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第一章

怪しい女

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 走る。
 春輔は前だけを見て、全速力で走った。
 せっかく帝国図書館で借りた本も荷物も、あの場に全て投げ捨ててきてしまった。きっと本を返すときには、やれ汚損だ弁償だとうるさく言われるだろう。

(まあ、それも生き残って返しに行ければの話だ! 何なんだ、あのバケモノは! いや、振り返るな、気にするなっ! とにかく走って距離を稼ぐしかない!)

 別段運動が苦手でもない春輔が、足を縺れさせるほど必死に走っているのに、ほんの少しだけの距離を置いて後方にぴったりと貼りつくような気配を感じる。
 生臭い匂いをぷんぷんと漂わせたソレは、先ほどから甘ったるい猫なで声でわけのわからないことを絶えずわめき続けているのに、息のひとつも切らしていない。
 ここまで来ると、『もしかしてちょっと個性的な格好なだけの普通の人間なのでは?』という楽観的な見方は諦めるしかなさそうだ。

(それにしても、なんでこんなに臭いんだ! 傷んで腐りかけた魚みたいな酷い匂いがする!……もしもアレが魚類なら川から離れた方がいいのか!?)

 春輔は一歩前に踏み込んだ右脚を軸にして体の向きを変え、川べりの道を突っ切った。
 そのまま御茶ノ水駅の方へと駆け出せば、背後からは焦れたようなバケモノの咆哮が聞こえてくる。
 御茶ノ水駅はこの近辺では一番大きな駅だ、きっと夜も煌々と明かりも灯っている。人通りだって多いだろう。誰かに助けを求めることも容易いはずだ。
 だから、そこまで逃げてしまえば――。

「よしっ! これで、あとは駅まで逃げれば……っ!」
 
 ――逃げれば、どうなるっていうんだ?
 
 浮かんだ考えに、足が止まった。
 自分の後を追ってくるのは人知を超えたバケモノだ。このまま駅前まで逃げたところで、バケモノに対抗する術を持った人間に運良く出会える保証はない。警官や軍人の銃器や刀なら太刀打ちできるのかも分からない。
 仮に助けを求めることはできたとしても、バケモノに追いつかれる前に事情を説明できる自信も無い。

(それどころか、アレが、あたりの人を誰彼構わず襲うバケモノだとしたら、)

 ここで逃げたところで被害が増えるだけだとしたら。
 逃げた自分は助かったとしても、その代わりに他の人が死ぬとしたら。
 
 ――俺なんかが生き残るために、俺はまた誰かを犠牲にするのか?
 
 浮かんでしまったその問いは、頭に取り憑いて離れなくなった。

「……クソッ!」

 舌打ち一つをその場に残して、川辺へと踵を返す。
 気づけばバケモノは距離を随分詰めていた。どうやらアレは水辺から離れても消耗せずに動けるらしい。このバケモノはどこまでも追ってくるのだろう。
 だったら、春輔がやることはひとつしかない。
 素手で戦って勝てる相手とは思えない。どうせ自分は追いつかれてしまうのだから、バケモノを人混みに寄りつかせないことだけが、春輔にできる唯一の――最善の選択だ。
 
「来いよバケモノ! 俺はこっちだ!
 
 手を叩いて挑発すれば、バケモノはべちゃり、と汚らしい水音を立てながら、嬉しそうに春輔に向かって滑り寄ってくる。
 苦し紛れの時間稼ぎにと投げつけてやった高下駄は、軟泥のようにとろけたソレの内部にあっけなく取り込まれる。一応は人間らしく見えていた外見も今や崩れて、ヘドロの腕は春輔の胴を絡めとるように――おぞましく表現するならば、春輔の身体を包み込んで抱擁するように、まとわりついた。

「離せよっ!」
「待ッテェ! ナンデッ……ネェェ、約束! ヤクソクシタァ……ッ!」
「お前なんか知らない!」
「嘘、ウソ……ウソウソウゥ……ナンデェ、アァナタ……」
「息がっ、……ぐっ、ぅくっ!」
「ウゥウッ! コロッ、コロス、殺すぅ……!」

 バケモノは抵抗する春輔に戸惑うように身を震わせると、拒絶されたことに憤怒したかのように、いっそうきつく締めあげてきた。
 胴を強く圧迫され続け、呼吸さえままならなくなった自分の喉が掠れた笛の音に似たひゅうひゅうと哀れっぽい音を出すのを、どこか他人事のような心地で聞いた。

(こいつ、俺を、『誰』と間違えてるんだ……?)

 このバケモノは、何か――『誰か』を探しているらしい。
 その相手とした『約束』を春輔が覚えていなかったばっかりに、春輔はここで死ぬ、ということらしい。
 痴話喧嘩なら他人を巻き込まずにやればいいものを、傍迷惑もいいところだ。人違いで殺されるなんて勘弁してくれと力のかぎり弁解したいけれど、もう声が出なかった。
 酸素が送られなくなった頭はぼんやりとして常のようには働かず、春輔の視界はもやがかかったように白み始めていた。

(痛い、冷たい、水? ああ、川の中に引きずり込まれたのか……)

 バケモノに引きずられるままに水面に叩きつけられた衝撃と、浴びるにはまだ冷たすぎる初夏の水の温度。足に絡みつく藻のぬめりと、川の水を吸い込んでだんだんと重たくなっていく着物の感触に、いやでも間近に迫った死を悟る。――ああ、俺はこのまま死ぬ、ここでバケモノに殺されるんだ、と。
 
(……いや、だ。嫌だっ、やっぱり死にたくないっ!)
 
 周りの同級生のように輝かしい将来の夢や希望を持っていたわけではないけれど。誰にも知られず冷たい川底で、息が詰まって苦しい思いをして、身の毛もよだつバケモノと無理心中させられるなんて、そんな最期だけはまっぴらごめんだ。
 ああ、今助けてくれるというなら、神でも仏でも、いっそ悪魔でも誰でもいい。
 俺の魂の一つや二つくらいは喜んで安く売り飛ばすから、誰か――!

「……たす、けっ……!」
「一緒ニィ……ッ、ヒヒッ! 死ノゥ?」

 助けなど来るはずがないと分かっているのに、往生際悪く諦めきれない――そんな心境だったから、今際の際の都合の良い夢を見たのだと思った。
 
「――なぁ。そこのお二人さん、合意か?」
 
 そのとき春輔が目にした光景はあまりにも美しくて、とんと現実感というものが無かったから。

「……だれ、……っ?」

 汗と涙と川の水でぼんやりと滲んだ視界に映ったのは、齢十六、七ほどに見える少女だ。
 海老茶袴に草木柄の着物、革のブーツを合わせた姿だけは昨今はやりの女学生らしい身なりだが、足首まで届きそうなほど長く艶やかな黒髪は束髪に結いもせず、そのまま流して風になびかせている。
 大きくまるい猫の瞳は、じいっと観察するような視線を春輔に向けていた。
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