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クローズドワールド
クオリア
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消毒液の匂いがする。
薄目を開けると白い天井が見えた。周りは白いカーテンで仕切られているようだ。
病院……?
大部屋なのか、カーテン越しに話し声が聞こえる。意識が鮮明になり、自分の状況が理解できた。
なるほど、事故の後に病院に運ばれたのか。
身体を起こそうとして、お腹に咲夜の頭が乗っている事に気がついた。
付き添ってくれていたのだろうか。髪をそっと撫でようとして、途中で手を引いた。
起こすのは可哀想な気もしたが、腕を伸ばし咲夜の肩を揺する。
「咲夜、咲夜」
「……ん、あぁん、また、コンソメスープ? センスないわぁ」
「……咲夜、起きて」
「亮……おかわりは要らんから、お茶買うてきて」
「目を覚ませ」
面倒くさくなって、ほっぺたをつねる。
「いだだだだだ」
「起きた? 」
焦点の合わない目でこちらを見つめる。目を細めてこちらを見る。
「亮、起きたんか! 」
「なんか、迷惑をかけたみたいだね。ごめん」
「良かった……死んだかと思ったわ。白目剥いてるの見て、うっかりお経唱えてもうたわ。なむーってな」
「咲夜はクリスチャンだろ……」
「そう、やった。忘れとったわぁ」
そう言って、ころころと笑う。
起きて1秒で咲夜のエンジンがかかった。脱線する前に事情を聞いておく必要がありそうだ。
「咲夜、……雫はどうなった? 」
咲夜は怪訝な顔をする。
「まあ、助かった……みたいやで」
「江ノ島大橋には着いたんだよね? 」
「着いた。そしたら、末木さんから連絡きて、もう大丈夫や言われてな」
「そうか。雫には会った?」
「会うか、ボケ」
咲夜はプイッと顔を逸らす。
「まあ、大体の事情は聞いたで。あのロングへアのねーちゃんと、くせ毛のちびっこはARIAって言うんやな」
「うん……雫もね」
咲夜はこちらに顔を戻した。珍しく、真面目な顔をしていた。
「亮、雫とやらは目を覚ましてへん」
「えっ? 」
「高瀬さんが言っとったけど、まだ、亮に本来のお手伝いをしてもらってないって」
「仮想空間の雫を助けたのは……」
「あれは不測の事態ってやつや。ほんまは別の依頼があったみたいやで」
「それって……」
咲夜はくいっと首を振る。その先には高瀬さんがいた。
「席外そうか? 」
高瀬さんが軽く会釈をした。咲夜が立ち去るのを確認すると高瀬さんは、椅子に座り静かに話し始めた。
「雫が目を覚まさない理由は覚えている? 」
「確か、過学習に陥っているとか。それで……江ノ島や江ノ電の記憶を消さないといけない……でしたよね」
仮想空間は雫の記憶から構成されたものだ。つまり、まだ、記憶が消えていないということだ。
「あの仮想空間が雫が起きなくなった元凶の場所。私は江ノ電や江ノ島に気を取られすぎて肝心なものを見落としていた」
「何をですか? 」
高瀬さんは何かを話そうとしていたが、途中で口を結んだ。目を瞑り、一呼吸置いてから話し始めた。
「国道1号線から134号線のルート、あれは山内さんと雫が移動したルートで間違いない? 」
「あ、はい。間違いないです」
ただ、夕方だったのが少し引っかかっていた。
「134号線から脇道に入ったりは? 」
「していません」
高瀬さんは目を瞑り、うつむきながら話を続けた。
「なら、そこも含めて記憶を削除します」
「…………はい」
雫とは殆どの時間を大学と自宅、その近所で過ごしていた。だから、問題はないはず……だ。
でも、大事な思い出が消されると思うと少し悲しくなった。
「山内さんに一つお願いがあるの。江ノ島、江ノ電、鎌倉、134号線に雫を連れて行かないでほしいの」
「なんでですか? 」
高瀬さんの瞳は揺れていた。
「また、雫が思考のループに陥るからよ」
「分かりました。これで雫は目を覚ますんですか? 」
「ええ、調整に時間がかかるから、数日は待ってもらうけど」
「そうですか」
高瀬さんは何か隠し事をしている。深追いしても、何も話してくれないだろう。とりあえず、分かった振りをしておく。
しかし、本当に雫とそっくりだ。ため息をつく。
「変なこと聞いていいですか? 」
「何? 」
「高瀬さんも……ARIAなんですか? 」
突拍子な質問に高瀬さんの目が大きく見開いた。
「そんなわけないよ。山内さんはなんでそう思ったの? 」
「高瀬さんアバターの表情がリアル過ぎるし、敵の弾丸食らった時だって真っ青な顔してたし……」
高瀬さんはふっと息を漏らす。観念したような、諦めたような顔をしていた。
僕に背を向けて座り直したかと思うと、後ろ髪をかき上げて、うなじを見せてきた。
思わず、ドキッとしてしまった。
「な、なんですか? 」
「うなじの辺りをよく見て」
そう言われて、よく見ると角の取れた横長の四角い穴が空いていた。USBポートみたいだ。
「この四角い穴、なんですか?」
「脳と情報交換を行うための入出力端子よ」
髪を下ろすと、高瀬さんはこちらを向き直った。身体に入力端子? 冗談ではないのか?
「プロジェクトARIAの本当の目的はね、感覚の共有なのよ」
「かんかく? 」
「山内さんはパッキー好き? 」
「いえ、そんなには……」
高瀬さんは苦笑する。
「パッキーの味や特徴を私に正確に伝えて貰える? 」
「言葉で? 」
「そう、言葉で」
「細長い棒状のクッキーにチョコレートをコーティングしたもので、パキパキとした食感と塩味、チョコの甘さがマッチしたお菓子……です」
「それって、どう甘いの? 」
「どうって、まろやかな感じで……」
「まろやかって、どんな感じに? 」
「……人によるから、まろやかさを伝えるのは無理ですよ」
「そうね、だから私ならこうする」
そう言うと、高瀬さんは棚に置いてあったパッキーを一本手に取り、パキパキと食べ始めた。
「あっ、ずるい」
「ふふ、そうね。でも、合理的でしょ。言語では伝えることの出来ない感覚や質感をクオリアって言うの」
「クオリアですか? 」
高瀬さんは首肯する。
「生成AIを次のステージに押し上げるにはクオリアの学習が必要なの」
「もしかして、雫がアップデートで暑さや寒さを感じるようになったのって……」
「私の感覚をデータ化して、彼らに共有したのよ」
高瀬さんの瞳には揺らぎも澱みもなかった。ただ、真っ直ぐにそれが正しいことと信じている目をしていた。
だからこそ、僕は高瀬さんのことが怖くなった。自分の身体を実験台にしてまでARIAに心血を注ぐ理由はなんなのだろうか?
「なんでそこまで……」
「クオリアの共有が出来れば、ARIAだけではなく、医療の分野も大きく発展するから、難病の子供たちを救えるかもしれない」
そう言って、優しく微笑む。僕はそれが本当の目的であってほしいと願ってしまった。
「おかげでアバターも私の身体情報と完全に連動して、繊細な表現が可能になったのよ」
「なるほど、それで……」
「これが発表されれば、フルダイブ型のVRゲームハードも登場するかもね」
「さて、山内さん」
「はい?」
急に改まったような話し方をするので、背筋を伸ばしてしまった。
高瀬さんは厚みのある書類を僕の目の前に置いた。
「なんですか、これ」
「機密保持契約書よ」
「…………はい?」
「流石に秘密を話しすぎた。口外しない約束を明文化しておかないとね」
そう言うと、ニッコリと微笑む。
「これ、読まないと駄目ですか?」
「サインさえ貰えれば、読まなくてもいいわよ。あなたにとって都合の悪いことが書いてあるかもしれないけどね」
苦笑いしてしまった。
仕方なく、契約書に目を通す。今までに使ったことのない、読んだこともない言葉が書かれていて、頭が痛くなる。
高瀬さんが横でわからない箇所の説明をしてくれたので何とか理解はできた。
署名をして書類を返した。
「あの、中原美奈は……」
「見つかっていない。中原美奈は身寄りもないみたいで、ここに来る前は養護施設でお世話になっていたみたい」
「養護施設……」
「ええ、幼少の頃に実父からネグレクトを受けていたらしくてね……」
「そうですか」
話を聞いてどんよりとしたが、不思議と中原美奈に怒りや憎しみの感情は湧いてこなかった。
木崎さんが気に掛ける彼女が本当に悪いやつとは思えなかったからだ。
それから高瀬さんとこれからの事を少し話して、帰り際に雫が目を覚ましたら連絡すると高瀬さんには言われた。
***
気がつけば、消灯時間になっていた。病院は端的に言うと暇だ。
だから、ずっと気になっていた未解決問題の事を考えてしまった。木下に続き、中原美奈も行方不明という事実が偶然とは思えなかった。
だが、中原美奈はフェイクポルノ事件の被害者で木下は加害者だ。
でも、中原美奈からは被害者としての悲壮感や苦しみみたいなものを一切感じなかった。
彼女は一体、何故雫に執着するのだろうか?
駄目だ、思考がまとまらなくなってきた……。眠い。
夢を見ていたのかもしれない。真っ暗な病室に見知った顔が入ってきたような気がした。
「桔梗さん……? 」
薄目を開けると白い天井が見えた。周りは白いカーテンで仕切られているようだ。
病院……?
大部屋なのか、カーテン越しに話し声が聞こえる。意識が鮮明になり、自分の状況が理解できた。
なるほど、事故の後に病院に運ばれたのか。
身体を起こそうとして、お腹に咲夜の頭が乗っている事に気がついた。
付き添ってくれていたのだろうか。髪をそっと撫でようとして、途中で手を引いた。
起こすのは可哀想な気もしたが、腕を伸ばし咲夜の肩を揺する。
「咲夜、咲夜」
「……ん、あぁん、また、コンソメスープ? センスないわぁ」
「……咲夜、起きて」
「亮……おかわりは要らんから、お茶買うてきて」
「目を覚ませ」
面倒くさくなって、ほっぺたをつねる。
「いだだだだだ」
「起きた? 」
焦点の合わない目でこちらを見つめる。目を細めてこちらを見る。
「亮、起きたんか! 」
「なんか、迷惑をかけたみたいだね。ごめん」
「良かった……死んだかと思ったわ。白目剥いてるの見て、うっかりお経唱えてもうたわ。なむーってな」
「咲夜はクリスチャンだろ……」
「そう、やった。忘れとったわぁ」
そう言って、ころころと笑う。
起きて1秒で咲夜のエンジンがかかった。脱線する前に事情を聞いておく必要がありそうだ。
「咲夜、……雫はどうなった? 」
咲夜は怪訝な顔をする。
「まあ、助かった……みたいやで」
「江ノ島大橋には着いたんだよね? 」
「着いた。そしたら、末木さんから連絡きて、もう大丈夫や言われてな」
「そうか。雫には会った?」
「会うか、ボケ」
咲夜はプイッと顔を逸らす。
「まあ、大体の事情は聞いたで。あのロングへアのねーちゃんと、くせ毛のちびっこはARIAって言うんやな」
「うん……雫もね」
咲夜はこちらに顔を戻した。珍しく、真面目な顔をしていた。
「亮、雫とやらは目を覚ましてへん」
「えっ? 」
「高瀬さんが言っとったけど、まだ、亮に本来のお手伝いをしてもらってないって」
「仮想空間の雫を助けたのは……」
「あれは不測の事態ってやつや。ほんまは別の依頼があったみたいやで」
「それって……」
咲夜はくいっと首を振る。その先には高瀬さんがいた。
「席外そうか? 」
高瀬さんが軽く会釈をした。咲夜が立ち去るのを確認すると高瀬さんは、椅子に座り静かに話し始めた。
「雫が目を覚まさない理由は覚えている? 」
「確か、過学習に陥っているとか。それで……江ノ島や江ノ電の記憶を消さないといけない……でしたよね」
仮想空間は雫の記憶から構成されたものだ。つまり、まだ、記憶が消えていないということだ。
「あの仮想空間が雫が起きなくなった元凶の場所。私は江ノ電や江ノ島に気を取られすぎて肝心なものを見落としていた」
「何をですか? 」
高瀬さんは何かを話そうとしていたが、途中で口を結んだ。目を瞑り、一呼吸置いてから話し始めた。
「国道1号線から134号線のルート、あれは山内さんと雫が移動したルートで間違いない? 」
「あ、はい。間違いないです」
ただ、夕方だったのが少し引っかかっていた。
「134号線から脇道に入ったりは? 」
「していません」
高瀬さんは目を瞑り、うつむきながら話を続けた。
「なら、そこも含めて記憶を削除します」
「…………はい」
雫とは殆どの時間を大学と自宅、その近所で過ごしていた。だから、問題はないはず……だ。
でも、大事な思い出が消されると思うと少し悲しくなった。
「山内さんに一つお願いがあるの。江ノ島、江ノ電、鎌倉、134号線に雫を連れて行かないでほしいの」
「なんでですか? 」
高瀬さんの瞳は揺れていた。
「また、雫が思考のループに陥るからよ」
「分かりました。これで雫は目を覚ますんですか? 」
「ええ、調整に時間がかかるから、数日は待ってもらうけど」
「そうですか」
高瀬さんは何か隠し事をしている。深追いしても、何も話してくれないだろう。とりあえず、分かった振りをしておく。
しかし、本当に雫とそっくりだ。ため息をつく。
「変なこと聞いていいですか? 」
「何? 」
「高瀬さんも……ARIAなんですか? 」
突拍子な質問に高瀬さんの目が大きく見開いた。
「そんなわけないよ。山内さんはなんでそう思ったの? 」
「高瀬さんアバターの表情がリアル過ぎるし、敵の弾丸食らった時だって真っ青な顔してたし……」
高瀬さんはふっと息を漏らす。観念したような、諦めたような顔をしていた。
僕に背を向けて座り直したかと思うと、後ろ髪をかき上げて、うなじを見せてきた。
思わず、ドキッとしてしまった。
「な、なんですか? 」
「うなじの辺りをよく見て」
そう言われて、よく見ると角の取れた横長の四角い穴が空いていた。USBポートみたいだ。
「この四角い穴、なんですか?」
「脳と情報交換を行うための入出力端子よ」
髪を下ろすと、高瀬さんはこちらを向き直った。身体に入力端子? 冗談ではないのか?
「プロジェクトARIAの本当の目的はね、感覚の共有なのよ」
「かんかく? 」
「山内さんはパッキー好き? 」
「いえ、そんなには……」
高瀬さんは苦笑する。
「パッキーの味や特徴を私に正確に伝えて貰える? 」
「言葉で? 」
「そう、言葉で」
「細長い棒状のクッキーにチョコレートをコーティングしたもので、パキパキとした食感と塩味、チョコの甘さがマッチしたお菓子……です」
「それって、どう甘いの? 」
「どうって、まろやかな感じで……」
「まろやかって、どんな感じに? 」
「……人によるから、まろやかさを伝えるのは無理ですよ」
「そうね、だから私ならこうする」
そう言うと、高瀬さんは棚に置いてあったパッキーを一本手に取り、パキパキと食べ始めた。
「あっ、ずるい」
「ふふ、そうね。でも、合理的でしょ。言語では伝えることの出来ない感覚や質感をクオリアって言うの」
「クオリアですか? 」
高瀬さんは首肯する。
「生成AIを次のステージに押し上げるにはクオリアの学習が必要なの」
「もしかして、雫がアップデートで暑さや寒さを感じるようになったのって……」
「私の感覚をデータ化して、彼らに共有したのよ」
高瀬さんの瞳には揺らぎも澱みもなかった。ただ、真っ直ぐにそれが正しいことと信じている目をしていた。
だからこそ、僕は高瀬さんのことが怖くなった。自分の身体を実験台にしてまでARIAに心血を注ぐ理由はなんなのだろうか?
「なんでそこまで……」
「クオリアの共有が出来れば、ARIAだけではなく、医療の分野も大きく発展するから、難病の子供たちを救えるかもしれない」
そう言って、優しく微笑む。僕はそれが本当の目的であってほしいと願ってしまった。
「おかげでアバターも私の身体情報と完全に連動して、繊細な表現が可能になったのよ」
「なるほど、それで……」
「これが発表されれば、フルダイブ型のVRゲームハードも登場するかもね」
「さて、山内さん」
「はい?」
急に改まったような話し方をするので、背筋を伸ばしてしまった。
高瀬さんは厚みのある書類を僕の目の前に置いた。
「なんですか、これ」
「機密保持契約書よ」
「…………はい?」
「流石に秘密を話しすぎた。口外しない約束を明文化しておかないとね」
そう言うと、ニッコリと微笑む。
「これ、読まないと駄目ですか?」
「サインさえ貰えれば、読まなくてもいいわよ。あなたにとって都合の悪いことが書いてあるかもしれないけどね」
苦笑いしてしまった。
仕方なく、契約書に目を通す。今までに使ったことのない、読んだこともない言葉が書かれていて、頭が痛くなる。
高瀬さんが横でわからない箇所の説明をしてくれたので何とか理解はできた。
署名をして書類を返した。
「あの、中原美奈は……」
「見つかっていない。中原美奈は身寄りもないみたいで、ここに来る前は養護施設でお世話になっていたみたい」
「養護施設……」
「ええ、幼少の頃に実父からネグレクトを受けていたらしくてね……」
「そうですか」
話を聞いてどんよりとしたが、不思議と中原美奈に怒りや憎しみの感情は湧いてこなかった。
木崎さんが気に掛ける彼女が本当に悪いやつとは思えなかったからだ。
それから高瀬さんとこれからの事を少し話して、帰り際に雫が目を覚ましたら連絡すると高瀬さんには言われた。
***
気がつけば、消灯時間になっていた。病院は端的に言うと暇だ。
だから、ずっと気になっていた未解決問題の事を考えてしまった。木下に続き、中原美奈も行方不明という事実が偶然とは思えなかった。
だが、中原美奈はフェイクポルノ事件の被害者で木下は加害者だ。
でも、中原美奈からは被害者としての悲壮感や苦しみみたいなものを一切感じなかった。
彼女は一体、何故雫に執着するのだろうか?
駄目だ、思考がまとまらなくなってきた……。眠い。
夢を見ていたのかもしれない。真っ暗な病室に見知った顔が入ってきたような気がした。
「桔梗さん……? 」
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