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第1章3節 学園生活/楽しい三学期

断章:奔華麗月

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 イングレンスの旅人は、奔放で行き先知らず。自然の流れに身を任せ、行き当たりばったりの気まま旅。

 再び来たるこの春に、これまた自由な桜の花びら一枚。



 今回の旅の終着点は、とある浴槽の水面だった。




「……」



 彼は外からの訪問者に、そっと目を細めた。

 浴槽に預けていた背中を起こし、

 花びらを手に取ると、水から腕が引き上げられる音がする。



「……早いものだな。またしてもこの季節が来てしまった」



 男性らしい特徴のある、低く静かで、且つ明晰な声で彼は呟く。

 僅かに口角を上げて花びらに微笑み掛け、壁に描かれた月空に照らす。


 彼はそれを見つめ、満足そうに笑う。

 対する花びらは彼を見下ろすことになる。その白髪と黒い瞳は、触れようとするものならすぐにでも手が届きそうである。


 実に美しい男であった。



 彼は花びらを水面に落とすと、また浴槽に背中を預け、目を閉じて血管に感覚を集中させた。





「……さて。今日は何をするかな」


 浴槽から上がり、更衣室まで戻り、彼は身体を布で拭く。

 誰一人として邪魔の入ることのない、自分だけの時間。彼の気に入っている時間の一つである。



 その最中、聞き慣れた声が扉を通じ、くぐもりながら聞こえてきた。



「……我が主君よ。大事な言伝を伝えに参りました。ですがワタクシの視界には貴方様の姿は目に入りませぬ――」

「今風呂から上がったばかりで更衣室にいる。その場で構わない、言伝の内容を」
「ああ、麗しき我が主君よ。ワタクシは貴方様の拝命を承りました。『魔槍』への魔力補充が、つい先程完了致しましたことをご報告させていただきます」
「……ほう」
 

 逞しく引き締まった肉体が鏡に映る。それが踊り立っているように見えるのは、錯覚ではないのだろう。


「ローブを一着出しておけ。着替え次第すぐに向かう」
「ワタクシの支援は……必要でございましょうか?」
「君は先に行って警備をしていろ。あれに触れていいのは私だけだ……虫の一匹も入れさせるな」
「承知致しました」


 声の主が遠ざかっていく足音を聞きながら、彼は身の回りの準備を進めていった。





「ん……あのお方は参謀殿だな」
「珍しいな、城から出てくるなんて。俺久々に見たぞ?」


 黒布を元に身体を包み込むように仕立て上げられ、赤で模様が刻みこまれた、に所属する者に与えられるローブ。


「ああ、深淵卿様……貴方様の御姿を見られるなんて、わたくし……」
「もう、何でそんなにお熱なんだか」


 この模様は加入者の血を採取して描かれるらしいが、彼は殆ど忘れていることである。


「……ダリアの騎士。何故ここにいるんだ」
「さあね、ルナリス様にお呼ばれされたんじゃないのか?」


 何故なら彼のローブは、そのような方法で仕立てられていないから。黒とその濃淡で構成された、着用する者を闇で包み込むデザインに仕上がっているのだ。





 参謀殿、深淵卿、ダリアの騎士。

 それが全て自分に向けられている別称であることなぞ、彼は理解できていた。


 しかしそれらに突っかからないのは、彼には微塵も興味がないから。あるいは、今はそれどころではないから。

 血が、肉が、魂が。自身を自身として成り立たせている物全てが、との再会を今か今かと求めている。



 そうして、彼の瞳は遂に視界に捉えた。





「グオオオオオ!!! ワレ、アナタサマ、マッテタ!!!」


 獣の皮を被った、時代錯誤な戦士の大男。


「お待ちしておりました、愛しき我が主君よ」


 黒光りする鎧に身を包んだ、青年。


「御覧の通り、『魔槍』はかつての力を取り戻しております」


 扇動的な服装で、殺意を隠そうともしない荒涼とした女。


「……いつでもお手に取ることができますぞ」


 腰を曲げ顔に幾多の皺を浮かべた、醜い風貌の老人。




「……」



 歓声なぞ意味を成さない。彼の進む道には、たったこれだけの人がいればいい。


 淡々と通路を進む先にあったのは、



 複雑怪奇な魔法具であった。



「……あの連中も中々姑息な物を作る」



 八属性による魔術に、黒魔法による最終防壁。並の魔術師では、魔力構成は元より根幹構造すらも理解できないだろう。

 その中央には純黒の結界が張られ、何かを守るように畏怖を形にしたような波動を放っている。あるいは、彼に対して明確な敵意を示していた。



「……だがこんながらくた程度で、私が欺けるとでも思ったか」


 彼は臆することもなく、結界に手を触れる。


 多くの魔術師が積み上げたであろう、叡智の結晶。

 それを彼は、一呼吸する合間に全て崩壊させた。




「……ああ、懐かしい」



 結界が、魔法具が守るように命令されていた物は、一本の槍だった。

 それは艶めかしい黒色をしていた。全長は三メートル半程度、穂先は三十センチ。

 壊れた魔法具に、僅かに残った光を受けると、煩雑で恐厳な黄金の模様を浮かび上がらせる。



 さながらその様は、再び出会えた彼に対して、歓喜の感情を示しているようで。



「……私の元に戻ってきたのは何時以来になる?」


 
 彼は槍を両手に収めると、大層気分が良さそうに、それを撫でていく。







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――背中が憤りを感じ、蠢いた。



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――こんな気分の良い時に、邪魔者が現れたのだ。



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「チッ! こんな時に来やがって……!」


 慌てる青年の声を聞き流し、彼は後ろを振り向く。

 そして視界に入る、入り口から迫り来るそれら。


 憐憫、哀憐、憎悪、歓喜。見る人によって概念を変える深淵の使徒。

 けれども彼は臆しない。する余地すらない。


「下がれ」
「……っ。で、ですが……」



 青年の返答を聞くまでもなく。


 彼は槍を大きく振るい、正面を一気に薙ぎ払う。



          ――――――――





 距離にすると数メートル。それだけ距離が離れているのにも関わらず、


 たったその一薙ぎだけで、彼を含めた五人以外の存在は消滅した。




「……ふん」



「……ええ。非常に調子が良いですよ、ルナリス殿」



 彼は顔を上げて、使徒共の後ろから姿を現した男に呼びかける。




「……いやあ! 中々素晴らしいものだったよ! まさかあの数を一撃で葬り去るとはね!」


 冷や汗を垂れ流し、顔の筋肉は強張り。彼にそれが悟られているとも知らずに、ルナリスは部屋に入って彼に話しかける。


「あ゛!? てめえ奈落共を差し向けておいて何だその態度は!?」
「差し向けただと!? 私はだな、『魔槍』に触れる無礼者がいると思って――」
「それは我が主君だったわけだが? 結果的に差し向けたという事実には変わりないのだが?」
「グオオオオオオ!!! ワレ、キサマ、ユルサナイ!!!」
「さっさと謝罪の言葉を吐け」


 四人は次々とルナリスに詰め寄るが、


「……落ち着け。私が話をする」

「はっ……」
「申し訳ありません……」
「グオオオオオ……」
「出過ぎた真似をしてしまいましたな……」



 彼の言葉が塩となったようだ。全員が膝を折り、頭を下げた所で、彼がルナリスと対峙する。



「私もこの槍を早く見てみたかったのです。何せログレスの、ウィンチェスター遺跡……何も無いと思われていたあの場所から発掘された槍だ」

「それもこんな大仰な、暗い影を感じさせる装い……興味を惹かれないと言う方が無理があるでしょう」



「むぅ……お、お前の言うこともわからんではないがな……しかし、それは我々が……」
「先程の一撃をご覧になりましたか? 完全な力を得たこの槍は、あれ程までの一撃を放つことができる。それを扱い切れる人間が、私の他にいるとお思いで?」



「……た、確かに一理ある……気がするな……」
「そうでございましょう。ですのでこの槍は今後は私が保持するということで、よろしいですね?」
「ああ、構わん。その代わりちゃんと管理するんだぞ!」
「承知の上です。では、私はこれで」



 彼は至って涼しげな顔をしながら、ルナリスの横を歩いていく。


 残された四人も後をついていく。去り際にルナリスに向かって唾を吐きながら。





 部屋に戻ってきても、彼は槍から手を離さない。一人掛けのソファーにゆったりと腰かけ、今度は布を持ってきて懇切丁寧に磨いている。


 その隣では、鎧の青年が苦虫を噛み潰しながら右膝を激しく揺すっている。


「クソがぁ……あんの豚が……我が主君に盾突くなんて生意気なんだよ……」
「君もそれぐらいにしておけ。先程の件については私はもう気にしていない」
「はっ……貴方様がそう仰られるのなら、ワタクシはそれに従います」

「……ああ。君も数年前に比べると素直になったものだ」
「お褒めの言葉ありがとうございます。そしてこれも全て貴方様がワタクシに力をお与えになられたからでございます。貴方様には感謝をしてもしきれません」
「ふん……」


 そこで彼は、一瞬だけ手を止めて。


「その意気に免じて君に仕事を与えよう」
「!!!」

「とはいえまた調査だがな。何分まだ表立って行動できないものだから、君の好むような生きた人間にありつける仕事はまだ難しい」
「い、いえ……! 貴方様に仕事を頂いた、それだけでワタクシは幸甚の極みでございます!」

「そうか。では……行き先は南、エレナージュだ。特に王族近辺の動きを調べてくれ。それと一緒にドーラ鉱山も見れるようなら……だな」
「はっ! このワタクシ、貴方様のお望み通りの成果を挙げてきます故、期待してお待ちあそばされください!」


 そう言うと、青年は影が光に溶け込むように消えていった。





 春風が部屋に吹き込む。

 終末を思わせる黄昏が、空一面に広がっている。

 しかしそれはただの思い違いであると、イングレンスの世界は到底の間は終わることなく繁栄すると、空を旅する花びらが教えてくれる。




 彼は立ち上がり、バルコニーに出て東の空を見上げる。


 そこにはまだ白みがかった月が、ほんのりと浮かび出していた。




「……は一体何処で、この空を見上げているのだろうか……」



 間もなく夜がやってくる。奔放に行き交う華を、麗しい月が照らし出す――
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