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正直者と嘘つき
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宿に戻るとプリネに泣きながらお説教をされてしまいました。
公子は私の姿がないことに誰よりも早く気が付いて、誰よりも必死に探されていたのだといいます。
「ですから勘違いではないかと申し上げたではないですか!ルーイン様は以前と変わらずお嬢様を愛していらっしゃるんです!そうでなければ何時間も街を駆け回って聞き込みをなさったり、自ら川底をさらったりなさいません!」
「……」
プリネはそう言いましたが、公子への不信感が拭えない私は本当にそうなのだろうかと勘繰ってしまいます。
ご自身が連れ出した先で婚約者が行方不明になったと世間に知られたら、浮気が明るみに出るどころか厄介払いをしたと疑われてしまうのを恐れたからなのではないでしょうか。
もしくは私に浮気はしていないと信じ込ませるためにしたのだとも考えられます。
エクレールさんの指摘した通り、私は彼に対して過剰なほど疑心暗鬼になっていました。
私が逃亡を図ったからか、ノワイオ以外の街に宿を取る以外の目的で立ち寄ることはありませんでした。
その代わり馬車の中で公子に退屈しのぎという名目でわけのわからない質問をされます。
「目の前に3匹の動物がいる。全く嘘をつかないオオカミ、常に嘘をつくキツネ、時々嘘をつくタヌキだ。それぞれ人間に化けていて、外見からではどの動物なのかわからない。この3人の名前を、リタ、ルーン、プリネとしよう。ここまではいいか?」
「…はい」
「それじゃあ続けるよ。3人はそれぞれこう言っている。リタは『私はオオカミではありません』。ルーンは『私はキツネではありません』。プリネは『私はタヌキではありません』――それぞれの言い分から誰がどの動物かを当ててみてくれ」
「……」
「うーん…なんだか簡単なようで難しいですね……ヒントはないのですか?」
何故か車内にはプリネも一緒です。
私の隣に座って、この不可思議な質問を楽しんでいます。
「ヒントは出せないけど問題は何度でも言ってあげるよ」
「それじゃあもう一回お願いできますか?」
「いいよ。目の前に…」
プリネは真剣な顔をして答えを考え、時折一人で頷いてもいましたが、私は何度聞いてもわかりませんでした。
「答えは出た?」
「はい!」
元気に答えたプリネと違って私は全く検討もついていませんでしたが、彼女に倣って首を縦に振ってみせます。
「それじゃあ答え合わせをしようか。正解は、リタがタヌキ、ルーンがキツネ、プリネがオオカミだよ」
「やった!私、全部当たっていました!」
「プリネはこういうのが得意なんだな。リタはどうだった?官僚の登用試験にはこれと似たような問題が出題されるんだ。意外と面白いだろう?」
「……」
にこにこと笑いかけてくる公子に困惑顔を向けると、彼は丁寧に解説してくださいました。
それぞれの発言に注目して、矛盾がないかどうかを一人ずつ検証していけば正解に辿り着けるようです。
少し頭を使いますが、答えがわかると確かに面白いかも知れません。
「リタは寮で何人かのご令嬢と同室だったそうだね。ヴェロニカ嬢と、他はどこのご令嬢だったの?」
「…アリアンナ・シュクリー男爵令嬢と、ナタリア・ビスコット子爵令嬢です」
同室のご令嬢のことはお手紙に何度も書いたはずなのですが、忘れてしまわれたのでしょうか。
不審に思いながらも質問に素直に答えると、公子は知らないふりをしているのかそうではないのか、「4人部屋だったんだね」と興味ありげに合いの手を入れました。
彼の目は嘘を吐いているようには見えませんでしたが、実際のところはわかりません。
もしかして一度もお手紙を読まれていないのでしょうか…?
私がフィニッシングスクールに入学した頃にはもうオーロラ嬢に心を傾けられていて、私の手紙には興味がなかったということでしょうか?
この何気ない会話の中で、お返事をあえて書かなかったのではなく、内容を知りようがないから書けなかったという可能性が新たに浮上しました。
いずれにしても腹立たしいことには変わりありませんが。
「それじゃあ次はそのご令嬢達の名前を借りよう。登場人物は4人だ。リタ、ヴェロニカ、アリアンナ、ナタリア。この4人のうち3人は嘘をつかない正直者、1人は嘘つきだ。その1人を当てる問題だよ。よく聞いていてね」
「……」
「リタは、『ナタリアは嘘をついていません』と言っている。ヴェロニカは、『アリアンナは嘘をついています』と言っている。アリアンナは、『リタは嘘をついていません』と言っている。ナタリアは、『ヴェロニカは嘘をついています』と言っている。――さて、この4人のうちの誰が嘘をついていると思う?」
「えぇ…?なんだか先程のより難しいですよ…」
「登場人物が多い分複雑に思えるだけだ。さっきみたいに一つ一つ順番に考えていけば答えを出せるよ」
「ヒントは…ありませんよね」
「そうだね。でも問題は何度聞いても構わないよ。2人で協力して解くといい。答えがわかったら教えて」
そう言って、公子は悠々と読みかけの本を開きました。
流石のプリネもこの難問にうんうん唸って眉を寄せています。
プリネとあれやこれやと意見交換をしているうちに、私達を乗せた馬車は関所を通り抜けて王都に入りました。
到着したのは公爵家の別邸ではなく、なんと公子がご自身で建てられた大きな洋館でした。
数ヶ月前に工事を終えたばかりの新築で、2階の窓からでも王宮を囲う門がはっきりと見えます。
「別邸よりも楽に通勤できる場所が良くてね。これで毎日帰って来られるよ」
ここは通勤に使う為だけに建てた家ということでしょうか?
それにしてはお部屋の数も多く、お茶会を催せるサロンや広いお庭もあって、本邸とほとんど変わらないように思えます。
こんなにお部屋があるのに何故か寝室は1つで、中へ入ると一組のソファセットの奥に巨大な天蓋付きのベッドがありました。
「ふたりで寝ても転げ落ちないようにベッドは大きいものを造らせたんだ。気に入ってくれた?」
公子は平然とした顔で言い放ちましたが、私はぶんぶんと首を横に振りました。
結婚前の男女が褥を共にするだなんて褒められたことではありません。
「私は客間で休みます」
「何を言ってるんだ?女主人が主寝室を使わないでどうするの。この部屋は君と僕とで使うんだよ」
「ですが…」
「安心して。僕は式を挙げるまで君に不埒な真似はしない。約束する」
不埒な…というのは、夫婦の契りという意味ですよね…?
結婚する気がないのですから当然と言えば当然かと思うのですが、それなら同じベッドで眠る必要もないのでは?
「リタ…よく聞いて。ルーイン・カスティーリはリターシャ・グラスフィーユと結婚する。リターシャ・グラスフィーユは、ルーイン・カスティーリと結婚する。それは何があろうと変わらない事実だ」
「……」
「君がそう信じられるようになるまで、毎日言うからね」
私と瞳を真っ直ぐに合わせて、公子が静かに繰り返します。
初めは耳を塞ぎたくなるほどの不快感がありましたが、不思議なことに何度も言われているうちに慣れてしまい、ひと月が経つ頃には何とも思わずに聞き流せるようになっていきました。
10日間の休暇を終えた公子は、私が起きるよりも早くに家を出られて日付が変わった頃に帰ってきます。
オーロラ嬢と遊んでいるからこんなに帰宅が遅いのかと思いましたが、使用人達は「帰って来られるだけ奇跡」と口を揃えます。
公子はどんなに疲れた顔をしていても私には穏やかに微笑んでくださり、お休み前のジンジャーティーも毎晩欠かさず淹れてくださいます。
「きっとお嬢様が待っていると思って早くお仕事を終わらせようと頑張っていらっしゃるんですよ」
「…そうかしら。そう思わせようとしているだけかも…」
「お嬢様…そろそろルーイン様を信じて差し上げてもいいのではありませんか?これではルーイン様がお可哀相です」
「……」
そうは言われても浮気の疑惑が拭えないのですから信じられるはずがありません。
公子がオーロラ嬢との関係を否定したのはパーティーの時だけで、あれ以降彼女の話が話題に上ったことはありません。
ノワイオの街では『女性とふたりきりで出かけたことはない』と話していましたが、彼女と旅行をしたことや結婚の約束をされたことについては何の弁解もされていませんし、自ら誤解を解こうとする気持ちもないようでした。
これでは認めたも同然だと思うのですが、公子の私に対する振る舞いが確信を持たせてくれません。
プリネは彼を完全に信用しきっていて、勿論このお屋敷にいる使用人達も全員彼の味方なので、私はいま大勢を相手に一人で戦っている状態です。
不貞を働いたのは公子なのに、このままでは私の方が悪者にされてしまいます。
やはりいつまでも逃げてばかりではいられないようです。
――曖昧なことを曖昧にしたままじゃ正しい答えは出せないわよ。自分がラクな方を選ぶだけだもの。
(ええ…そうです。私は私が楽な方を選んでいました。信じるよりも疑う方が簡単でしたから…。絶望するのが恐ろしくて、彼の声から耳を塞いでいたかったんです)
エクレールさんの言葉を思い出した私は、真実と向き合う覚悟を決めました。
その夜、紅茶のセットを持って寝室にやって来た公子に「職場を見学してみたい」と話すと、彼は快く承諾してくださいました。
「リタが僕に興味を持ってくれて嬉しいよ。いつがいいかな…今は国政会議の準備で慌ただしいから2週間後くらいでもいい?」
会議を理由にしてまた時間稼ぎをするのでは?
そう思いましたが、それなら私が行きたいと言った時点で難色を示したはず。
私は疑いたくなる気持ちを抑えてその時を待ちました。
半月後、公子は約束どおり私を王宮に連れて行ってくださいました。
壮大な門の内側には様々な花や草木、女神を模した石像、噴水などで彩られた華やかな庭園が広がり、その先には燦然と輝く豪華絢爛な御殿が待ち構えています。
そのあまりの輝きに圧倒されてしまい、馬車を降りる頃には私の体は緊張で少し強張っていました。
公子は慣れた様子で中を案内しながら、あれは何だとかあの場所はどうだとか詳しく説明をしてくださいます。
そのお陰で少しずつ気持ちは解れていきましたが、目的地に近付くにつれて先程とは違った緊張感が生まれて来ました。
ついに政務を行うための離宮へと足を踏み入れると、思いの外人が行き交う廊下で書類を小脇に抱えた一人の男性と出会いました。
「ルーイン!どうかしたのか?今日は非番のはずだろ?」
声をかけてきたのは公子よりも背が林檎1つ分ほど低く、赤銅色の髪を短く切り揃えた誠実そうな印象の方でした。
「そうだけど、用事があってね」
「ところでそちらの女性は?」
「僕の婚約者だ。今日は彼女に仕事場を見せに来たんだよ」
「え?!」
彼は私の正体を知ると、丸眼鏡の奥に見える栗色の目を真ん丸に見開きました。
そして何か都合の悪いことがあるかのように眉を顰めて公子に歩み寄ります。
「婚約者って…いいのか?噂になるぞ」
「状況が変わったんだ。――リタ、彼が僕の友人のディラン・ダリオルだよ」
おふたりで何やら囁き合った後、公子は私を振り返って隣に来るように促しました。
流れるようなカーテシーをした後、にこやかに微笑みます。
ご挨拶の作法はフィニッシングスクールで何度も練習しました。
「リターシャ・グラスフィーユと申します。ディラン様のお噂はかねてより伺っております。お目にかかれて嬉しく思います」
「ご丁寧にありがとうございます。ディラン・ダリオルです。ルーインとの付き合いはパブリックスクール時代からなのでかれこれ10年近くになりますね。今は外務部で書記官をしています」
数多の貴族令嬢から眉目秀麗と賛される公子と比べてしまうとどうしても外見は素朴な印象を受けてしまいますが、彼の笑顔や纏う雰囲気はとても朗らかで、公子に負けず劣らずの好青年です。
家族やカスティーリ公爵家以外の男性とこうして挨拶を交わしたのは恐らく初めてで、慣れないことに胸がどきりと高鳴ります。
すると何を思ったのか、公子がさり気なく肩を抱き寄せてきました。
驚く私に優しく微笑みかけますが、手を離そうとはしません。
それを目にしたディラン様はやれやれといった様子で苦笑いを浮かべました。
「つかぬことをお伺いしますが、リターシャ嬢はアリアンナ・シュクリーという女性をご存知ですか?」
「ええ…アリアンナ様は私の友人です。フィニッシングスクールの寮ではお部屋がご一緒でした」
「やはりそうでしたか。貴女のことは彼女からよく聞いています。彼女は僕の婚約者なんです」
「まあ…!」
公子のご友人がアリアンナ嬢のご婚約者だったなんて、なんという偶然でしょうか。
そういえば彼女は、『王宮に勤めている』『伯爵家の三男』とお付き合いをすることになったとお話されていました。
「ご婚約おめでとうございます。ご結婚も間近だと伺いました」
「ええ、ありがとうございます。僕自身もまさかこんなに早く彼女と結婚できるとは思いませんでした。彼女は僕の運命の女性なんです。上手くいくように協力しくれたルーインには感謝しています」
「…そんなことはわざわざ言わなくていいんだよ」
「本当のことなんだから別に構わないだろ?」
悪戯っぽく笑うディラン様に、公子は恨めしいような視線をぶつけます。
彼は恥ずかしい思いをすると時々こうした反応を見せることがあるので、きっと思いがけない言葉を貰えたことに照れているのでしょう。
ディラン様は婚約者のいる公子にアリアンナ嬢のことをご相談をなさり、公子の助言通りに手紙を送ったり贈り物をしたり、デートを重ねていたら自然と上手く事が運んだのだと声を弾ませます。
そういう手管でオーロラ嬢のことも口説き落としたのでしょうか。
「あ…すみません、つい話し込んでしまいました。僕はそろそろ職務に戻ります。本当はもっとお話していたいんですが、上司が秒針に煩いお方で。後で僕も執務室に行く用事があるのでまたお会いするかもしれませんね。――それじゃあまたな、ルーイン」
ディラン様はそう言って片手をひらつかせて去っていきました。
途中からお話に夢中になって忘れていましたが、私はあれからずっと公子に肩を抱かれたままでいました。
公子は私の姿がないことに誰よりも早く気が付いて、誰よりも必死に探されていたのだといいます。
「ですから勘違いではないかと申し上げたではないですか!ルーイン様は以前と変わらずお嬢様を愛していらっしゃるんです!そうでなければ何時間も街を駆け回って聞き込みをなさったり、自ら川底をさらったりなさいません!」
「……」
プリネはそう言いましたが、公子への不信感が拭えない私は本当にそうなのだろうかと勘繰ってしまいます。
ご自身が連れ出した先で婚約者が行方不明になったと世間に知られたら、浮気が明るみに出るどころか厄介払いをしたと疑われてしまうのを恐れたからなのではないでしょうか。
もしくは私に浮気はしていないと信じ込ませるためにしたのだとも考えられます。
エクレールさんの指摘した通り、私は彼に対して過剰なほど疑心暗鬼になっていました。
私が逃亡を図ったからか、ノワイオ以外の街に宿を取る以外の目的で立ち寄ることはありませんでした。
その代わり馬車の中で公子に退屈しのぎという名目でわけのわからない質問をされます。
「目の前に3匹の動物がいる。全く嘘をつかないオオカミ、常に嘘をつくキツネ、時々嘘をつくタヌキだ。それぞれ人間に化けていて、外見からではどの動物なのかわからない。この3人の名前を、リタ、ルーン、プリネとしよう。ここまではいいか?」
「…はい」
「それじゃあ続けるよ。3人はそれぞれこう言っている。リタは『私はオオカミではありません』。ルーンは『私はキツネではありません』。プリネは『私はタヌキではありません』――それぞれの言い分から誰がどの動物かを当ててみてくれ」
「……」
「うーん…なんだか簡単なようで難しいですね……ヒントはないのですか?」
何故か車内にはプリネも一緒です。
私の隣に座って、この不可思議な質問を楽しんでいます。
「ヒントは出せないけど問題は何度でも言ってあげるよ」
「それじゃあもう一回お願いできますか?」
「いいよ。目の前に…」
プリネは真剣な顔をして答えを考え、時折一人で頷いてもいましたが、私は何度聞いてもわかりませんでした。
「答えは出た?」
「はい!」
元気に答えたプリネと違って私は全く検討もついていませんでしたが、彼女に倣って首を縦に振ってみせます。
「それじゃあ答え合わせをしようか。正解は、リタがタヌキ、ルーンがキツネ、プリネがオオカミだよ」
「やった!私、全部当たっていました!」
「プリネはこういうのが得意なんだな。リタはどうだった?官僚の登用試験にはこれと似たような問題が出題されるんだ。意外と面白いだろう?」
「……」
にこにこと笑いかけてくる公子に困惑顔を向けると、彼は丁寧に解説してくださいました。
それぞれの発言に注目して、矛盾がないかどうかを一人ずつ検証していけば正解に辿り着けるようです。
少し頭を使いますが、答えがわかると確かに面白いかも知れません。
「リタは寮で何人かのご令嬢と同室だったそうだね。ヴェロニカ嬢と、他はどこのご令嬢だったの?」
「…アリアンナ・シュクリー男爵令嬢と、ナタリア・ビスコット子爵令嬢です」
同室のご令嬢のことはお手紙に何度も書いたはずなのですが、忘れてしまわれたのでしょうか。
不審に思いながらも質問に素直に答えると、公子は知らないふりをしているのかそうではないのか、「4人部屋だったんだね」と興味ありげに合いの手を入れました。
彼の目は嘘を吐いているようには見えませんでしたが、実際のところはわかりません。
もしかして一度もお手紙を読まれていないのでしょうか…?
私がフィニッシングスクールに入学した頃にはもうオーロラ嬢に心を傾けられていて、私の手紙には興味がなかったということでしょうか?
この何気ない会話の中で、お返事をあえて書かなかったのではなく、内容を知りようがないから書けなかったという可能性が新たに浮上しました。
いずれにしても腹立たしいことには変わりありませんが。
「それじゃあ次はそのご令嬢達の名前を借りよう。登場人物は4人だ。リタ、ヴェロニカ、アリアンナ、ナタリア。この4人のうち3人は嘘をつかない正直者、1人は嘘つきだ。その1人を当てる問題だよ。よく聞いていてね」
「……」
「リタは、『ナタリアは嘘をついていません』と言っている。ヴェロニカは、『アリアンナは嘘をついています』と言っている。アリアンナは、『リタは嘘をついていません』と言っている。ナタリアは、『ヴェロニカは嘘をついています』と言っている。――さて、この4人のうちの誰が嘘をついていると思う?」
「えぇ…?なんだか先程のより難しいですよ…」
「登場人物が多い分複雑に思えるだけだ。さっきみたいに一つ一つ順番に考えていけば答えを出せるよ」
「ヒントは…ありませんよね」
「そうだね。でも問題は何度聞いても構わないよ。2人で協力して解くといい。答えがわかったら教えて」
そう言って、公子は悠々と読みかけの本を開きました。
流石のプリネもこの難問にうんうん唸って眉を寄せています。
プリネとあれやこれやと意見交換をしているうちに、私達を乗せた馬車は関所を通り抜けて王都に入りました。
到着したのは公爵家の別邸ではなく、なんと公子がご自身で建てられた大きな洋館でした。
数ヶ月前に工事を終えたばかりの新築で、2階の窓からでも王宮を囲う門がはっきりと見えます。
「別邸よりも楽に通勤できる場所が良くてね。これで毎日帰って来られるよ」
ここは通勤に使う為だけに建てた家ということでしょうか?
それにしてはお部屋の数も多く、お茶会を催せるサロンや広いお庭もあって、本邸とほとんど変わらないように思えます。
こんなにお部屋があるのに何故か寝室は1つで、中へ入ると一組のソファセットの奥に巨大な天蓋付きのベッドがありました。
「ふたりで寝ても転げ落ちないようにベッドは大きいものを造らせたんだ。気に入ってくれた?」
公子は平然とした顔で言い放ちましたが、私はぶんぶんと首を横に振りました。
結婚前の男女が褥を共にするだなんて褒められたことではありません。
「私は客間で休みます」
「何を言ってるんだ?女主人が主寝室を使わないでどうするの。この部屋は君と僕とで使うんだよ」
「ですが…」
「安心して。僕は式を挙げるまで君に不埒な真似はしない。約束する」
不埒な…というのは、夫婦の契りという意味ですよね…?
結婚する気がないのですから当然と言えば当然かと思うのですが、それなら同じベッドで眠る必要もないのでは?
「リタ…よく聞いて。ルーイン・カスティーリはリターシャ・グラスフィーユと結婚する。リターシャ・グラスフィーユは、ルーイン・カスティーリと結婚する。それは何があろうと変わらない事実だ」
「……」
「君がそう信じられるようになるまで、毎日言うからね」
私と瞳を真っ直ぐに合わせて、公子が静かに繰り返します。
初めは耳を塞ぎたくなるほどの不快感がありましたが、不思議なことに何度も言われているうちに慣れてしまい、ひと月が経つ頃には何とも思わずに聞き流せるようになっていきました。
10日間の休暇を終えた公子は、私が起きるよりも早くに家を出られて日付が変わった頃に帰ってきます。
オーロラ嬢と遊んでいるからこんなに帰宅が遅いのかと思いましたが、使用人達は「帰って来られるだけ奇跡」と口を揃えます。
公子はどんなに疲れた顔をしていても私には穏やかに微笑んでくださり、お休み前のジンジャーティーも毎晩欠かさず淹れてくださいます。
「きっとお嬢様が待っていると思って早くお仕事を終わらせようと頑張っていらっしゃるんですよ」
「…そうかしら。そう思わせようとしているだけかも…」
「お嬢様…そろそろルーイン様を信じて差し上げてもいいのではありませんか?これではルーイン様がお可哀相です」
「……」
そうは言われても浮気の疑惑が拭えないのですから信じられるはずがありません。
公子がオーロラ嬢との関係を否定したのはパーティーの時だけで、あれ以降彼女の話が話題に上ったことはありません。
ノワイオの街では『女性とふたりきりで出かけたことはない』と話していましたが、彼女と旅行をしたことや結婚の約束をされたことについては何の弁解もされていませんし、自ら誤解を解こうとする気持ちもないようでした。
これでは認めたも同然だと思うのですが、公子の私に対する振る舞いが確信を持たせてくれません。
プリネは彼を完全に信用しきっていて、勿論このお屋敷にいる使用人達も全員彼の味方なので、私はいま大勢を相手に一人で戦っている状態です。
不貞を働いたのは公子なのに、このままでは私の方が悪者にされてしまいます。
やはりいつまでも逃げてばかりではいられないようです。
――曖昧なことを曖昧にしたままじゃ正しい答えは出せないわよ。自分がラクな方を選ぶだけだもの。
(ええ…そうです。私は私が楽な方を選んでいました。信じるよりも疑う方が簡単でしたから…。絶望するのが恐ろしくて、彼の声から耳を塞いでいたかったんです)
エクレールさんの言葉を思い出した私は、真実と向き合う覚悟を決めました。
その夜、紅茶のセットを持って寝室にやって来た公子に「職場を見学してみたい」と話すと、彼は快く承諾してくださいました。
「リタが僕に興味を持ってくれて嬉しいよ。いつがいいかな…今は国政会議の準備で慌ただしいから2週間後くらいでもいい?」
会議を理由にしてまた時間稼ぎをするのでは?
そう思いましたが、それなら私が行きたいと言った時点で難色を示したはず。
私は疑いたくなる気持ちを抑えてその時を待ちました。
半月後、公子は約束どおり私を王宮に連れて行ってくださいました。
壮大な門の内側には様々な花や草木、女神を模した石像、噴水などで彩られた華やかな庭園が広がり、その先には燦然と輝く豪華絢爛な御殿が待ち構えています。
そのあまりの輝きに圧倒されてしまい、馬車を降りる頃には私の体は緊張で少し強張っていました。
公子は慣れた様子で中を案内しながら、あれは何だとかあの場所はどうだとか詳しく説明をしてくださいます。
そのお陰で少しずつ気持ちは解れていきましたが、目的地に近付くにつれて先程とは違った緊張感が生まれて来ました。
ついに政務を行うための離宮へと足を踏み入れると、思いの外人が行き交う廊下で書類を小脇に抱えた一人の男性と出会いました。
「ルーイン!どうかしたのか?今日は非番のはずだろ?」
声をかけてきたのは公子よりも背が林檎1つ分ほど低く、赤銅色の髪を短く切り揃えた誠実そうな印象の方でした。
「そうだけど、用事があってね」
「ところでそちらの女性は?」
「僕の婚約者だ。今日は彼女に仕事場を見せに来たんだよ」
「え?!」
彼は私の正体を知ると、丸眼鏡の奥に見える栗色の目を真ん丸に見開きました。
そして何か都合の悪いことがあるかのように眉を顰めて公子に歩み寄ります。
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流れるようなカーテシーをした後、にこやかに微笑みます。
ご挨拶の作法はフィニッシングスクールで何度も練習しました。
「リターシャ・グラスフィーユと申します。ディラン様のお噂はかねてより伺っております。お目にかかれて嬉しく思います」
「ご丁寧にありがとうございます。ディラン・ダリオルです。ルーインとの付き合いはパブリックスクール時代からなのでかれこれ10年近くになりますね。今は外務部で書記官をしています」
数多の貴族令嬢から眉目秀麗と賛される公子と比べてしまうとどうしても外見は素朴な印象を受けてしまいますが、彼の笑顔や纏う雰囲気はとても朗らかで、公子に負けず劣らずの好青年です。
家族やカスティーリ公爵家以外の男性とこうして挨拶を交わしたのは恐らく初めてで、慣れないことに胸がどきりと高鳴ります。
すると何を思ったのか、公子がさり気なく肩を抱き寄せてきました。
驚く私に優しく微笑みかけますが、手を離そうとはしません。
それを目にしたディラン様はやれやれといった様子で苦笑いを浮かべました。
「つかぬことをお伺いしますが、リターシャ嬢はアリアンナ・シュクリーという女性をご存知ですか?」
「ええ…アリアンナ様は私の友人です。フィニッシングスクールの寮ではお部屋がご一緒でした」
「やはりそうでしたか。貴女のことは彼女からよく聞いています。彼女は僕の婚約者なんです」
「まあ…!」
公子のご友人がアリアンナ嬢のご婚約者だったなんて、なんという偶然でしょうか。
そういえば彼女は、『王宮に勤めている』『伯爵家の三男』とお付き合いをすることになったとお話されていました。
「ご婚約おめでとうございます。ご結婚も間近だと伺いました」
「ええ、ありがとうございます。僕自身もまさかこんなに早く彼女と結婚できるとは思いませんでした。彼女は僕の運命の女性なんです。上手くいくように協力しくれたルーインには感謝しています」
「…そんなことはわざわざ言わなくていいんだよ」
「本当のことなんだから別に構わないだろ?」
悪戯っぽく笑うディラン様に、公子は恨めしいような視線をぶつけます。
彼は恥ずかしい思いをすると時々こうした反応を見せることがあるので、きっと思いがけない言葉を貰えたことに照れているのでしょう。
ディラン様は婚約者のいる公子にアリアンナ嬢のことをご相談をなさり、公子の助言通りに手紙を送ったり贈り物をしたり、デートを重ねていたら自然と上手く事が運んだのだと声を弾ませます。
そういう手管でオーロラ嬢のことも口説き落としたのでしょうか。
「あ…すみません、つい話し込んでしまいました。僕はそろそろ職務に戻ります。本当はもっとお話していたいんですが、上司が秒針に煩いお方で。後で僕も執務室に行く用事があるのでまたお会いするかもしれませんね。――それじゃあまたな、ルーイン」
ディラン様はそう言って片手をひらつかせて去っていきました。
途中からお話に夢中になって忘れていましたが、私はあれからずっと公子に肩を抱かれたままでいました。
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それを信じた国王陛下から王都からの追放を言い渡された私を、昔からの知り合いであり辺境伯の令息、リューク・スコッチが自分の屋敷に住まわせると進言してくれる。
スコッチ家に温かく迎えられた私は、その恩に報いる為に、スコッチ領内、もしくは旅先でのみ聖女だった頃にしていた事と同じ活動を行い始める。
新しい暮らしに慣れ始めた頃には、私頼りだった聖女達の粗がどんどん見え始め、私を嫌っていたはずの王太子殿下から連絡がくるようになり…。
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※クズがいますので、ご注意下さい。
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