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大切な人

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予想外の事態に陥ったベンは、表情には出さないもののどう切り抜けようかと困惑していた。
答えようによっては怒らせて最悪の事態になりかねないし、かといって誤魔化しが効くような状況でもなく、黙る以外に今のところ良い案が浮かばない。
黙れば黙ったで真実を知りたいレイチェルの欲求は満たされず、いずれにしても彼女の不満は解消されない。
そんな行き詰まったベンの様子を、1人は面白そうに、もう1人は興味が無さそうに眺めていた。

「おー珍しい。痴話喧嘩が始まったぞ」
「はぁ…めんどくさいから巻き込まないで欲しいわ」
「まあそう言うなよセレン。可愛いやきもちだろ」
「どこがよ」

そんな会話をしている間にも、レイチェルは諦めずに質問を繰り返している。
ローブを引っ張る力も次第に強くなっていて、早くも少し生地が伸び始めていた。

「なぁベン、ちゃんと答えてやれよ」

一向に収まる様子のない、むしろ本格化しそうな状況を見かねたデオは苦笑交じりに助け船を出した。
ベンを助ける気持ちはもちろんあったが、自分も真実を知りたい、正直に答えたらレイチェルがどうなるのか見たい、という傍観者ならではの好奇心もあった。

「俺も詳しいこと聞きてえし」
「あんたも知りたいの?」
「そりゃあ、ベンもお前も知ってて俺だけ知らねえのは気になるだろ」
「知らぬが仏って言葉もあるわよ」
「なんだよ…カネルの奴マジで何したん…」

言い終わる前に、デオは右の脇腹に突然衝撃を受けて地面を転がった。
容赦なくねじ込まれた拳は完全に不意打ちで、デオを悶絶させるのに十分な威力を持っていた。

「てっめ…クソ…なに…」

激痛に呻きながら、こうなった元凶を睨みつけて悪態を吐く。
デオを殴ったセレンは悪びれる様子もなく彼を見下ろした。

「名前、呼んだら殴るって言ったでしょ」
「この…じゃじゃ馬…!わ、わきばら……クッソ…」

痛え!!と怒号混じりに叫んだ声で、どこかの家の庭木で休んでいた鳥が驚いて飛び立った。
恋人の本音を聞き出そうと躍起になっていたレイチェルも、いつの間にか彼に注目している。
デオの意図した流れとは違えど、結果的にベンを助けることには成功したらしい。

「…シエルはね、もっと痛い思いしたのよ」
「は…?」
「主に精神的にね。これ以上は言えない」

彼女の瞳は怒りに満ち、この場にいないカネルへの激しい憤りが伝わってくる。

「あいつがどんなに謝っても、それでシエルが許しても、私はあいつを死んでも許さない。ベンも同じ気持ちってことよ」 

その言葉で、デオはすべてを察した。
何をしたのかはわからないまでも、カネルがこの2人をここまで激怒させる程のことをシエルにしたということだけで十分だった。

「あー…俺、もう聞かねえわ…」
「その方がいいわよ。あんたが知れば、きっと私達と同じ気持ちになる。そうしたら、あいつの逃げ場がなくなるから」
「…お前って、時々キツいんだか優しいんだかわかんねえよな」

ぼやくように呟いて、デオは起き上がる。
ようやく激痛が鈍痛になってきた。
セレンは男勝りな方で少し乱暴なところもあるが、実は正義感が強くて思いやりがあることをデオはよく知っていた。
気が付いてしまえばこれ以上恨み言は言えない。
イテテ、と脇腹を擦って立ち上がれば、こちらを見ていたベンと目が合った。

(…似たもん同士なんだよなぁ、そういうとこ)

我関せずで背を向けているかと思いきや複雑そうな視線を向けてくるベンに思わず苦笑いが零れる。
シエルにしたことを許してはいないがセレンの理不尽には同情する、そんな顔だった。
彼は幼い頃からそうだ。
他人に無関心なふりをしながら、目の前に困っている人が現れれば迷いなく手を差し伸べる。
無愛想なので非常にわかりづらいのだが、一番顕著なのがシエルが関わった時だ。
以前デオがカネルに話した通り、ベンはシエルが絡むといつもは隠している感情を前面に出してくる。
レイチェルと付き合っていると知った時は変わってしまったのかと裏切られたような心地がして一方的に詰ってしまったが、頬を殴られた時にシエルへの愛情が消えたわけではないと知れて(巻き込んでしまったシエルには悪いが)内心ほっとしていた。
先程までの態度を見ても、ベンにとってシエルが大切な女の子で守りたい存在なのは変わりがないように思える。
シエルを大切に思う気持ちはデオもセレンも同じくらい持っている。
カネルも冷たい態度を取ってはいても、自分達と同じ気持ちだと思っていた。

(バカだな…アイツ。レメに何かしたら、ベンもセレンも黙ってねえのに。って、俺も人のこと言えねえけど…)

ローブについた土をはらいながら苦笑する。

「お前らに恨まれて、あいつ、生きた心地がしえねだろうな」
「命があるだけマシだと思うべきだわ」
「はは。それでいくと今回シエルを襲った奴は万死に値するな」
「当然。息の根を止めてやるわよ」 

即答するセレンが彼女らしくてつい頬が緩む。

「お前もベンも、いざとなったら悪魔に魂売ってでも報復しそうだよな」

大袈裟に聞こえるが、ベンもセレンも否定はしなかった。

4人は再び学校に向けて歩き出す。
レイチェルはもうベンを問い詰めることはしなかったが、セレンとデオの言葉に底知れぬ不安と不快感を覚えていた。
詳しいことはわからないが、カネルというベンの幼馴染みがベンの居候先にいるシエル・レメディオスに精神的苦痛を与えたことは理解できた。
そしてベンがそのことにかなり腹を立てているということも。
突然殺気立ったのもそのせいだろう。

――ベンも同じ気持ちってことよ。
――いざとなったら悪魔に魂売ってでも報復しそうだよな。

セレンとデオの言葉は本当なのだろうか?
ベンはあのシエルという女がそれ程までに大切だというのか。
それは間違っている。
現に今彼と交際しているのは自分だ。
ベンが大切なのは自分――レイチェル・ティーンで、シエル・レメディオスではない。
シエルのはずがない。シエルであっていいわけがない。

「…ベン。ベンが大切なのは私よね?私だけを愛しているのよね?」

恋人の気持ちを強く確認するように問いかける。
それは大多数の確信とほんの少しの疑心からくるものだった。
レイチェルは彼が肯定すると信じていた。
だがこの後彼女は予想外の返答にひどく落胆し、絶望することになる。

「大切な人は一人とは限らない」

茫然自失するレイチェルに構わず、ベンは続ける。

「俺には大切にしたい家族も友人もいる。レイだけ、とは言い難いな。お前もそうだろう」
「そんなのいない…私には、ベンだけよ…!」 

十数秒の間の後、レイチェルは震える声で答えた。
声だけでなく、その肩も、握り締めた両の拳も、薄らと紅く色付いた唇も、鮮やかな緑の瞳も、感情の昂ぶりに比例して震えている。
それが憤りからくるものなのか嘆きからなのか彼女自身にもわからないまま、制御不能な激情に身を任せて咆哮した。

「私は…っ!ベンだけが大切で、ベンさえいればいいの!ベンだって私がいればそれでいいはずよ!どうしてそう思ってくれないの?!私以外に大切な人がいるなんて、そんなの…、そんなの許せない!!」

絶叫と同時に、涙に濡れた目が見開かれる。
ベンは後ろに跳躍してレイチェルから距離を取った。
近くにいたセレンと目配せして臨戦態勢に入る。
ローブに隠されていたレイチェルの右手首が陽の光でキラリと煌めいた。

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