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思いもよらない提案
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「私は公子のことが信じられません。私がフィニッシングスクールに通い始めてから今日まで、公子とは一度もお会いしていませんし、お手紙のお返事もいただいたことがございませんので」
途端に公子の顔がばつの悪いものに変わります。
やはり公子は私を避けていたのですね。
わかっていたとはいえ、こうして現実を突きつけられると悲しくなります。
この先公子がどんな弁解をしようとも無意味なことです。
私は修道女になると決心したのですから。
「それは、」
「ルーイン!!!」
先程よりも大きな怒号が、弁明しようとする公子の言葉を遮りました。
「貴方が真面目な気持ちで仕事に打ち込んでいることは知っています!けれど、お手紙のお返事くらい出せたでしょう!!
リタちゃんは、休暇には必ず私達に会いに来てくれていたわ。貴方がいないとわかっていても、私やグレーテを訪ねて来てくれました!そんな彼女の健気な気持ちを、貴方は踏みにじったのよ!!」
「オディール、少し落ち着きなさい…」
「これが落ち着いていられますか?! まさかあなた、ルーインの肩を持つおつもりなの?!」
カスティーリ夫人が「息子の不貞を許すのか」とカスティーリ公爵に視線で訴えます。
怒りに染まったふたつの目は、普段の温厚な夫人からは想像もつかない圧倒感で溢れています。
もし今この家の庭にいつも遊びに来ている小鳥達がいたら、一羽残らず飛び去ってしまっていたでしょう。
「そういうわけではないよ。君の怒りは最もだ。だがルーインにも言い分があるようだし、冷静に話をした方が良いと思ってね」
「あなたのおっしゃることはわかりますわ。けれど私はどうしても息子が許せません」
カスティーリ公爵が苦笑いを浮かべながら、夫人を宥めます。
とても意外ですが、こうしたやり取りは初めてではないようです。
「許せない」と言いつつも、夫人は怒りのボルテージを下げたように見えました。
夫人を怒らせてしまった原因は私ですが、これ以上怒っている姿を見るのは胸が痛みます。
ですがそれも、カスティーリ公爵のおかげで落ち着いたと内心ほっとしていました――
「ルーイン!!何をぼうっとしているの!今すぐリタちゃんに謝罪なさい!!」
――が、直後に再び夫人の鋭い声が飛んで、私は思わず肩をびくつかせました。
やはり夫人の怒りはまだ収まらないようです。
申し訳ないと思う反面、私のために怒ってくださっているとわかって涙が滲みます。
(感謝いたします…カスティーリ夫人。皆様に良くしていただいたことは絶対に忘れません。何もお返しできませんが、修道女になった暁には毎日カスティーリ公爵家の繁栄をお祈りいたします…)
目頭が熱くなってきて、私は双眸を閉じました。
こんな時にこんなところで涙を流すのは、女の武器を使うようで卑怯に思えたからです。
俯いた私を見たルーイン公子が思案顔をしますが、私には知る由もありません。
「リタ。君を不安にさせてしまったことは申し訳なく思っている。すまなかった…」
「…いいえ、もう終わったことですから」
私は目を伏せたまま、静かに答えました。
公子から謝罪を求めていたわけではありませんし、謝罪を受けたからといって気持ちが動くことはありません。
私は淑女教育をフィニッシュするのと同時に、貴方との婚約もフィニッシュさせていただきます。
「リタ…その、1つ聞いてもいいかな」
「はい。何でしょうか」
ルーイン公子の声がいつになく頼りないので、少し驚いた私は顔を上げました。
すると彼は私の顔を見てほっとしたように表情を緩めます。
きっと私が泣いていると思ったのでしょう。
そして真剣な顔で私に問いかけました。
「君は僕との婚約を解消した後はどうするつもりでいるの?」
漠然とした質問のように聞こえますが、私には彼が何を聞き出したいのか理解できました。
自分と同じように、私にも他に懸想する相手ができたのかどうか知りたいのでしょう。
要するに『自分が他の男に出し抜かれたのかどうか』が気になるのですね。
女性にも女性なりの矜持がございますが、男性の矜持というものも面倒なものですね。
「お父様とお母様には申し訳ないですが修道院に入ろうと思っています」
希望は東にあるアマンディーヌ修道院です。
アマンディーヌ修道院は女子修道院の1つで、他の修道院と比べて市井との交流が多く開放的なことが特徴です。
自ら修道女を目指す女性達に人気で、修練者となるためには試験が必要だと聞きます。
試験といっても、修道女の素質を見るための適性検査のようなもので難しくはないようです。
アマンディーヌ修道院での生活が叶わなくても、他にもいくつか女子修道院はあります。
どんなに厳しい環境でも甘んじて受け入れましょう。
私はもう異性に裏切られることも、人生を振り回されることもしたくないのです。
「…なるほど」
素直に修道女になりたいことを伝えると、公子は驚きも反対もせずに頷きました。
恐らく過去の婚約者を自分以外の男性の元へ嫁がせるのは避けたかったのでしょう。
それは私を異性として愛しているからではありません。
自分が手放した女性が幸せになる、あるいは幸せにする男性が現れたとなると、負けたような気持ちになるからです。
本当に、男性の矜持というものは厄介ですね。
心の中で溜息を吐いていると、公子が突然私の足元に跪きました。
驚いて一歩後退った私に、顔を上げた公子が視線で呼び止めます。
「リタ、まずはしっかり謝罪をさせて欲しい」
「謝罪…?」
それは、オーロラ・シーフォニル公女と浮気をしていたことを認めるということでしょうか?
それが本当だとして、こうして頭を下げられて許しを請われても、私にとってはもうどうでも良いことなのですが…。
「シーフォニル家のご令嬢とは確かに職場で顔を合わせるけれど、本当にそれだけだ。僕が謝罪したいのは修道女になりたいと願うほど君を追い詰めてしまったことだよ」
公子は私の心を読めるのでしょうか?
驚かされてばかりの私は、反論したいのに言葉が出てきません。
いつもは穏やかで、少し頼りなくも見える公子がとても真剣な表情をして私を見つめます。
公子の目を見ると胸がドキリとして、私は落ち着かない気持ちを紛らわせるために両手を握りしめました。
「この3年間、不本意にも君に寂しい思いをさせてしまった。これは僕の幼稚さが招いたことで君に非はない。本当に申し訳なかった。もう一度僕にチャンスをくれないか?」
「……」
「正式に結婚するのは来年だったが、こうなってしまった以上延期は仕方がないと思っている。でも明日からは予定通り僕の家に来て欲しい。1年後もまだ君の気持ちが変わらなければ、潔く婚約破棄を受け入れるよ」
それは思いもよらない提案で、私は混乱してしまいました。
ヴェロニカ嬢のお話を聞いた限りでは、公子の心にはもう私への愛情は残っていないようでした。
それなのにまだ私との結婚を望んでいるだなんて、一体どういうことなのでしょう…?
もしかすると…いえ、もしかしなくても一時的に取り繕おうとしているだけなのではないでしょうか。
ここは私の生家――グラスフィーユ伯爵家の領館で、そして私の卒業祝い兼誕生日祝いのパーティーの真っ最中です。
こんな所で自分の心変わりを認めてしまっては、これまでの輝かしい経歴も、積み重ねてきた努力も名声も、すべてが水の泡です。
(…そうよね。この提案はただ彼自身や家名を守るためのもの。私への愛情で言っているわけではないわ)
たった少し紳士的な一面を見ただけで、一瞬でも心ときめかせてしまった自分に怒りが湧いてきます。
この後どれほど愛の言葉を囁かれようと、結婚しようと言い縋られようと、私は公子と結婚はいたしません。
私の希望は、修道女になること。ただ一つなのですから。
もう一度決意表明をしようと公子に冷めた視線をぶつけます。
けれど私は、どうしたことかまた何も言えなくなってしまいました。
どういった心境の変化なのでしょう…先程まで情けない顔で狼狽えていた公子が、にこやかな微笑みを浮かべているのです。
可笑しなことにその笑顔が怒っているようにも見えて、私の方が動揺してしまいます。
「僕はね、君が学校を卒業して僕の元へ来る日をずっと心待ちにしていたんだ。それを…分別のないどこぞの破家にぶち壊されるなんて冗談じゃない」
戸惑う私を宥めるように、公子が私の手をぎゅうと握って笑いかけます。
これも矜持を守るための虚言でしょうか…?
「さっきの話は全部人から聞いたものだよね?」
「ぇ…ええ…」
「真実は自分自身の目で見て確かめるべきだ。そう思わないか?」
「そ、それはそうですが…」
「それじゃあ決まりだ。明日は予定通りに出立するよ。僕の傍で1年過ごす間に、ヴェロニカ嬢の話が嘘か本当かを見極めるといい」
「まってください…!どういうことですか?」
先程から『僕の家』や『僕の傍で』などとおっしゃっていますが、公子はいま王都にある別邸にお住まいです。
私が移り住むことになっていたのはカスティーリ公爵領だったはずで、王都に戻るとは聞いておりません。
「私は公子と同じ家で暮らすのですか?」
「そうだよ。元々そういう話だっただろう?」
「私は本邸と伺っておりました。婚約当初の取り決めでは、結婚前の1年間を領館で過ごし、オディール夫人から公爵家の妻としての心構えを直接ご教示いただけると…」
「どうやら何か行き違いがあったようだね。でももうこちらで準備を進めてしまっているから、今更変更はできない」
「それでしたら尚のこと頷けません。私はもう公子と結婚するつもりはありませんし…」
「リタは修道女になりたいんだったね。修道女になるのに年齢制限はないからいつだってなれる。僕と共同生活をしてみてから決めても遅くはないよ」
「ですが…」
こんなことになるだなんて考えもしませんでした。
このままでは思いの外強引な公子に丸め込まれてしまいます。
慌ててお断りしようとしましたが、
「リタちゃん、是非そうしてちょうだい!私からもお願いするわ!」
「お姉さま、どうかお願いします!お姉さまが本当のお姉さまになってくださるのを私も楽しみにしていたんです…!」
「君の気持ちを考えると心苦しくはあるが…私からもどうかお願いしたい。弟に一度だけ機会を与えてくれないか?」
カスティーリ夫人とグレーテ嬢、驚いたことにオスカル公子からも援護射撃を受けてしまい、私の修道院という名の剣はあっという間弾き飛ばされしまいました。
「女心のわからない息子だが、どうかよろしく頼む」
その上カスティーリ公爵にまで頭を下げられては、丸腰の私に反論の余地などありません。
「みなさまどうか頭を上げてください…!」
カスティーリ公爵家一同からルーイン公子との婚前同棲を頼み込まれるという異常事態に恐れ慄いた私は、彼に抱いていた猜疑心も怒りもどこかに吹き飛んでしまい、我に返った時にはわけもわからず頷いてしまっていました。
こうして私は、明日から1年間、王都にある公爵家の別邸で暮らすことになったのです。
途端に公子の顔がばつの悪いものに変わります。
やはり公子は私を避けていたのですね。
わかっていたとはいえ、こうして現実を突きつけられると悲しくなります。
この先公子がどんな弁解をしようとも無意味なことです。
私は修道女になると決心したのですから。
「それは、」
「ルーイン!!!」
先程よりも大きな怒号が、弁明しようとする公子の言葉を遮りました。
「貴方が真面目な気持ちで仕事に打ち込んでいることは知っています!けれど、お手紙のお返事くらい出せたでしょう!!
リタちゃんは、休暇には必ず私達に会いに来てくれていたわ。貴方がいないとわかっていても、私やグレーテを訪ねて来てくれました!そんな彼女の健気な気持ちを、貴方は踏みにじったのよ!!」
「オディール、少し落ち着きなさい…」
「これが落ち着いていられますか?! まさかあなた、ルーインの肩を持つおつもりなの?!」
カスティーリ夫人が「息子の不貞を許すのか」とカスティーリ公爵に視線で訴えます。
怒りに染まったふたつの目は、普段の温厚な夫人からは想像もつかない圧倒感で溢れています。
もし今この家の庭にいつも遊びに来ている小鳥達がいたら、一羽残らず飛び去ってしまっていたでしょう。
「そういうわけではないよ。君の怒りは最もだ。だがルーインにも言い分があるようだし、冷静に話をした方が良いと思ってね」
「あなたのおっしゃることはわかりますわ。けれど私はどうしても息子が許せません」
カスティーリ公爵が苦笑いを浮かべながら、夫人を宥めます。
とても意外ですが、こうしたやり取りは初めてではないようです。
「許せない」と言いつつも、夫人は怒りのボルテージを下げたように見えました。
夫人を怒らせてしまった原因は私ですが、これ以上怒っている姿を見るのは胸が痛みます。
ですがそれも、カスティーリ公爵のおかげで落ち着いたと内心ほっとしていました――
「ルーイン!!何をぼうっとしているの!今すぐリタちゃんに謝罪なさい!!」
――が、直後に再び夫人の鋭い声が飛んで、私は思わず肩をびくつかせました。
やはり夫人の怒りはまだ収まらないようです。
申し訳ないと思う反面、私のために怒ってくださっているとわかって涙が滲みます。
(感謝いたします…カスティーリ夫人。皆様に良くしていただいたことは絶対に忘れません。何もお返しできませんが、修道女になった暁には毎日カスティーリ公爵家の繁栄をお祈りいたします…)
目頭が熱くなってきて、私は双眸を閉じました。
こんな時にこんなところで涙を流すのは、女の武器を使うようで卑怯に思えたからです。
俯いた私を見たルーイン公子が思案顔をしますが、私には知る由もありません。
「リタ。君を不安にさせてしまったことは申し訳なく思っている。すまなかった…」
「…いいえ、もう終わったことですから」
私は目を伏せたまま、静かに答えました。
公子から謝罪を求めていたわけではありませんし、謝罪を受けたからといって気持ちが動くことはありません。
私は淑女教育をフィニッシュするのと同時に、貴方との婚約もフィニッシュさせていただきます。
「リタ…その、1つ聞いてもいいかな」
「はい。何でしょうか」
ルーイン公子の声がいつになく頼りないので、少し驚いた私は顔を上げました。
すると彼は私の顔を見てほっとしたように表情を緩めます。
きっと私が泣いていると思ったのでしょう。
そして真剣な顔で私に問いかけました。
「君は僕との婚約を解消した後はどうするつもりでいるの?」
漠然とした質問のように聞こえますが、私には彼が何を聞き出したいのか理解できました。
自分と同じように、私にも他に懸想する相手ができたのかどうか知りたいのでしょう。
要するに『自分が他の男に出し抜かれたのかどうか』が気になるのですね。
女性にも女性なりの矜持がございますが、男性の矜持というものも面倒なものですね。
「お父様とお母様には申し訳ないですが修道院に入ろうと思っています」
希望は東にあるアマンディーヌ修道院です。
アマンディーヌ修道院は女子修道院の1つで、他の修道院と比べて市井との交流が多く開放的なことが特徴です。
自ら修道女を目指す女性達に人気で、修練者となるためには試験が必要だと聞きます。
試験といっても、修道女の素質を見るための適性検査のようなもので難しくはないようです。
アマンディーヌ修道院での生活が叶わなくても、他にもいくつか女子修道院はあります。
どんなに厳しい環境でも甘んじて受け入れましょう。
私はもう異性に裏切られることも、人生を振り回されることもしたくないのです。
「…なるほど」
素直に修道女になりたいことを伝えると、公子は驚きも反対もせずに頷きました。
恐らく過去の婚約者を自分以外の男性の元へ嫁がせるのは避けたかったのでしょう。
それは私を異性として愛しているからではありません。
自分が手放した女性が幸せになる、あるいは幸せにする男性が現れたとなると、負けたような気持ちになるからです。
本当に、男性の矜持というものは厄介ですね。
心の中で溜息を吐いていると、公子が突然私の足元に跪きました。
驚いて一歩後退った私に、顔を上げた公子が視線で呼び止めます。
「リタ、まずはしっかり謝罪をさせて欲しい」
「謝罪…?」
それは、オーロラ・シーフォニル公女と浮気をしていたことを認めるということでしょうか?
それが本当だとして、こうして頭を下げられて許しを請われても、私にとってはもうどうでも良いことなのですが…。
「シーフォニル家のご令嬢とは確かに職場で顔を合わせるけれど、本当にそれだけだ。僕が謝罪したいのは修道女になりたいと願うほど君を追い詰めてしまったことだよ」
公子は私の心を読めるのでしょうか?
驚かされてばかりの私は、反論したいのに言葉が出てきません。
いつもは穏やかで、少し頼りなくも見える公子がとても真剣な表情をして私を見つめます。
公子の目を見ると胸がドキリとして、私は落ち着かない気持ちを紛らわせるために両手を握りしめました。
「この3年間、不本意にも君に寂しい思いをさせてしまった。これは僕の幼稚さが招いたことで君に非はない。本当に申し訳なかった。もう一度僕にチャンスをくれないか?」
「……」
「正式に結婚するのは来年だったが、こうなってしまった以上延期は仕方がないと思っている。でも明日からは予定通り僕の家に来て欲しい。1年後もまだ君の気持ちが変わらなければ、潔く婚約破棄を受け入れるよ」
それは思いもよらない提案で、私は混乱してしまいました。
ヴェロニカ嬢のお話を聞いた限りでは、公子の心にはもう私への愛情は残っていないようでした。
それなのにまだ私との結婚を望んでいるだなんて、一体どういうことなのでしょう…?
もしかすると…いえ、もしかしなくても一時的に取り繕おうとしているだけなのではないでしょうか。
ここは私の生家――グラスフィーユ伯爵家の領館で、そして私の卒業祝い兼誕生日祝いのパーティーの真っ最中です。
こんな所で自分の心変わりを認めてしまっては、これまでの輝かしい経歴も、積み重ねてきた努力も名声も、すべてが水の泡です。
(…そうよね。この提案はただ彼自身や家名を守るためのもの。私への愛情で言っているわけではないわ)
たった少し紳士的な一面を見ただけで、一瞬でも心ときめかせてしまった自分に怒りが湧いてきます。
この後どれほど愛の言葉を囁かれようと、結婚しようと言い縋られようと、私は公子と結婚はいたしません。
私の希望は、修道女になること。ただ一つなのですから。
もう一度決意表明をしようと公子に冷めた視線をぶつけます。
けれど私は、どうしたことかまた何も言えなくなってしまいました。
どういった心境の変化なのでしょう…先程まで情けない顔で狼狽えていた公子が、にこやかな微笑みを浮かべているのです。
可笑しなことにその笑顔が怒っているようにも見えて、私の方が動揺してしまいます。
「僕はね、君が学校を卒業して僕の元へ来る日をずっと心待ちにしていたんだ。それを…分別のないどこぞの破家にぶち壊されるなんて冗談じゃない」
戸惑う私を宥めるように、公子が私の手をぎゅうと握って笑いかけます。
これも矜持を守るための虚言でしょうか…?
「さっきの話は全部人から聞いたものだよね?」
「ぇ…ええ…」
「真実は自分自身の目で見て確かめるべきだ。そう思わないか?」
「そ、それはそうですが…」
「それじゃあ決まりだ。明日は予定通りに出立するよ。僕の傍で1年過ごす間に、ヴェロニカ嬢の話が嘘か本当かを見極めるといい」
「まってください…!どういうことですか?」
先程から『僕の家』や『僕の傍で』などとおっしゃっていますが、公子はいま王都にある別邸にお住まいです。
私が移り住むことになっていたのはカスティーリ公爵領だったはずで、王都に戻るとは聞いておりません。
「私は公子と同じ家で暮らすのですか?」
「そうだよ。元々そういう話だっただろう?」
「私は本邸と伺っておりました。婚約当初の取り決めでは、結婚前の1年間を領館で過ごし、オディール夫人から公爵家の妻としての心構えを直接ご教示いただけると…」
「どうやら何か行き違いがあったようだね。でももうこちらで準備を進めてしまっているから、今更変更はできない」
「それでしたら尚のこと頷けません。私はもう公子と結婚するつもりはありませんし…」
「リタは修道女になりたいんだったね。修道女になるのに年齢制限はないからいつだってなれる。僕と共同生活をしてみてから決めても遅くはないよ」
「ですが…」
こんなことになるだなんて考えもしませんでした。
このままでは思いの外強引な公子に丸め込まれてしまいます。
慌ててお断りしようとしましたが、
「リタちゃん、是非そうしてちょうだい!私からもお願いするわ!」
「お姉さま、どうかお願いします!お姉さまが本当のお姉さまになってくださるのを私も楽しみにしていたんです…!」
「君の気持ちを考えると心苦しくはあるが…私からもどうかお願いしたい。弟に一度だけ機会を与えてくれないか?」
カスティーリ夫人とグレーテ嬢、驚いたことにオスカル公子からも援護射撃を受けてしまい、私の修道院という名の剣はあっという間弾き飛ばされしまいました。
「女心のわからない息子だが、どうかよろしく頼む」
その上カスティーリ公爵にまで頭を下げられては、丸腰の私に反論の余地などありません。
「みなさまどうか頭を上げてください…!」
カスティーリ公爵家一同からルーイン公子との婚前同棲を頼み込まれるという異常事態に恐れ慄いた私は、彼に抱いていた猜疑心も怒りもどこかに吹き飛んでしまい、我に返った時にはわけもわからず頷いてしまっていました。
こうして私は、明日から1年間、王都にある公爵家の別邸で暮らすことになったのです。
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