上 下
88 / 99
フィロソファーズ・ストーン

回想➉ AK006

しおりを挟む
波の音にかき消されて、声が届かなかったのか、目の前の女の子は無反応だった。

目の前には肩にかかるくらいの髪を持ち、大きな瞳で白いワンピースを着たARIAが立っていた。

もう一度、声をかける。

「こんにちは」

『……こんにちは』

「…………」

『あ、あの……あなた、誰ですか?』

「やっぱり覚えていないか」

『えっ?』

私はかぶりを振った。

「ううん、なんでもない。私は高瀬京香。はじめまして」

『はじめまして。私はAK006って言いま……ああ、きっとご存知ですよね。あなたが開発者の方ですか?』

「そうよ。よろしくね」

そう言って手を差し出すと、彼女は戸惑ったような表情をしながらも握手をしてくれた。

表情は硬い。でも、雫や桔梗の時よりも人間らしいリアクションだった。おそらく、人見知りしているのだろう。

「AK006、あなたに名前をつけようと思うの」

『名前……ですか? 既にAK006という個体識別用のナンバーは割り当てられていますが』

「それはシリアルナンバー。人間としての名前よ」

『確かにナンバーは人間というよりは工業製品っぽいですね……』

私はできるだけ優しく微笑む。

「だから親しみやすいように、名前を考えておいたの」

『よくわかりませんが、楽しみです。どんな名前なんですか?』

少し緊張する。これがきっかけで記憶が戻るかもしれない。

「咲夜。夜に咲くで『咲夜』よ」

彼女はその名前を聞いて、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐにはにかんだように目が輝き、長い髪を揺らしながら、どこか落ち着かない素振りを見せた。

『和名ですね。素敵です。何か由来があるのでしょうか』

「ごめんなさい、ただの思いつきなの」

私はペロッと舌を出した。彼女はふふふと笑っていた。

だが、その笑顔を見ながら、心のどこかで少し悲しくなる。今の彼女は元の人格とはまるで違う。

微かに関西特有のイントネーションがあるように感じたが気の所為だったようだ。

脳オルガノイドと本来の脳の記憶のリンクは未完成で、元の脳の自己修復が終われば、彼女の人格は消えてしまうかもしれない。

「あとね、あなたの苗字は西園寺。西園寺咲夜よ」

西園寺咲夜さいおんじさくやですか、いい名前ですね。ありがとうございます。でも、私に苗字まで必要ないと思うんですが……』

「そんなことないわ、あなたには家族がいるから。この後、紹介するわね。桔梗と雫、航という二人の姉兄きょうだいがいるの」

『そうなんですね……』

いつもの孤島の教室から階下に降りて、モン・トレゾールの二階の一室に向かう。

歩いている最中、末木からプライベートボイスチャットが入った。

「駄目だったみたいだね」

「はい……残念です」

「まあ、そのうち主人格が目を覚ますよ。気に病むことはない」

私はARIAは生きていると信じている。きっと魂だってあるはずだ。主人格に魂を上書きされてしまうのは、まるで死と同義ではないだろうか?

気がつけば十数年をARIAに費やしていた。私は何のために研究を続けているのか、わからなくなっていた。

医療分野の飛躍的発展のため?

死んでしまった湊を生き返らせるため?

植物状態の雫を救うため?

私は賢者の石を作ろうとしていた。ありもしない奇跡の物質を、仮想空間なら再現できるのかもしれないと。

そんな夢想に取り憑かれていただけだと思う。初めはそんなことを考えていなかったはずなのに。

『あの……どうかされましたか?』

咲夜は小首をかしげ、私の顔を心配そうに覗き込む。

「ううん、なんでもない。さあ、咲夜、あなたは運の良いARIAよ。最終アップデートの味覚エンジンが待っているわ」

『味覚……ですか? それはどんなものですか? 』

「まあ、生きるってことよ──」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友よ、お前は何故死んだのか?

河内三比呂
ミステリー
「僕は、近いうちに死ぬかもしれない」 幼い頃からの悪友であり親友である久川洋壱(くがわよういち)から突如告げられた不穏な言葉に、私立探偵を営む進藤識(しんどうしき)は困惑し嫌な予感を覚えつつもつい流してしまう。 だが……しばらく経った頃、仕事終わりの識のもとへ連絡が入る。 それは洋壱の死の報せであった。 朝倉康平(あさくらこうへい)刑事から事情を訊かれた識はそこで洋壱の死が不可解である事、そして自分宛の手紙が発見された事を伝えられる。 悲しみの最中、朝倉から提案をされる。 ──それは、捜査協力の要請。 ただの民間人である自分に何ができるのか?悩みながらも承諾した識は、朝倉とともに洋壱の死の真相を探る事になる。 ──果たして、洋壱の死の真相とは一体……?

母からの電話

naomikoryo
ミステリー
東京の静かな夜、30歳の男性ヒロシは、突然亡き母からの電話を受け取る。 母は数年前に他界したはずなのに、その声ははっきりとスマートフォンから聞こえてきた。 最初は信じられないヒロシだが、母の声が語る言葉には深い意味があり、彼は次第にその真実に引き寄せられていく。 母が命を懸けて守ろうとしていた秘密、そしてヒロシが知らなかった母の仕事。 それを追い求める中で、彼は恐ろしい陰謀と向き合わなければならない。 彼の未来を決定づける「最後の電話」に込められた母の思いとは一体何なのか? 真実と向き合うため、ヒロシはどんな犠牲を払う覚悟を決めるのか。 最後の母の電話と、選択の連続が織り成すサスペンスフルな物語。

無限の迷路

葉羽
ミステリー
豪華なパーティーが開催された大邸宅で、一人の招待客が密室の中で死亡して発見される。部屋は内側から完全に施錠されており、窓も塞がれている。調査を進める中、次々と現れる証拠品や証言が事件をますます複雑にしていく。

幽子さんの謎解きレポート~しんいち君と霊感少女幽子さんの実話を元にした本格心霊ミステリー~

しんいち
キャラ文芸
オカルト好きの少年、「しんいち」は、小学生の時、彼が通う合気道の道場でお婆さんにつれられてきた不思議な少女と出会う。 のちに「幽子」と呼ばれる事になる少女との始めての出会いだった。 彼女には「霊感」と言われる、人の目には見えない物を感じ取る能力を秘めていた。しんいちはそんな彼女と友達になることを決意する。 そして高校生になった二人は、様々な怪奇でミステリアスな事件に関わっていくことになる。 事件を通じて出会う人々や経験は、彼らの成長を促し、友情を深めていく。 しかし、幽子にはしんいちにも秘密にしている一つの「想い」があった。 その想いとは一体何なのか?物語が進むにつれて、彼女の心の奥に秘められた真実が明らかになっていく。 友情と成長、そして幽子の隠された想いが交錯するミステリアスな物語。あなたも、しんいちと幽子の冒険に心を躍らせてみませんか?

旧校舎のフーディーニ

澤田慎梧
ミステリー
【「死体の写った写真」から始まる、人の死なないミステリー】 時は1993年。神奈川県立「比企谷(ひきがやつ)高校」一年生の藤本は、担任教師からクラス内で起こった盗難事件の解決を命じられてしまう。 困り果てた彼が頼ったのは、知る人ぞ知る「名探偵」である、奇術部の真白部長だった。 けれども、奇術部部室を訪ねてみると、そこには美少女の死体が転がっていて――。 奇術師にして名探偵、真白部長が学校の些細な謎や心霊現象を鮮やかに解決。 「タネも仕掛けもございます」 ★毎週月水金の12時くらいに更新予定 ※本作品は連作短編です。出来るだけ話数通りにお読みいただけると幸いです。 ※本作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。 ※本作品の主な舞台は1993年(平成五年)ですが、当時の知識が無くてもお楽しみいただけます。 ※本作品はカクヨム様にて連載していたものを加筆修正したものとなります。

リモート刑事 笹本翔

雨垂 一滴
ミステリー
 『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。  主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。  それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。  物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。  翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?  翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!

鏡の中の真実

葉羽
ミステリー
東京の豪邸に一人暮らしをする高校2年生の神藤葉羽(しんどう はね)は、天才的な頭脳を持ちながらも、推理小説に没頭する日々を過ごしていた。彼の心の中には、幼馴染の望月彩由美(もちづき あゆみ)への淡い恋心が秘められているが、奥手な性格ゆえにその気持ちを素直に表現できずにいる。 ある日、葉羽は古い鏡を手に入れる。それはただの装飾品ではなく、見る者の深層心理や記憶を映し出す不思議な力を持っていた。葉羽はその鏡を通じて、彩由美や他の人々のトラウマや恐怖を目撃することになり、次第に彼自身もその影響を受ける。彼は鏡の秘密を解き明かそうとするが、次第に奇怪な出来事が彼の周囲で起こり始める。 やがて、鏡の中に隠された真実が明らかになり、葉羽は自らのトラウマと向き合うことを余儀なくされる。果たして、彼は自分の心の奥底に潜む恐怖と向き合い、彩由美との関係を深めることができるのか?鏡の中の真実は、彼の人生をどう変えていくのか?

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

処理中です...