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第4話(1)
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その頃十和子は、まるでホテルのスイートルームのような一室でのんびりと朝を迎えていた。
息子の朝のお世話が一段落したところで、少し遅めの朝食にありつく。
空腹を感じてはいなかったが、テーブルの上に並べられた温かい食事を前にすると、くぅとお腹が鳴った。
小ぶりで品の良い陶器の食器に盛り付けられているのは、焼き魚に卵焼き、青菜の納豆和え、ひじきの煮物、さつまいものきんぴら、きゅうりの酢の物。
そこへ湯気のたつお味噌汁と炊きたての白いご飯が運ばれてくる。
「今日もありがとう、奈津子さん」
十和子はここへ来てから当然のように食事を用意してくれる年配の女性にお礼を伝えた。
彼女は十和子がまだ学生の頃からこの家で働いている住み込みのお手伝いさんで、昔から穏やかで優しかった。
「なにもしなくても美味しいご飯が出てくるなんて、本当にありがたいです。洗濯や掃除もしてもらえて助かります」
「いえいえ。それが私の仕事ですから、なーんにも気にせず任せてくださればよいのですよ。それに私もお嬢様のおかげで久しぶりに料理の腕をふるえて嬉しいんです。奥様が入院されてからは専ら掃除婦でしたから」
「でも…将臣くんは食事はどうしていたんですか?」
「坊ちゃまはほとんどあちらに寝泊まりで、あまりご自宅で食事をなさらないんです」
「そうなんだ…」
「さぁさ、冷めないうちに召し上がってください」
「うん。いただきます」
微笑む奈津子に、十和子もにっこりと微笑み返した。
毎日が安心感と幸福感で全身が満たされていくような心地よさで、十和子はすっかりここ―――亡き父親の実家での生活が気に入ってしまった。
10日前。
ショッピングモールからの帰り道、マンション付近に停車した高級車から降りてきたのは、どこか見覚えのある人物だった。
「久しぶりですね」
「……?」
「流石に覚えていないか。最後に会ったのは10年前だから」
会ったことがあると言われて、十和子は記憶を手繰り寄せた。
男の顔をじっと見つめていると、ぼんやりと脳裏に浮かんできた面影があった。
「将臣《まさおみ》くん…?」
「名前まで思い出してもらえるとは光栄だな」
まさかとは思いながらも名前を呼んでみると、彼はその通りだと頷いた。
十和子の頭の中にふっと浮かんできたのが、時々遊びに行っていた父方の祖父母の家に住んでいた男の子。
彼の言う通り顔を合わせるのは10年ぶりで、その時はまだお互いに学生だった。
「本当に久しぶりだね。元気にしてた?」
「悪いが世間話は後だ。今日はあなたを迎えに来たんです」
「え?」
「お祖母様が危篤です。車に乗ってください」
十和子は将臣に手を引かれ、半ば強引に車内に押し込められた。
その時、手に持っていたスマートフォンが足元に転がり落ちる。
「危篤って…どういうことなの?お祖母様は病気なの?」
「詳しいことは移動しながら話します。―――出してくれ」
将臣が運転手に命じると、車は緩やかに走り出した。
*
十和子の父親は"あづみ"という全国的に名の知れた老舗旅館を経営する一族の本家に生まれた唯一の男児だった。
父親は跡取り息子として育てられたが、十和子の母親との結婚を反対されて駆け落ち同然で家を出る。
激怒した彼の母親は息子を「勘当する」と宣言し、数年間は絶縁状態だったが、孫の十和子が生まれるとわだかまりは残るものの多少和解した。
十和子の父親は「母親との確執は子どもには関係のないことだから」と、夏休みになると数日間だけ十和子を祖母の家に泊まらせた。
十和子が初めて安曇家を訪れたのは、中学一年生の夏だった。
一人で心細かった時、気を利かせた祖父が「年が近いから打ち解けやすいだろう」と将臣を紹介した。
将臣は十和子の5歳年上で、当時は高校2年生だった。
彼は婿入りした祖父の姪の息子で、十和子とは再従兄に当たる。
安曇家唯一の直系男児で跡取りだった十和子の父親が家を出たことで、彼が旅館を継ぐ話が浮上したのだ。
中学卒業のタイミングで祖父母と養子縁組し、親元を離れて祖父母の家で暮らしながら学業と旅館の仕事とを両立していた。
現在は祖父は介護施設に、祖母は高齢を理由に隠居して、彼が社長に就任して経営を一任されているという。
十和子は大学に入学した年以降、一度も旅館へ遊びに行かなかった。
その頃父親が病に倒れ、その間に母親の不倫が原因で両親は離婚。
母親が家を出て行ってしまい、必然的に十和子が父親の看病をすることになり余裕がなかったのだ。
父親は数年前に他界したが、遺言で「葬儀はしないでくれ」と言われていたため、十和子だけでお寺で弔いをした。
安曇家とは縁を切っているから「実家には伝えるな」と言われていたが、訃報と遺言のことは手紙で伝えていた。
「疎遠になっていたとはいえ、結婚した時くらい連絡くれてもよかったのに」
「ごめんなさい…籍を入れただけだったからタイミングが…」
「式を挙げてないのか?」
「うん…まだ…。お腹にこの子がいて、体調も良くなかったから…」
籍を入れたのは妊娠4ヶ月に入ろうかというところで、既につわりが始まっていた。
「今更だけど結婚と出産おめでとう」
「あ、ありがとう…。将臣くんは?結婚しているの?」
「そのことなんだが、十和子。離婚してくれ」
「え?」
十和子は一瞬何を言われたのかわからなかった。
「そして俺と結婚しよう。その子を将来安曇家の跡取りにする。それがお祖母様の遺言だ」
息子の朝のお世話が一段落したところで、少し遅めの朝食にありつく。
空腹を感じてはいなかったが、テーブルの上に並べられた温かい食事を前にすると、くぅとお腹が鳴った。
小ぶりで品の良い陶器の食器に盛り付けられているのは、焼き魚に卵焼き、青菜の納豆和え、ひじきの煮物、さつまいものきんぴら、きゅうりの酢の物。
そこへ湯気のたつお味噌汁と炊きたての白いご飯が運ばれてくる。
「今日もありがとう、奈津子さん」
十和子はここへ来てから当然のように食事を用意してくれる年配の女性にお礼を伝えた。
彼女は十和子がまだ学生の頃からこの家で働いている住み込みのお手伝いさんで、昔から穏やかで優しかった。
「なにもしなくても美味しいご飯が出てくるなんて、本当にありがたいです。洗濯や掃除もしてもらえて助かります」
「いえいえ。それが私の仕事ですから、なーんにも気にせず任せてくださればよいのですよ。それに私もお嬢様のおかげで久しぶりに料理の腕をふるえて嬉しいんです。奥様が入院されてからは専ら掃除婦でしたから」
「でも…将臣くんは食事はどうしていたんですか?」
「坊ちゃまはほとんどあちらに寝泊まりで、あまりご自宅で食事をなさらないんです」
「そうなんだ…」
「さぁさ、冷めないうちに召し上がってください」
「うん。いただきます」
微笑む奈津子に、十和子もにっこりと微笑み返した。
毎日が安心感と幸福感で全身が満たされていくような心地よさで、十和子はすっかりここ―――亡き父親の実家での生活が気に入ってしまった。
10日前。
ショッピングモールからの帰り道、マンション付近に停車した高級車から降りてきたのは、どこか見覚えのある人物だった。
「久しぶりですね」
「……?」
「流石に覚えていないか。最後に会ったのは10年前だから」
会ったことがあると言われて、十和子は記憶を手繰り寄せた。
男の顔をじっと見つめていると、ぼんやりと脳裏に浮かんできた面影があった。
「将臣《まさおみ》くん…?」
「名前まで思い出してもらえるとは光栄だな」
まさかとは思いながらも名前を呼んでみると、彼はその通りだと頷いた。
十和子の頭の中にふっと浮かんできたのが、時々遊びに行っていた父方の祖父母の家に住んでいた男の子。
彼の言う通り顔を合わせるのは10年ぶりで、その時はまだお互いに学生だった。
「本当に久しぶりだね。元気にしてた?」
「悪いが世間話は後だ。今日はあなたを迎えに来たんです」
「え?」
「お祖母様が危篤です。車に乗ってください」
十和子は将臣に手を引かれ、半ば強引に車内に押し込められた。
その時、手に持っていたスマートフォンが足元に転がり落ちる。
「危篤って…どういうことなの?お祖母様は病気なの?」
「詳しいことは移動しながら話します。―――出してくれ」
将臣が運転手に命じると、車は緩やかに走り出した。
*
十和子の父親は"あづみ"という全国的に名の知れた老舗旅館を経営する一族の本家に生まれた唯一の男児だった。
父親は跡取り息子として育てられたが、十和子の母親との結婚を反対されて駆け落ち同然で家を出る。
激怒した彼の母親は息子を「勘当する」と宣言し、数年間は絶縁状態だったが、孫の十和子が生まれるとわだかまりは残るものの多少和解した。
十和子の父親は「母親との確執は子どもには関係のないことだから」と、夏休みになると数日間だけ十和子を祖母の家に泊まらせた。
十和子が初めて安曇家を訪れたのは、中学一年生の夏だった。
一人で心細かった時、気を利かせた祖父が「年が近いから打ち解けやすいだろう」と将臣を紹介した。
将臣は十和子の5歳年上で、当時は高校2年生だった。
彼は婿入りした祖父の姪の息子で、十和子とは再従兄に当たる。
安曇家唯一の直系男児で跡取りだった十和子の父親が家を出たことで、彼が旅館を継ぐ話が浮上したのだ。
中学卒業のタイミングで祖父母と養子縁組し、親元を離れて祖父母の家で暮らしながら学業と旅館の仕事とを両立していた。
現在は祖父は介護施設に、祖母は高齢を理由に隠居して、彼が社長に就任して経営を一任されているという。
十和子は大学に入学した年以降、一度も旅館へ遊びに行かなかった。
その頃父親が病に倒れ、その間に母親の不倫が原因で両親は離婚。
母親が家を出て行ってしまい、必然的に十和子が父親の看病をすることになり余裕がなかったのだ。
父親は数年前に他界したが、遺言で「葬儀はしないでくれ」と言われていたため、十和子だけでお寺で弔いをした。
安曇家とは縁を切っているから「実家には伝えるな」と言われていたが、訃報と遺言のことは手紙で伝えていた。
「疎遠になっていたとはいえ、結婚した時くらい連絡くれてもよかったのに」
「ごめんなさい…籍を入れただけだったからタイミングが…」
「式を挙げてないのか?」
「うん…まだ…。お腹にこの子がいて、体調も良くなかったから…」
籍を入れたのは妊娠4ヶ月に入ろうかというところで、既につわりが始まっていた。
「今更だけど結婚と出産おめでとう」
「あ、ありがとう…。将臣くんは?結婚しているの?」
「そのことなんだが、十和子。離婚してくれ」
「え?」
十和子は一瞬何を言われたのかわからなかった。
「そして俺と結婚しよう。その子を将来安曇家の跡取りにする。それがお祖母様の遺言だ」
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