上 下
1 / 41

何気ない朝

しおりを挟む
明け方に枕元で目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、シエルは煩わしさに顔をしかめた。
目を閉じたまま片手で棚を探ってその上に置かれた固いものを捜し当てると、突起した部分を思いきり叩いて押し込んだ。
それと同時に大きな電子音がピタリと鳴り止む。
シエルは再びベッドに沈み込みたい気持ちをどうにか押し止めて、潔く上体を起こした。
ベッドから降り、両手を上に挙げて伸びをすると、数歩歩いてドアノブを掴む。
部屋を出て廊下を進み、リビングに足を踏み入れて僅かに目を瞠る。
光を遮るカーテンは昨夜のままだった。

「姉さんはまだ寝てるのかしら…?」

いつもならシエルよりも早く起きてリビングのカーテンを開け、朝食の準備を始めている姉の姿がない。
珍しく寝坊したのだろうかと、キッチンを通り過ぎて洗面所に向かった時、微かに人の声のようなものが聞こえた。
なんだか気になって、足を止めて耳を澄ませる。
どうやらその声は洗面所の方から聞こえてきているようだった。

(顔を洗っているのかな?)

朝に強い姉が未だベッドの中で眠っているとは思えなかったシエルは、その予想に一人納得して中を覗いた。
しかし、予想に反し姉の姿はない。
おかしいな…と首を傾げると、また声のような音が聞こえた。
今度は近く感じたが人影はない。
再び疑問符を頭に浮かべた直後、明らかに女性と思われる声がはっきりと聞こえてきて、シエルは反射的に振り返る。
浴室のドアに塡め込まれた磨りガラスの向こうに、誰かがいる。
恐らく姉だと思うのだが、シエルは何故か確信が持てなかった。
朝にシャワーを浴びることは珍しくも何ともないのだが、その奥にいるのが彼女一人だけではないような気がしたのだ。
まるでシエルの直感が正解だと言わんばかりのタイミングで、男性と思しき声もした。
どこか笑みを含んだような、何かを面白がっているように聞こえる。
その声と被るように、女性の声が響く。

「!」

それが喘ぎ声だと気付いたシエルは体を強張らせた。
だがすぐにここにいてはいけないという危機感を覚えて後退る。
視線を浴室のドアに集中させたままだったので、シエルは突如として現れたもう一人の存在に気付かなかった。
洗面所のドアの傍まで後退した時、背中に壁にしては柔らかい何かにぶつかって思わず声を上げそうになった。
なんとか堪えて振り返ってみると、そこにいたのはこの家に居候している幼馴染の青年だった。

「ベ、ベン…」
「? そこで何してるんだ?」
「シー!!」

何も知らないベンが怪訝な顔をして尋ねてきたが、声を出してはいけないと慌てて口を押さえる。
リビングに戻って説明しようと彼を洗面所から押し出す途中で、シエルの努力虚しく大きな声が響いた。

「や…ッ、ああんッ!!」
「「!!」」
「クク……ンな声出したら、誰かに聞こえるぜ?」
「いやぁ…エリック…あっ、あんッ、あぁ…っ」

2人がそういう関係だということは随分前から知っていたが、それにしても早朝からだなんてお盛んすぎやしないだろうか。
シエルが推察するに、姉は拒否したが強引なエリックに押し切られてなし崩しになってしまったのだろう。
姉のリアの恋人でシエルにとってはお兄さん的存在の彼は、普段冷静で頭のキレる優秀な男なのだがそういう行為に関しては見境がない。
年齢的にも性欲真っ盛りで、姉を愛するが故の行動であることは確かだとしても、少しは時間や場所を選んで気遣ってほしい。
姉の体のことも、同居人のことも。
シエルはもう隠す気のない情事の生々しい音に、それも少なからず好意を抱いている異性と一緒にそれを聞いている状況に硬直してしまった。
凍りついた筋肉とは裏腹に、心臓も腹も顔も火が出そうなほどに熱を持ち始める。

(ベンは…どんな気持ちでいるんだろう…)

先程から一言も発さないベンにちらりと視線を送る。
彼はシエルのように動揺しているようには見受けられず、顔色も態度も特に変化がなかった。
あんな会話と言えるのかどうか疑問な会話を聞いて、どうしてこうも冷静でいられるのかとシエルは混乱する。
意識しているのは自分だけな気がして恥ずかしい。
気まずさから目を逸らそうとした時、ベンと視線がぶつかった。
盗み見ていたことがバレてしまい、シエルは耳まで赤くなって俯く。
そんな彼女の様子を見て――意外にもベンは何も言わなかった。
そっと彼女の腕を取ると、驚いているシエルを無視して洗面所を出る。
ドアを閉めてリビングまで来れば2人の声はただの物音になった。
半ば放心状態になっていたシエルは、カーテンを開く音ではっと我に返った。
いつの間に移動したのか、ベンが気怠げな様子で室内のカーテンを開けていく。
薄暗かった部屋に白い光が差し込んで家具の影が伸びる。
初夏の太陽の眩しさに耐えきれず、ベンは逃げるように背を向けた。
そうして先程いた場所から微動だにせずじっとこちらを見つめているシエルに気が付く。

「…なんだ?」
「あ…その…今日は早かったね?起きるの…」

ベンはこの家の中で一番朝が弱い。
いつもはもっと陽が昇ってから、妹弟達が起きた後に不機嫌そうな顔でリビングへやってくる。
そんな彼がこんなに早く起きてくるのが珍しくて動揺を隠しついでに尋ねると、「ああ」と短い返事をした後で思い出したかのように欠伸をした。

「今日は寝てないからな…」
「え?! 寝ていないってどういうこと?」
「課題をやってたらいつの間にか朝だった」

思わず前のめりになって聞き返すと、ベンはもう一度欠伸をして、どこか疲れた様子でソファに腰を下ろした。
今になって眠気がきたのか横になって仰向けに寝る体勢をとると、額に腕を乗せて顰め面で双眸を閉じた。
シエルはベンの体調が気にかかって、傍にあったひざ掛けを体にかけて心配そうに見つめた。
何か気の利いた言葉をかけてあげたいが、彼にとっては自分の言葉など気休めにもならないような気がして勇気が出ない。
シエルの気配が自分の傍から動かないことに気付いていたベンは、少しだけ瞼を上げた。

「朝飯、作らないのか?」

シエルと視線を合わせた後で誘導するように時計を一瞥すると、彼女はその針の位置に気付いて慌てて立ち上がる。

「大変!」

時刻は5時になろうとしていた。
これから家族7人分の朝食と、7人分のお弁当を作らなくてはならない。
食事の後の後片付けや学校へ行く準備もある。
シエルはベンの目論見通りに小走りでキッチンに向かい、急いで準備を始めた。

リアが調理に参戦したのは6時近くになってからだった。
心なしか頬を上気させ、悩ましげにその目を潤ませて「禁欲よ禁欲!」等と愚痴をこぼしながらキッチンに入ってくる。
それが誰に対してであるのかは、聞かなくてもわかった。

「ごめんねシエル。ほとんど準備させちゃって…」

リアが申し訳ない気持ちを顔いっぱいに表して、シエルが下ごしらえを整えたささみチーズフライを油で揚げていく。
シエルは姉に起こった災難に同情して柔らかな笑みを返した。

「気にしないで。仕方ないよ」
「本当にごめんなさい。…まったくエリックったら何も朝からあんなこと…」

何かごにょごにょと言いながらも頬をじわじわと高潮させる姉を横目に見て苦笑する。
いまの彼女をエリックが見たら、きっと嫌と言うほどからかい倒して、ところもギャラリーにも構わず手を出すに違いない。
シエルは時々この2人が早く結婚してしまえばいいのにと思うことがあった。
恋仲になるのが早かったので交際期間はもう6年近くになるし、そろそろ結婚をして2人だけの素敵な家を建てて暮らせばいい。
そうすれば誰にも遠慮する必要はないし、エリックも思う存分好き放題にできるというものだ。
それに何より、自分が気を遣うこともない。

(今朝みたいなことがまたあるかも知れないと思うと、気が気じゃないというか…)

仲が良いのは嬉しいことなのだが複雑な気持ちになって、シエルははぁと溜め息を吐いた。
そのすぐ後ろでサラダにかけるドレッシングを作っていたリアが振り返る。

「シエル、どうかしたの?」
「あ、ううん、何でもないの…」

誤魔化すように微笑むと、リアは不思議そうにしながらも一旦は納得することにしたようだった。

「そうだシエル…最近変わったことはない?」
「え…変わったこと?」
「うん」
「特に、ないけど…」

どうして?と尋ねると、リアは先程のシエルのように曖昧に微笑んだ。

「何もないならいいわ。気にしないで」

気にしないでと言われると余計に気になる。
だがリアに話す気はないようで、彼女の気持ちを尊重したシエルも何も追求しなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

所詮は他人事と言われたので他人になります!婚約者も親友も見捨てることにした私は好きに生きます!

ユウ
恋愛
辺境伯爵令嬢のリーゼロッテは幼馴染と婚約者に悩まされてきた。 幼馴染で親友であるアグネスは侯爵令嬢であり王太子殿下の婚約者ということもあり幼少期から王命によりサポートを頼まれていた。 婚約者である伯爵家の令息は従妹であるアグネスを大事にするあまり、婚約者であるサリオンも優先するのはアグネスだった。 王太子妃になるアグネスを優先することを了承ていたし、大事な友人と婚約者を愛していたし、尊敬もしていた。 しかしその関係に亀裂が生じたのは一人の女子生徒によるものだった。 貴族でもない平民の少女が特待生としてに入り王太子殿下と懇意だったことでアグネスはきつく当たり、婚約者も同調したのだが、相手は平民の少女。 遠回しに二人を注意するも‥ 「所詮あなたは他人だもの!」 「部外者がしゃしゃりでるな!」 十年以上も尽くしてきた二人の心のない言葉に愛想を尽かしたのだ。 「所詮私は他人でしかないので本当の赤の他人になりましょう」 関係を断ったリーゼロッテは国を出て隣国で生きていくことを決めたのだが… 一方リーゼロッテが学園から姿を消したことで二人は王家からも責められ、孤立してしまうのだった。 なんとか学園に連れ戻そうと試みるのだが…

茶番には付き合っていられません

わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。 婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。 これではまるで私の方が邪魔者だ。 苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。 どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。 彼が何をしたいのかさっぱり分からない。 もうこんな茶番に付き合っていられない。 そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。

私のバラ色ではない人生

野村にれ
恋愛
ララシャ・ロアンスラー公爵令嬢は、クロンデール王国の王太子殿下の婚約者だった。 だが、隣国であるピデム王国の第二王子に見初められて、婚約が解消になってしまった。 そして、後任にされたのが妹であるソアリス・ロアンスラーである。 ソアリスは王太子妃になりたくもなければ、王太子妃にも相応しくないと自負していた。 だが、ロアンスラー公爵家としても責任を取らなければならず、 既に高位貴族の令嬢たちは婚約者がいたり、結婚している。 ソアリスは不本意ながらも嫁ぐことになってしまう。

私が産まれる前に消えた父親が、隣国の皇帝陛下だなんて聞いてない

丙 あかり
ファンタジー
 ハミルトン侯爵家のアリスはレノワール王国でも有数の優秀な魔法士で、王立学園卒業後には婚約者である王太子との結婚が決まっていた。  しかし、王立学園の卒業記念パーティーの日、アリスは王太子から婚約破棄を言い渡される。  王太子が寵愛する伯爵令嬢にアリスが嫌がらせをし、さらに魔法士としては禁忌である『魔法を使用した通貨偽造』という理由で。    身に覚えがないと言うアリスの言葉に王太子は耳を貸さず、国外追放を言い渡す。    翌日、アリスは実父を頼って隣国・グランディエ帝国へ出発。  パーティーでアリスを助けてくれた帝国の貴族・エリックも何故か同行することに。  祖父のハミルトン侯爵は爵位を返上して王都から姿を消した。  アリスを追い出せたと喜ぶ王太子だが、激怒した国王に吹っ飛ばされた。  「この馬鹿息子が!お前は帝国を敵にまわすつもりか!!」    一方、帝国で仰々しく迎えられて困惑するアリスは告げられるのだった。   「さあ、貴女のお父君ーー皇帝陛下のもとへお連れ致しますよ、お姫様」と。 ****** 週3日更新です。  

悪意か、善意か、破滅か

野村にれ
恋愛
婚約者が別の令嬢に恋をして、婚約を破棄されたエルム・フォンターナ伯爵令嬢。 婚約者とその想い人が自殺を図ったことで、美談とされて、 悪意に晒されたエルムと、家族も一緒に爵位を返上してアジェル王国を去った。 その後、アジェル王国では、徐々に異変が起こり始める。

婚約解消して次期辺境伯に嫁いでみた

cyaru
恋愛
一目惚れで婚約を申し込まれたキュレット伯爵家のソシャリー。 お相手はボラツク侯爵家の次期当主ケイン。眉目秀麗でこれまで数多くの縁談が女性側から持ち込まれてきたがケインは女性には興味がないようで18歳になっても婚約者は今までいなかった。 婚約をした時は良かったのだが、問題は1か月に起きた。 過去にボラツク侯爵家から放逐された侯爵の妹が亡くなった。放っておけばいいのに侯爵は簡素な葬儀も行ったのだが、亡くなった妹の娘が牧師と共にやってきた。若い頃の妹にそっくりな娘はロザリア。 ボラツク侯爵家はロザリアを引き取り面倒を見ることを決定した。 婚約の時にはなかったがロザリアが独り立ちできる状態までが期間。 明らかにソシャリーが嫁げば、ロザリアがもれなくついてくる。 「マジか…」ソシャリーは心から遠慮したいと願う。 そして婚約者同士の距離を縮め、お互いの考えを語り合う場が月に数回設けられるようになったが、全てにもれなくロザリアがついてくる。 茶会に観劇、誕生日の贈り物もロザリアに買ったものを譲ってあげると謎の善意を押し売り。夜会もケインがエスコートしダンスを踊るのはロザリア。 幾度となく抗議を受け、ケインは考えを改めると誓ってくれたが本当に考えを改めたのか。改めていれば婚約は継続、そうでなければ解消だがソシャリーも年齢的に次を決めておかないと家のお荷物になってしまう。 「こちらは嫁いでくれるならそれに越したことはない」と父が用意をしてくれたのは「自分の責任なので面倒を見ている子の数は35」という次期辺境伯だった?! ★↑例の如く恐ろしく省略してます。 ★9月14日投稿開始、完結は9月16日です。 ★コメントの返信は遅いです。 ★タグが勝手すぎる!と思う方。ごめんなさい。検索してもヒットしないよう工夫してます。 ♡注意事項~この話を読む前に~♡ ※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。【妄想史であり世界史ではない】事をご理解ください。登場人物、場所全て架空です。 ※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。 ※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。 ※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。 ※話の基幹、伏線に関わる文言についてのご指摘は申し訳ないですが受けられません

戻る場所がなくなったようなので別人として生きます

しゃーりん
恋愛
医療院で目が覚めて、新聞を見ると自分が死んだ記事が載っていた。 子爵令嬢だったリアンヌは公爵令息ジョーダンから猛アプローチを受け、結婚していた。 しかし、結婚生活は幸せではなかった。嫌がらせを受ける日々。子供に会えない日々。 そしてとうとう攫われ、襲われ、森に捨てられたらしい。 見つかったという遺体が自分に似ていて死んだと思われたのか、別人とわかっていて死んだことにされたのか。 でももう夫の元に戻る必要はない。そのことにホッとした。 リアンヌは別人として新しい人生を生きることにするというお話です。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

処理中です...