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失意と喪失

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それからのシエルがどんな様子だったのかは、想像に難くない。
まるで肉体から魂が抜けてしまったかのように、目は虚ろで何を言っても言われても表情の変化も返答もなく、まさに抜け殻状態だった。
唇を離して顔を上げたベンがシエルの存在に気づいた時の反応と言ったら、特に慌てる風でもなく罰の悪い顔をするわけでもなく、ただ純粋に驚いて瞠目しただけだった。
動かないシエルの代わりに、セレンがその胸倉を掴んでその頬を思いっきり拳で殴り、罵倒した時はさすがに恨めしい顔でセレンを睨んでいたが、シエルに対して弁解する気は全くないようだった。
セレンは怒りで顔を真っ赤にしたまま、白い肌を更に白くしたシエルの手を引っ張って教室に戻ってきた。
シエルの様子がおかしいのはセレンだけではなく先生も生徒も、普段の彼女を知る者も知らない者も皆気が付く程で、呪いでも受けたのかと心配する言葉までかけられた。
放課後に近づくにつれて徐々にシエルの顔に色が戻ってきたが、その表情からは現実を受け止めて零れそうになる涙を必死で堪えている様子がひしひしと伝わってきて、時間が経てば経つ程更に悲痛さを増していた。
放課後、シエルの心に溜まっているであろう負の感情を少しでも早く吐き出させたくて、セレンは急いで帰り支度をした。
授業が終わっても椅子に座ったまま動こうとしないシエルの腕を掴んでなんとか立ち上がらせると、早足で玄関ホールへ向かう。
本当なら授業なんて放って思い切り泣かせてあげたかったのだが、授業には出たいという意思だったのか、どこにも行きたくないという意思だったのか、シエルが無言で拒否したので様子を見ていたのだ。
授業が終わってするべきことを終えて緊張が緩んだのか、シエルの表情は教室を出てから急速に歪んでいき、玄関に辿り着いた頃には唇を噛みしめて震えていた。
それに気づいたセレンが更に足を速めた時、不運にも校内放送がかかった。

《a組のセレン・ポールソン。校内にいたらB級職員棟まで来るように》

(なんだってこんな時に!知るか知るか!今はそれどころじゃないのよ!)

セレンは舌打ちしながら、放送を聞き流して校舎を出ようとした。
外に出るまであと10歩といった距離だ。
もう校内にいないも同然だ。
そう弁明して足を進めると、自分が掴んでいたものに引っ張られた。
正確にはシエルが立ち止まったことで彼女の腕を掴んでいたセレンが前に進もうとする勢いを殺がれ、結果数歩後退した。
シエルが歩くのを止めたことに気づいたセレンは驚いて振り返った。

「どうしたの?帰らないの?」

俯きがちに立っているシエルに優しく声をかけると、シエルは小さな声で答えた。

「…放送、セレンを呼んでた」

しまった、とセレンは思った。
シエルの性格を忘れていた、と。
どんな、いかなる状況でも、真面目な彼女はしなければならないことから逃避するということを知らない。

「いいのいいの!もう帰るところだし、いないのと同じよ!」
「でも、聞こえてたから行かなきゃ…」

そう訴えるシエルは、うっすらとその目に涙を溜めてはいたが、もう抜け殻ではなかった。

「だけど、そんなことよりシエルの方が大事よ!」

ようやくシエルが彼女らしさを見せたことは嬉しかったが、それよりも何よりもセレンは今シエルの傍にいてあげたかった。
普段ならシエルの正論にすぐに従うのだが、今日は絶対に引き下がらないとセレンは思った。
今ここでシエルを置いていくのは、とても嫌な予感がする。
だが、そんなセレンの決意も虚しく、シエルの無自覚な上目遣いとその言葉に彼女は完全にノックアウトされた。

「私…は、大丈夫。待ってるから…はやく、帰ってきて」

(ああもう!そんな風にお願いされたら行くしかないじゃない!ここで行かなかったら、シエルのことだから私がいたから…なんて自分に責任を感じて落ち込みかねないし…もう、仕方ないわね!)

セレンはわかった、と返事をするとシエルをぎゅっと抱きしめた。

「すぐに戻ってくるから、待っててね!」

そう言って全速力で職員棟に向かって走り去るセレンの背中を、シエルは複雑な気持ちで見送った。

一人になってしまったシエルは、仕方が無いと思いつつもセレンがいなくなったことに寂しさと不安を感じていた。
ずっとそこで待っているのも気が引けて、人の視線から逃れるようにB級棟の裏庭に向かう。
校舎の前で待っていた方がセレンが戻って来たときすぐ見つけてもらえるのだが、そこは人通りが多く、それにA級の生徒もこの校舎を通り過ぎなければ門の外には出られない。
もし自分の見知った男女が通ると思うと、その場所にはとても居られなかった。
裏庭にあるベンチに腰を下ろし、シエルはお昼休みから脳内を占拠している植物園での光景を繰り返し繰り返し考えていた。
ピンキーツリーの下でキスをしていたということは、ベンはレイチェルと生涯を共にする気持ちでいるのだろう。
ならばどうして昨夜あんなことをしたのだろうか。
ベンはとても優しかったし、その瞳からは自分を愛おしく思っているのだと感じられてとても嬉しかった。
けれどもそれは全部嘘だったのだろうか。
カネルに強姦されそうになった自分を慰めるためだけに演じたつくりごとだったのだろうか。

(きっとそうだ…ベンは優しいから、カネルのことを忘れさせるためにしたんだ。だってベン言ってた。俺が忘れさせてやるって。そのためだけだったのに。私のことを好きでそうしたわけじゃなかったのに。私一人で意識して、私一人で浮かれて、バカみたい…)

気が付けば、シエルの目からぽろぽろと涙が零れ落ちていた。
ずっと想いを寄せていたベンに抱かれて、嬉しくないはずがなかった。
これ以上幸せなことなんてないと思えるくらい、幸福感でいっぱいだった。
でもそれはベンが自分のために演じた嘘の姿だった。
自分を愛おしそうに見つめるあの瞳は、全部嘘だったのだ。

(嘘だったとしても、嬉しかった。嬉しかったけど、嘘なら…どうしてあんな目で私を見たの?どうしてあんなに優しい声で私を呼んだの?あんなことされたら、誤解しちゃうよ…。ベンも私が好きなんだって、思っちゃうよ…)

一度溢れた涙は、シエルが瞬きするたびに止め処なく流れて、スカートの上で握り締めた拳にぱたぱたと落ちた。

(ベンは綺麗だって、何にも汚れてないって言ってたけど、あれも嘘なんだ。本当は、私を汚らわしい女だって思ってたんだ。だけど本当のことを言ったら私が傷つくから、そう言って慰めたんだ。本当は触るのだって嫌だったかも知れない。どうして気づかなかったんだろう。ベンは無理していたのに。ベンが本当に好きなのは、レイチェルさんなのに…)

シエルは、声を上げて泣き出したい気持ちをぐっと堪えた。
膝の上の拳をじっと見つめながら、ただひたすらに暴れ出しそうになる自分を抑える。
この気持ちをどうしたらいいのかわからない。
いま座っている自分がこれからどうなるのか、ここからどうすればいいのかもわからない。
今はただ、涙が枯れるまで頬から滴り落ちる雫でスカートを濡らすことしかできなかった。
そのとき、カサカサと草を掻き分けるような音がして、シエルは少し顔を上げた。
セレンが探しに来たのだろうか。
でもこんな状態では、人前に出られない。
きっと目は腫れて顔は浮腫んで、ひどい顔になっているだろう。
涙に混ざって鼻水も垂れているかもしれない。
それにまだ涙が止まる気配はないし、セレンには申し訳ないが落ち着くまで待ってもらおう。
そう思っていたが、現れたのはセレンではなかった。
庭を囲むように植えられた低木の間を縫って来たであろうそれは、小さな猫だった。
金色の艶やかな毛並みをしたその猫は、まっすぐシエルに向かって歩いてきた。
この学院は教員や生徒以外は普通自由に出入りできないように厳重な魔法がかけられている。
それは人間以外の生きものにも同じことで、学院内で飼われている動物や魔法生物以外は例外なく侵入できないはずだった。
もし学院内で飼われている猫だったとしても、敷地内をふらふら歩かせていることは滅多にない。
飼い主が傍にいるのかと思ったが、周りには自分以外人の気配は無い。
一体どこから来たのだろうかと、シエルはその猫を見つめた。
その瞳の色に見覚えがあるような気がして、そこでシエルの記憶は途絶えた。

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