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序章 桜の花びらが旅をする季節に

断章:幕を開ける世界

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 桜の木はイングレンスの世界中に生え、春になると各地で咲き誇る。

 何日か、何週間か咲き誇り、後は風に吹かれて空を舞う。

 さながらその姿は、未知なる空にも果敢に向かって行くようで。故に多くの人々が、桜の花びらを旅人と例えて嗜んできた。





 ある東からの花びらは、港で佇む少女を見かけた。

 その後やにわに吹いてきた潮風が、彼女の頬を撫でる。

 深緑の髪が揺れ、紫の瞳が閉じられた。くすぐったくて、彼女は思わず微笑みを零す。



「……はぁ」


 埠頭から水面を越しに、自分の姿を見る。決して着ることはないと思っていた、学生服と呼ばれるもの。

 それに着られている自分は、まるで水面よりも深い場所、沼の底に沈んでいるようで。


「おーい! カタリナちゃん!」



 彼女に近付く人影が一人。それを受けて、彼女の身体から姿を現す者が。ぴっちりと仕立てられたタキシードに身を包んだゴブリンだ。



「こっちにいたのか。いやあ、あっしとはぐれちまったんじゃねえかって、心配したんだわ」
「……」


「……あれ? 大丈夫?」
「お嬢様は極度の緊張状態にあられます。そう遠くない学園生活のことを考えておられるのでしょう」
「おうおう、そうかそうか……つっても、あっしも学園生活なんて知りようがないから、アドバイスもなーんもできねえ。すまねえ……」


 男性は申し訳なさそうに頭を掻いた。彼は至って普通の折り襟シャツにスラックスを着ているが、深緑の髪と紫の瞳の鮮やかさが目を引く。


「……悪く、ないです。ソールさんは……」
「いやいや……なあセバスン、カタリナちゃんのこと頼んだぞ? 本当にさ」
「承知の上でございます。不肖ながらわたくしセバスン、お嬢様のために身を捧げる所存でございます」



 どこからか船笛の音が聞こえてきた。それを受けて、三人は周囲を見回す。



「もしかしたらカタリナちゃんが乗り込む船かもしれねえ。受付に行こう、なっ?」
「……はい」
「大丈夫だって。人生はどうにでもなる! だから気楽に行きなせえ?」
「はい……」





「……ん」


 ある花びらは、煉瓦と石で作られた洒落た街並みを行き交い、

 路地裏で寝ていた少年の腹に落ちた。


「……」



 癖が付きまくった茶髪が特徴的な少年だ。それを見つめる瞳は、同様の茶色をしていた。

 彼は花びらを手に取り、じっと見つめる後に、また風に吹かせてやる。今日は心地良い風が吹いており、花びらはそれに乗ってよく飛んでいく。



「ふわあ……よく寝たなあ」

「……そろそろ時間かなあ」


 耳を澄ませると、せせらぎに乗って音が聞こえてくる。


「ああ……」


 この街で散々聴き慣れたこの音とも、暫しお別れ。聴き納めるように目を閉じ、そして歌う。




『十年後、二十年後、三十年後――』


 小刻みに振動し、所々雷鳴にも似た、迫力のある轟音。


『僕らはどんな風になっているのかな――』


 線のように真っ直ぐで、どこか平穏を与える重低音。


『素敵な人に出会っているかな、子供は何人生まれているのかな――』


 脈打つ鼓動のような、熱を内包した、反響する拍子の音。



 全てが心地良く、この肉体に溶け込んでくる。



「イザークちゃーん!? 何処にいるのー!? もうすぐ出航しちゃうわよー!?」
「私達からも渡す物あるからー! 早く戻ってきて頂戴なー!」



 甲高い女性の声を二つ聞くと、彼は身体を起こす。



「……これ持ってけ。オマエの身体で隠してくれや」


 指を鳴らして、全身が黒い布で覆われた人間を呼び出すと、

 近くに置いてあった黒く長い物体を、彼に投げ渡す。


「……行こうぜサイリ。もうすぐこの街ともおさらばだ」





 北の雪が積もる島々に舞う桜が見たのは、大きな屋敷か施設のような建物の前で、大勢の子供達に囲まれる少女であった。


「お姉ちゃん行かないで……! やっぱり、さみしいよう……」
「だめだよ! お姉ちゃんは行かないといけないんだから!」
「そういうあんただって泣いてるじゃない! ぐすん……」
「そ、そりゃあ、さみしいに決まってるでしょ……!」


「うん、うん、寂しいよね……私だって寂しいよ……でも我慢するから、皆も我慢しよう! ねっ?」
「「「うわああああん……!」」」



 胸程まである薄茶色の髪をポニーテールに纏め、雲が溶け込んだ空のような、水色の瞳が輝いている。彼女は小さい子供にとても好かれていた。



「……はいお姉ちゃん! お守りだよ!」
「みんなで作ったの! お姉ちゃんがたくさんのお友達できますようにって!」
「ありがと~! 私いーっぱいお友達作るね!」


「スノウにもあげる! はい!」
「ありがとうなのです!」
「お姉ちゃんのこと、まもってあげるんだよ! ちっちゃい雪だるまって、ばかにされないようにね!」
「がんばるのです!」



 足元にはマフラーを巻いて厚着をした、少女の膝程の身長しかない少女が、ぴょんぴょん飛び跳ねている。大きい子供も、皆が新たなる旅立ちを祝福している。



「リーシャ。向こうに行っても元気でやるんだぞ」
「そんな、今生の別れじゃないんだから。長い休みになったら戻ってくるよ!」
「ええっ、そんなことできるの? 学園生活って忙しいんでしょ?」
「頑張って時間を作りまーす! できたらだけど!」


 渡された物を鞄に入れると、最後に修道服に身を包んだ妙齢の女性が話しかけてくる。


「リーシャ……無理だけはしないように。貴女は頑張りすぎてしまうきらいがあるから……」
「シスター……メアリーさん。うん、大丈夫だよ」
「何かあったらいつでも戻ってきていいんですからね。貴女は皆の家族で、私の娘で、この孤児院の一員なのですから」
「ありがとう……ありがとう、ございます!」



 数歩後ろに下がって、慣れ親しんだ建物を視界に収めて。



「では、行ってきます!!」
「いってきます!! なのです!!」



 いってらっしゃいという声と昇る太陽、白く輝く大地に積もる桜に見送られて、少女は走り出していった。





 大陸の遥か西、岩が剥き出しになっている地方にも、桜の木は誇らしげに立っている。

 その花びらは、自分を見上げる一人の少年を見ていた。



 くりくりとした緋色の瞳が、じっと見上げている。この桜を美しいと思って、見つめているのだろう。

 そこにこんどは黒い子竜がやってきて。


「よぉ、こんなとこにいたのか。どうしたんだ?」
「グルゥ……」
「へえ、花とかが好きなのか。意外だわ」
「……」


「お、おい? 何だその目は? 俺何かやばいこと言っちまったか?」
「ごめんね。ルシュドはそういう偏見持たれるの嫌いなんだよ、ジャバウォック」



 ピンク色の髪に黄色い瞳の少女が、これまたピンク色の猫を引き連れて、少年の所にやってくる。



「むぅ、それはすまねえ。ナイトメアなのに情けねえことをしちまった」
「まあ出会って数週間なんだし、気にしなくていいよ! それよりも!」
「ガルッ?」


 少女は少年の隣にどんと構える。目元の辺りがよく似ている二人であった。

 だが少女は鱗や爪が生えていて、およそ人間とは思えない風貌なのに対して、少年の見た目は人間のそれである。


「いいか、魔法学園で何言われても気にすんなぁ。それでも気にしちゃうことがあったら、姉ちゃんに手紙寄越せぇ。全力で励ましてやっからな!」
「グルルルル……グッ、グルルゥ」
「ん? どしたぁ?」


「……ありがと、るか、ねえちゃ」
「あはは、今の内から帝国語の勉強? 熱心だね~!」



 少女はわしゃわしゃと少年の髪を撫でる。紺色のツンツン頭が、若干ではあるがよれてしまったが、すぐに元通りになった。



「ニャァン……」
「そうだそうだよチェシャ、こっち来た用事! 竜賢者様がね、荷物の準備終わったって! だから行こう!」
「……うん、わかった」
「よーし、じゃあしゅっぱーつ!」


 二人の若者を見送った後、桜の花びらも木から離れ、旅に出たのだった。





 全ての花びらは旅をすると言われているが、とはいえ気分という物がある。

 大陸の北方、ある屋敷の前に咲いている桜の花びらは、まだ旅立つ気分ではなかったようだが、無理矢理叩き起こされることになった。

 というのも、狼の耳と尻尾と爪を持つ少女が、自分の生えている木に向かって殴りかかっているからである。



「クラリア……何をやっているんだお前は……」


 屋敷から出てきたのは、こちらも狼の特徴を持つ少女。しかし身長は小さく、どこか幼さが残っている。


「クラリス! 何って、訓練してた! 木を殴って力をつけていたぜ!」
「殴られる木の気持ちになれ。出立の準備を全部私に任せるな。言いたいことは以上」
「ぶー! つまんねー奴だなー!」
「私はナイトメアとしてお前の生活を見守るという義務がだな……」
「ナイトメアとしてアタシの命令に従いやがれー!!」



「……ぷっ、あはは。早速振り回されているね」


 幼女の後ろから、少女によく似た青年が近づいてくる。彼も同様に、耳に尻尾に爪と狼の特徴を有していた。


「クライヴ様……貴方はこれでいいんですか」
「僕は構わないし、父上だってそう思っておられる。クラリアはクラリアの好きなようにやるといいさ」
「やったー!! イヴ兄に褒められたぜー!!」
「褒めてないだろ今のは!」


「そういえば、港までの馬車はあと三十分で到着するみたいだよ」
「何だと!? おいクラリア、準備を急ぐ――」
「うおおおおお!! 打ち込み百発だぜ!!」
「こいつは!! 本当に!!」
「にゃあああああ!!」



 幼女に引っ張れていく少女。やや面白味のある光景を見て、花びらはこれでもいいかと、旅に出てしまったことを前向きに捉えることにしたのだった。





 桜以外にも、この季節には植物が顔を覗かせる。特に多くの木々が葉を付かせ、風に靡いて空を彩っていく。

 自然豊かな町に生えている桜は、そうした他の植物達と共に、眼下を行き交う少年少女を眺めていた。


「ハンス様、おはようございます!」
「ああおはよう。今日もいい天気だねえ。まるできみの笑顔みたいだ」
「そんな……あっ」
「ハンス様、今日はサンドイッチを作ってまいりましたの。よかったらご試食になられまして?」
「ふふ、有難く受け取らせてもらうよ」



 薄いクリーム色の髪を小綺麗に纏めた、糸目の生徒が大勢の女子生徒に囲まれながら道を歩いている。


 何て温厚そうな少年なのだろうと、花びらが思ったのも束の間、



「――ねえ、そこをどけてくれるかな、人間」


 少年の態度が豹変し――

 先を行っていた生徒を飛ばす。



 文字通り風の魔法で飛ばしていった。当然だが、喰らった生徒は大怪我では済まされない。



「まあ、何て無礼な人間共だこと! ハンス様の行く道を邪魔するだなんて!」
「ふん、人間は土を舐めているのがお似合いね!」



「どうした――ってああ、ハンスか。早くこっち来いよ、こんな猿共に構ってないでさ」

「……言われなくてもそのつもりさ」





 あんな態度では、前途多難という言葉が似合うだろう。少年もそれに関わる人々も。

 せめてもの情けで、花びらは旅立って彩りを飾る。





 ある砂漠の町では、自生している植物は一部に限られている。椰子の木、芝生、生垣。故に桜の花が咲くと、人々は我先にと花びらの旅立つ様を見届けるべく尋ねるのだ。


 今日もそんな人々が去った後、ぽつりと一人の少女が桜の下を訪れた。



「……」



 瓶底眼鏡の奥から黄緑の瞳が見つめてくる。明るい茶色のショートカットで、腰に右手を当ててじっと見上げていた。



「……懐かしいな」

「五歳の誕生日。砂嵐の中を、ワタシを庇いながらここまで来たわよね。着いた時にはローブの中に砂が溜まって、洗い流すのに苦労したっけ」

「それも全て桜を見せるために。そう、こんな綺麗な――」



 両腕を広げて伸ばす。


 落ちてくる花びらを受け止めるように。


 されど全て、伸ばした間をすり抜けていき――



「……」


 少女が気配を感じて背後を振り向くと、そこには妖精が浮いていた。

 目元まで前髪で隠れてしまって、表情は読み解けない。大きい花を手に持ち、何かを伝えるようにくるくる回す。


「……そうね。そろそろ行きましょうか、サリア……サリア」


 二度名前を呼ばれた妖精は、ほんのりと笑う。


「ワタシは……サラは頑張るから。空の上から見守っていてね、母さん」





 一般的に木は数百年は生きるものである。それは海を越えた西の大陸にある、とある貴族の家に生える桜も例外ではないのだが。


「……くそ……」


 心躍る春という季節に、ここまで肩を落とす人間というのは、数百年の中で始めて見た。




「……」
「……貴様。俺を励ましているつもりか?」
「!」


「はは……主君思いなのだな」
「♪」
「当然の義務か……シャドウ、貴様はよくできたナイトメアだよ」



 細身の眼鏡をかけた、黒髪の七三分けの少年。暗い青色の瞳からは涙が流れているようにも見える。幹に手を押し当て、その視線を地面にじっと向けていた。

 彼の隣にいたのは、彼と瓜二つの少年。眼鏡をかけていないのが唯一の違いだが、

 少年の姿から鳥、精霊、果てには自分達と違わぬ花びらに姿を変え、どうやら彼の気を紛らわしているようだった。



 すると、変身されていた少年の肩が突然ぴくっと震える。



「兄上!」
「……」
「こちらにいらしたのですね、兄上。出立の準備はよろしいのですか?」
「……ウィルバート。父上も……」



 声をかけてきた、恐らく少年の弟と思われる彼は、艶々とした黒髪に暗い青の目をしていた。身長がもう少し高ければ少年と見間違えるだろう。


 弟に連れ添っていたのは縮れた黒髪の男性。皺も数本あって温厚そうな印象だ。少年が父上と呼んだのは彼だろう。


 花びらに姿を変えていた少年は知らぬ間に少年の影に潜んでいた。そして潜まれた少年は重々しく口を開く。



「……昨日のうちに終わらせておいたので、何時でも出立できます」
「そうか、そうか。相変わらずお前は用意がいいな、ヴィクトール」
「……」

「その分なら海の向こうに行っても上手くやっていけるだろう……心配することはない」
「兄上、ケルヴィンに戻ってきたら沢山お話聞かせてくださいね。僕がこっちで学んだことと擦り合わせて、素敵な学びを得ましょう!」
「……!」


 弟の純粋に煌めく瞳を、彼は忌避しているようだった。


「そうだ兄上! 今街に露天商が来ているんですよ! 出立前の思い出作りです、一緒に見に行きませんか?」
「……そうだな。暫くは会えないだろうし、見ていこうか……」
「ありがとうございます兄上! 僕は先に向かってますね!」



 はしゃぎまわる幼子のように、弟は駆け出していく。少年はすぐに追いかけず、父と呼んだ彼を見つめ、言葉を待っていた。



「……ヴィクトール」
「……はい」

「色々と思う所はあると思うが」
「……」

「自分ができることを、精一杯やりなさい。私からはそれだけだよ」
「……承知しました」



 その言葉は彼の心にどう響いたのだろう。

 花びらはもう少し、それを見ていたいと思ったが、時間切れ。

 風に煽られ、旅立つことを余儀なくされていった。





 人が違えば桜も違う。咲く姿もその意味も。

 けれども一つだけ言えることは、桜が咲き誇り散っていく様は、新しい世界の幕開けを知らせるということだ。

 まるで舞台のカーテンが上がり、物語が始まっていくように――
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