何者かの手に口を塞がれ、身体もがっちりと押さえ込まれてしまった。

「んぅっ」

 枕の下に密書と共に隠してある短剣を手に取らなくてはと思ったとき、耳許で押し殺したフィンの声がした。
「――俺だ、落ち着け」

「んん……っ」
 自分の動きを封じているのが同じ寝台に横になっていたフィンだと知ったアイリーネは、落ち着くどころかますます混乱し、手足をばたつかせようとした。

「おとなしくするなら放すから……」

 そう囁かれている間もくだんの異常な音は止まらず、途切れ途切れに聴こえる女性の苦しそうな声も続いている。
 フィンに従ってはいられないとアイリーネは強く身をよじろうとしたが、思いのほかフィンの制圧術は優秀で、全く隙がなかった。

「あ、暴れんな」
 腕の力を緩めずに、フィンはボソボソと言う。
「おっ始まっただけだ」

「……んう……っ?」

 意味が分からず、なお抵抗を試みるアイリーネに、フィンはため息まじりに耳打ちした。
「――窓の方を見てみろ。静かにな」

 フィンの手に口を塞がれたままアイリーネは頭を動かし、暗闇の中で目を凝らす。
 まず、弱い月明かりに照らされ、パン職人夫妻が使っているはずの窓際の寝台の上で何やら獣めいたものがうごめいているのが見え、アイリーネの緊張は更に高まった。

「……ぁあ、はぁっ……」

 暗さに目が馴れてきたアイリーネは、はっと息を呑む。

「あっ、あんっ、コノン……ッ」

 覆いのない窓を背景にして影絵のように浮かび上がっていたのは、寝台に両手両膝をついて大胆に寝衣をめくりあげた妻の腰を掴み、夫が後ろから繰り返し穿っている姿だった。

「そ、そんなに激しくしちゃ……っん、はっ、あっ」
「イーマ、可愛い、可愛いよ」

 アイリーネの身体から力が抜けると、するりとフィンの腕が離れていった。
 思わずおろおろとまなざしを向けたアイリーネに、フィンは困ったような笑みを返し、忍び声で言った。

「邪魔しないで寝ようぜ」

 アイリーネが素直に頷くと、フィンは寝返りを打って壁側を向いた。アイリーネも上掛けを引き上げ、しっかりと目を閉じる。

「きこえちゃう、きこえちゃうぅっ、あうっ、はぁっ」
「イーマッ、大丈夫だよ、みんな寝静まってる……っ」

 湿ったものがぶつかり合うような音が速まるにしたがって、夫婦の声もはばかりなくどんどん大きくなっていく。

 すんなりと寝直せるはずもなく、アイリーネがそっと目を開けてフィンの方に視線を向けると、薄闇にほの白く映るフィンの裸の背中は、すでに寝入ってしまったかのように鎮まって見えた。
 引き締まった背中の輪郭を眺めていると、ふと押さえつけられたときの硬くて逞しい身体の感触が甦る。

「フィンのくせに……」

 微かな声で呟き、もっと自分も鍛え直さなくてはとアイリーネが決心したところで、フィンがくるりと身体を反転させた。

「――おい」
 暗がりに目が光っている。

「ね、寝てなかったん……」
「今、なんて言った」

 潜めた声だったが、不機嫌そうなのは伝わってきた。

「な、なんでもない」

 ごまかそうとするアイリーネを睨み、フィンは鼻先がかすめそうなほど距離を詰めた。

「おっまえなあ、いつまで俺をガキ扱……」
「ひぃッ、あッッん!」

 パン職人の妻のひときわ大きな嬌声に、フィンは気勢を削がれたように言葉を呑み込む。

「あっ、ああ、コノン、すごい、すっご……いぃ」
「イーマ……ッ、こうだろ……っ?」
「は、ああぁんっ!」

 薄暗がりの寝台の上で、淫らな音や声を聴かされながら至近距離でフィンと顔を見合わせていることに、アイリーネは激しい気まずさを覚えた。

「な、何も言ってないから。寝よ。おやすみっ」

 切り上げるようにそう言い、アイリーネは再び目をつぶる。
 閉じた瞼の向こうでフィンが動くような気配がしたので、おとなしく離れてくれるようだとアイリーネがほっとしていると、ふいに、ちゅ、という音と共に頬に柔らかい感触がした。

 驚いたアイリーネが目を開くと、フィンはニヤリと笑った。

「おやすみ、リーネ。我が妻よ」

 抗議の声を上げようとしたアイリーネに、フィンは不敵な笑みを浮かべたまま「お静かに」の仕草をしてみせ、再び背中を向けた。

 アイリーネが口をぱくぱくさせながら声を出さずに悪態をついている間も、パン職人夫妻の睦み合う音が途切れることはなかった。
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