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思い出の場所

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気が付くとシエルは見覚えのある場所に立っていた。
辺り一帯が穏やかな風に包まれ、鮮やかなピンクや黄色や白など色とりどりのイキシアが咲いて揺れる丘の上。
ブルームーン事件で一時はすべて枯れ果ててしまったもののまた新しい命が育っている。

5年前のあの夜、シエルは怪我をしたベンと共に追っ手を逃れて偶然この丘までやって来た。
両親の安否は不明で、助けに向かったリアとエリックも捕えられ、ベンはシエルを庇って深い傷を負った。
やっとの思いでここに辿り着いた時、お互いに支え合うようにして歩いてきたベンがついに膝をついた。
天空に突如現れた怪しく光る青い月が地上に存在するありとあらゆる魔力を容赦なく搾取し続けているせいで、治癒力は低下し、なけなしの回復魔法も上手く発動してくれない。
服は傷口から流れ出る鮮血を吸い続け、ベンの呼吸は次第に細く弱々しいものになっていく。
家には魔力が枯渇寸前の幼い弟妹達がいて、意識を失くしてもなお苦しみ続けている。
何故かただ一人搾取の影響をほとんど受けていないシエルは、この時になって初めて家族を失う恐怖に打ち震えた。
今まで考えないようにしていたのに、いざ目の前で死に直面してしまうとこれ以上自分の感情に見て見ぬふりはできなかった。
もう声も出せなくなったベンを腕に抱きしめながらぽろぽろと涙を零す。
泣いても何の解決にもならないとわかっているのに、頭の中は愛する人を喪ってこの世で一人きりになる孤独と恐怖でいっぱいになっていた。
どうしてこんなことをするの?!とシエルは月に向かって叫んだ。

みんなを苦しめて得られる平和なんていらない!
これ以上私から大切なものを奪わないで!!

昂ぶった感情に任せて、自分でも驚くほど大きな声を出したような気がする。
その後のことはシエルの記憶にないが、眠りから覚めると3日続いていた夜は明けて青い月は消え、代わりに太陽が昇っていた。
枯れ果てた草木にも緑が戻り、イキシアが生き生きと花開いている。
瀕死の状態だったベンの体にも魔力が戻って、傷も癒えてシエルが目覚めるのを待ってくれていたようだった。
そんな奇跡のような出来事に、シエルは喜びのあまりベンの首に抱きついて声を上げて泣いた。
抱きしめ返してくれる彼の腕は力強くて、あたたかくて、これは現実に起きていることだと認識した途端にまた涙が溢れた。
そんな思い出の場所がこの丘だ。
記憶の隅に追いやられていた出来事が脳裏に蘇って、懐かしさに笑みがこぼれた。

(あの頃は純粋にベンのことが好きだった。人を愛することがこんなに苦しいことだなんて、思ったこともなかった…)

ここは実在する場所で冥土ではない。
悪魔と消滅する道を選んだシエルはその後、太陽に届く直前になって悪魔が体を奪い返そうと目覚めてしまい、全てを呑み込まれそうになった。
本当にぎりぎりのところで悪魔との融合を解除でき、肉体を燃え尽きさせることには成功した。
だがそのまま太陽の引力によって引き寄せられてしまいそうになったのを、生と死の狭間で開く時空間に転移したことによって辛くも逃げ延びたのだった。

(ずっとここにいたい…。もう傷つくのは嫌。このまま一人でもいい…)

必死になって止めてくれたベンやセレン、ひどく心配してくれていた姉や妹達の顔を思い浮かべると、今頃はきっと悲しんでくれているのだろうなとは思いつつも還る勇気が持てなかった。
シエルは草の上に手足を投げ出して、風にのって届けられる花の薫りを胸いっぱいに吸い込んだ。
その香りはシエルの心の氷を溶かして涙に変えた。
眦から流れた雫は野草の葉を濡らし、そうしている内に穏やかな睡魔が襲ってきて自然と瞼が落ちた。



シエルは不思議な夢を見た。
目を開けた先にあったのは自分の部屋で、彼女は天井から見下ろすように中の様子を眺めていた。
ベンが眠っている自分の枕元に座り、空っぽの体に縋り付くようにして泣いている。

「目を覚ましてくれ。目が覚めたら俺は今度こそお前を離さない。何があってもお前だけを愛して、誤解させるようなこともしない。だから帰ってきてくれ。まだ消えていないのなら、戻ってきてくれ…」

声を震わせながら懇願するベンの姿を見た途端に、苦しいほどに胸が締め付けられる。
それでも到底戻る決心はつけられなくて顔を背けた。
けれどその先に続けられた言葉に、シエルは耳を疑った。

「愛してる…シエル…」

聞き間違いかと思ったが、ベンは何度もシエルに愛していると繰り返した。
彼は眠るシエルの髪や頬を愛おしそうに指で撫でては口付けを落としていた。
物語の眠り姫を起こすように唇にも触れた。
そっと重ねるだけだったり、感触を確かめるように食むように押し付けたり…まるで愛する恋人にするかのように。
見ているだけでベンの柔らかい唇の感触が伝わってくるような気がして、シエルは真っ赤になった。
猜疑心と共に湧き上がった喜びと期待に心臓がどきどきと高鳴って、思わず熱い吐息がこぼれる。
それが思いがけなく肉体と同期して、青白かったシエルの頬が僅かに蒸気した。
シエルの体の変化に目敏く気付いたベンは瞠目し、しばらく様子を観察した後にキスを再開した。
今度は唇をなぞるように舐め、口内に舌が侵入しそうなほど深く口付けてくる。

(これは現実なの…?それともわたしの願望…?)

ベンとはあの慰めの夜に何度もキスしたし、その後も夢うつつにした記憶はあるけれど、彼にとってはすべて義務感でしていたことだと思っていた。
でも今の彼がしていることは義務ではような気がした。
意識のないシエルに愛の言葉を囁いて、意識をこじ開けるような強引さで体の反応を確かめている。
乱れはじめた息遣いからベンの欲情が伝わってきて、魔力だけのはずの体にも熱が生まれ始めた。
やはり感覚が繋がっているのかベッドの上のシエルにもその変化が現れる。
ネグリジェの下で胸の蕾がぷくりと膨らんで、薄い布地を控えめに押し上げた。
ベンの手のひらが胸全体を下から掬い上げ、突起を指先で擦るように愛撫する。

「…あ…ぁ…ん、ふ……」

感じやすい性感帯を優しくこすられて声にならない息が漏れる。
口が開いたことでベンの舌がなかに滑り込み、シエルのそれを探り当てて舌先で刺激する。
じゅる、と唾液を啜る音がした。

「シエル……」

艶っぽい吐息混じりに名前を呼ばれただけで腰が跳ねてしまい、自分の体を眺めていた思念体のシエルは羞恥に震えた。
火照った顔面を両手で覆い隠す。

(だめ…これ以上は…は、恥ずかしい……っ!)

ぎゅうと目を閉じて視覚からの情報をシャットアウトする。
そして次に目を開けたとき、シエルは草原に寝転んだ状態のままベンに押し倒されていた。

(?!)

ここは時空間のはずなのに、どうしてベンがいるのかわからない。
連れてきてしまったと考えるのが自然だが、魔力を使った感覚はなく全くの無意識だった。
唐突に転移させられた状況のベンは、驚きが過ぎてあまり見たことのない顔をしていた。
すぐに勢いよく上体を起こし、周囲を見渡しながら状況を確認している。

「ここは……」

シエルの思い出の場所は、ベンにとっても忘れることのできない場所だった。
徐に立ち上がり、彩りのイキシアが揺れる様に目を細めて懐古に浸る。

「懐かしいな…。ここへ来るのは久しぶりだ」
「……憶えているの…?」
「ああ。一生忘れない。俺に生きる目標ができた、思い出の場所だ」

さらさらと風がベンの短い髪を僅かに乱しながら過ぎ去っていく。
その間ずっと穏やかな視線を向けられていたシエルは、まじまじと見上げた彼の容姿に見惚れて頬を染めた。
ベンは草の上に座るシエルの目の前に膝をつくと、目線の高さを合わせるように正面から覗き込んだ。

「シエル。どうか謝らせてくれ。俺が間違っていた。説明を後回しにして、お前の気持ちを無視して傷つけた。本当に悪かったと思ってる…」

こんなに真摯に謝られてしまったら、お人好しなシエルは「それでも許さない」とは言えなかった。
もうベンの姿を見ても不思議と胸が苦しくならないのは、部屋の中で聞いた愛の告白に思いの外絆されてしまったからかも知れなかった。

「シエルが好きだ」

予想だにしないベンのストレートな告白に、シエルの心臓がドクンと跳ねた。
もう一度直接愛していると言ってくれたらいいのにと、心のなかで呟いた声が聞こえていたかのようなタイミングで、熱の籠った視線に心臓を射抜かれたような心地がした。

「ここでお前に救われてから、ずっと。ずっとお前のことが好きだった。信じられないかも知れないが、俺はレイチェル・ティーンのことを何とも思っていない。事件の容疑者として一番怪しかったあの女がお前に危害を加えそうだったから、証拠を掴むまで恋人役を演じていただけだ。お前が本気で俺とあいつの仲を信じていたんだと気づいたときに、初めから話しておけばよかったと後悔した。結局この事件もお前の魔力リンクのおかげで解決できた。お前は何もできないお荷物なんかじゃない。お前がいてくれなければ、俺もセレンもデオも悪魔に殺されていた。ありがとう…シエルのおかげだ」
「ベン…」
「一緒に帰ろう、シエル。お前がいない未来なんてたった1日で充分だ。あんな思いはもう…こりごりだ…」

あのベンが、感情をほとんど表に出さず表情筋も機能しているか定かではなかったあのベンが、喉を詰まらせて泣くのを堪えている。
泣いている顔もさっきハッキリ見たはずなのに、今のベンの方がどこか人間味があるように感じられるのは何故だろうか。
シエルよりも一回り大きな手のひらが彼女の両手を包み込み、ベンの顔がゆっくりと近づく。
そっとふれただけの唇から熱が生まれ、全身から喜びが溢れて涙が止まらない。

「…もうデオにもカネルにも誰にも触らせない。俺だけのシエルになって」
「わたし、は…もうずっと、ベンだけのものだよ…!」

嬉しくて、嬉しすぎて、今までぐるぐると悩んでいたことがすっかり吹き飛んでしまった。
泣き笑うシエルの頬にベンがキスをする。
二人は顔を突き合わせて微笑み、そのままゆっくりと花の薫る丘の上に倒れ込んだ。

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