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アリタユズル、あるいは大人とガキの間に居座るタブー。
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しおりを挟む(こんな関係、もう我慢出来ない)
はっと、奈義の顔色が変わった。唇、震わせて何かを叫んだ。
でも、俺の耳には何も聞こえない。
「もう、歌えない」
(奈義の音じゃなきゃ、我慢出来ない)
「俺────」
ふっ、と視界が暗くなる。釣られて見上げたら、奈義の無精髭が見えた。次の瞬間、俺は奈義に顔を殴られて、床に倒れていた。
「鳴海、本気で言ってんのか?」
怒りに染まった低い声でさえ、俺には媚薬だ。じんじんと心が痺れていく。頬が熱い。殴られたところに新しい心臓が脈打っている。
「俺を馬鹿にしてんのかよ!! 今さら、四年も経ってこんな馬鹿げた終わり方でさよならなんて出来ると思ってんの!? 俺は、鳴海と……頂点取りたかったんだよ! 土屋真幸に────鳴海と二人なら勝てるって思ってたのに……っ!!!」
ぱたた、と温い水が降って来た。
(……奈義)
俺は手を伸ばす。俺の上に馬乗りになって、静かに泣いている奈義のこけた頬に触れた。
「……触んな……」
爪を立てて手を引き剥がそうとする奈義に俺は笑う。
「俺、奈義が好きだよ」
射殺すような眼で睨まれても、俺の胸にふつふつと沸き上がるのはどうしようもない愛しさだった。
「奈義が好きだよ。頭ん中、馬鹿になるくらい好き」
奈義の爪が、ぐりっと俺の手の甲に突き刺さる。赤い血が滲む。ぽわりと穏やかな熱を感じた。
痛くないから、これは現実じゃないのかもしれない。
「……ごめんな。振り回して。こんな馬鹿、相手にさせて。俺のわがままで四年も付き合わせて。ごめん。ごめんなさい。ごめ……っ」
「────やめろ。ナル」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん、もう、やなんだ……。俺が、やなんだ。苦しくて、苦しくて、怖くて、このままじゃ……気が狂いそうで」
「────鳴海……」
ふ、と奈義の体から力が抜ける。手の平を反して、爪痕を乾いた指の腹で愛撫され、俺の身体に電気が走った。
「お前、疲れてんだろう。馬鹿なこと言ってないでさっさと寝────」
皆まで言わせないで、俺は奈義の唇に自分の唇を押しつける。
空白。
驚きすぎて固まった奈義の下で半身を起こし、真っ直ぐに奈義を見つめる。
なかったことにはしたくなかった。大人な奈義とは違って、八歳も年が離れてる俺と奈義じゃ、どう逆立ちしたって俺は死ぬまでガキのままだ。だけど、俺の気持ちは、なかったことには出来ない。思い通りにはならないことも、奈義に受け入れてもらえないことも承知していた。
「……こんな俺なんか、もう捨てていいよ。奈義。俺に縛られないで────俺、奈義が好きだから。奈義の音、好きだから、俺なんかのレベルに合わせなかったら奈義はもっと上を目指せるよ」
本当は、離れたくない。このままがいい。でも、いつまでもそうは言ってられない。結果が出ないバンドをいつまでも事務所が取ってくれるわけじゃない。
(四枚目、売れなかったら?)
怖いんだ。たとえあの土屋真幸が曲を書いても、俺なんかの歌じゃ、売れないんじゃないかって。そうやって、奈義を潰して、あの土屋真幸までも潰すはめになったら、俺は――。
「……はは、」
低い、笑い声。
奈義の肩が震えている。
「奈、義?」
「俺がお前を捨てる……? 違うだろ、ナル」
「え」
「お前が俺を捨てるんだろう」
子供に言い聞かせるようにはっきりと大きな声で奈義は続けた。馬鹿な俺に、諭すように。
「土屋真幸に会ったんだろう。だから、こんなことを言い出すんだ……そうだな?」
奈義は視線を落とし、小さく息を吐いた。一瞬、全てを悟ったみたいな澄んだ目をしたのが見えた。だけど、違った。
小さく諦めたんだ。
奈義はきっと今までそうやって生きてきた。土屋真幸が手に入れれば手に入れたぶんだけ、奈義は諦めてきた。仕事も、夢も。
「俺とは歌えないけど、土屋真幸となら歌えるのか……」
奈義の手が、するりと俺の腕を滑り降りて来る。
「……奈義……?」
「あの男が、どういう奴かお前は何もわかってない!」
「っ、あ」
肩を掴まれ、そのまま床に押さえ付けられる。衝撃に後頭部をぶつけて、目が眩んだ。
「あの男に壊されるのは、アリタユズルだけで充分なんだ!」
(……誰? アリタユズル?)
その名前は、どこかで聞いたことがあった。どこでだか思い出せない。でも、俺は、その名前を知っている。
「……俺が好きだって言ったな?」
奈義の瞳に暗い光が宿った。自嘲ぎみに引きつった笑いを浮かべて、奈義の顔が近付く。
「好きだよ」
迷いもなく俺は告げる。だって、嘘をついたってしょうがない。
「……どれくらい?」
「……量で測れんのか、そんなの」
「どれくらい俺のこと好きなんだよ」
それ以上近付かないで。勘違いしてしまう。
(受け入れないで。許さないで。愛さないで。こんな俺なんか)
そう思うのに、心は期待で溢れかえる。
近付いて。抱き締めて。許して。愛して。
「……そう、だな。たとえば……このまま死んでもいいくらい」
「死んでも? 俺に殺されても?」
「いいよ。別に」
「本当に……?」
大好きで、大きな、錆び付いた指先が俺の首に食い込んだ。
「俺に殺されてもいいくらい────ナルは俺が好き?」
ぐっ、と指が肉に沈んでいく。
俺は、もう疲れて何かを考えることさえ放棄したかった。こんな苦しくて辛い感情なんかいらなかった。
俺たちは、お互いが永遠なんてものを信用してこなかったから、保障がない未来なんて、怖すぎてしかたなかったんだ。
臆病で、お互いを信じることさえ、出来なくて。
ただ、訳も分からず、求めてる。
空っぽの穴を埋める何か。がらんどうの身体を埋める何か。すかすかで足りなくて哀しくて伸ばした手は届かなくて、虚しさを噛み締めながらそれでも求めてやまない、何かを。
「………っ」
俺は、奈義の抱えている闇を知っていた。知りながら気付かないふりをして、馬鹿な道化を演じて、そんな自分に疲れ切ってしまった。
本当はずっと、ずっと知りたかった。
(俺は────本当のパートナーに、ずっとずっとなりたかったんだよ、奈義……)
俺は卑怯だった。
一番楽な方法で奈義を縛ろうとしている。この線を越えたら、二度と戻れない闇に奈義を引き摺り込もうと────。
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