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献身と強欲

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 エフィは壁掛け時計の文字盤に、ちらりちらりと目をやっていた。
 ハンナから今晩はヴィルベルトが来る予定だと聞いたのだ。日頃は空いた時間に不定期に訪ねてくるから、深夜の訪問も頻繁にあるのに、早い時間に前触れがあるなんて珍しい。

「ただいま帰った」
「おかえりなさい、ヴィル!」

 玄関扉の呼び鈴の音を捉えて、エフィは階下へと急いだ。
 今日こそ、彼に聞かねばならないことがあるのだ。まだ夜も浅いし、少し話し込むくらいなら、彼の仕事の邪魔にはならないだろう。

「今いいかしら、あなたと話したいことがあって……あら、どうしたの? 顔色が悪いわ」

 ハンナに『夕飯は要らない』と断ったヴィルは、そのまま彼の寝室へと向かおうとしていた。
 それほど疲れているのだろうか。話をこれ以上先延ばしにしたくはないけれど、というエフィの躊躇いに気づいたわけではないだろうが、ヴィルは意外なことに、寝室の扉を開いたまま、腕で室内を示した。

「入ってもいいの?」
「何か話があるんだろう?」
「ええ。でも……」
「ちょうど俺からも話すことがある」
「何かしら。先に言って?」

 ハンナを下がらせたうえで部屋の中で話すということは、機密に関わる話だろうか、と漠然と考えてはいた。

「今日、レオポルト7世の死刑が執行された」
「……っ」

 彼が告げたのは、前々から不可避と分かっていた既定事項で、それでもエフィにとっては『父親の死』に当たる出来事だった。衝撃を全く覚えないと言えば、嘘になる。

「いつ?」
「つい先刻だ」
「……そう」

 けっして立派な国王ではなかったし、褒められた父親でもなく、むしろ最悪の部類の人間だった。だが、知らないうちに粛々と死んだと聞かされるとやるせない気持ちにはなる。
 哀れな魂が主の御許に辿り着けますように、と死者を悼む聖句を思わず口ずさんだエフィを、ヴィルは止めなかった。

「分かっていたことだもの、仕方ないわ。まさか、それをわたくしに知らせるために無理をして早く戻ったの? あなたが気を使う必要なんてないのよ?」
「いや」
「それなら、次に処刑されるのはわたくしだということを伝えに?」

 そういうことであれば、気が重そうなヴィルの様子も理解できる。
 さすがに知人に面と向かって『お前の処刑の日が決まった』と伝えるのは気まずかろう。
 エフィが『気にしないから言って』と促すと、ヴィルは引き結んでいた唇をゆるりと開いた。
 そして――。

「エフェリーネ王女は落城の際に死んだ。ここにいるお前は、死人かただの他人の空似だ」

 ――彼は、二人の関係を決定的に揺るがす一言を吐いた。

「……何を言っているの」

 意味が分からなかった。
 エフェリーネ王女が死んでいるだなんて、事実と反することを言う意味も、そんなことを言う意味も。

「わたくしは生きているわ! 生きて、城から抜け出したのよ!」
「だが、俺以外にそれを知っているものはいない」
「あなたが知っていれば十分でしょう!? 現に生きたわたくしがここにいるのだもの、わたくしを引き渡して、皆の前であなたが証言すれば、それで……っ、」

 自分がヴィルの屋敷に連れて来られて留まっているのは、そういう話だったはずだ。ここで、裁かれるまで沙汰を待っているのだと――。

「……ああ、そういうことなのね。ヴィル、あなたにはわたくしを突き出す気なんて、最初から無かったのね」

 エフィは自身へと注がれる、揺るがぬ強い眼差しを見てとって、ヴィルにとってはこれが『既定』の出来事だったことを知った。
 彼は、エフィの向ける非難をものともせずに、いけしゃあしゃあと言ってのけた。

「最初から、というのは正しくないな。革命軍に加わった時は、俺が庇えば王女ひとりの恩赦は受けられる程度に出世しておこうと思っていた。修道院に送るか、それが認められなくても監獄塔への生涯幽閉で済めばいいと」
「だったら、今からでもそうすればいいじゃない! あなたが言ったんでしょう!? 新しい国では正しい手続に則って刑罰を決めるんだ、って! こんなふうに隠していいわけないわ!」

 最初はエフィを捕らえて革命政府に引き渡したうえで減刑を嘆願するつもりだったと言うのなら、今からでもそうしてくれればよかったのだ。
 だって、ヴィルの言葉が意味することは――。

「革命政府は、次はに対して牙を剥く! 国中があなたの敵に回るのよ!」
「そうだな。革命を掲げた者の行動として間違っているのは分かっている」

 ヴィルは、とりつく島もなく、淡々と述べた。彼の中ではとっくに葛藤の段階を通り過ぎていたらしい。

「昔の俺は、自分は王女を死から助け出してやりたいんだと思っていた。どこか遠いところで慎ましくも穏やかな一生を送ってくれればいいって。そうして昔受けた恩や親愛に応えたいと思った」
「それでも十分すぎるくらいだわ! ねえ、わたくしは、それ以上を望まないから……っ、もう、やめてっ」
「エフィ、お前の意見は関係ないんだ」
「……かんけいっ、ない?」

 感情が昂ぶって、知らぬ間にエフィの頬は涙で濡れていた。
 ヴィルは、しゃくりあげながら紡いだ言葉で詰るエフィの体を抱きしめて、背中に添えられた左手で宥めるようにさすった。右手は手巾を目の下に当てて、次から次へとこぼれ落ちて止まらない涙を拭い取っている。

「気づいていなかっただけなのか、あの日気持ちが変わったのかは分からない。今の俺は、お前に俺の傍で生きていてほしいだけだ。お前が離れていくことも、髪の毛一本害される可能性すら許せない。だから隠しておくと決めた。……たとえ、お前が拒んだとしても関係ない」

 愛おしむような温かい視線を感じる。ヴィルの手は優しく、力強い腕は頼もしいのに……『守られている』ではなく『閉じ込められた』『もう逃げられない』と感じるのは、なぜなのだろう。

「話は以上だ。もう誰もお前のことをエフェリーネ王女とは呼ばないし、民に顔が知れているお前を、人に会わせるわけにはいかない。お前が生きていることを他人に知らせることもない。だが、それ以外のことなら何なりと言ってくれ」

 どんなにをかけられても胸に響かないのは、互いの望みが食い違っていることを、ヴィルがエフィの望みを封殺してでも自分の望みを押し通そうとしているということを、知ってしまったからだろうか。

「わたくしは……っ、あなたの重荷になんかっ、あなたの重荷にだけは、なりたくなかったのに!」
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