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「岩城さん起きてる?」
「ああ」
背中に杏子の声がかかる。
酒も入ってるし、いろいろあったから疲れてもいるのに、ぜんぜん眠れるそうにない。
ソファで寝そべる杏子が、寝返りをうつ気配がした。なんとなく、布団で寝る俺を見ている気がした。
彼女の方を向きたい衝動を抑える。この状況で、杏子の姿を視界に入れるのは危険だ。目に毒なんてものじゃない。
杏子はしっとりとした声で、話を続けた。
「このソファ、寝心地悪いね」
「だから俺がそっちで寝るってば」
「ダメだよ、体痛めちゃうよ」
二人がけの安物のソファは、背の高い杏子からすれば、窮屈極まりないだろう。
はあ、ベッドをあの面倒な上司に占領されなければ、こんな状況にならずに済んだのに。
また杏子が動く気配がした。フローリングの床に足がつく音がした。トイレか飲み物かと思ったが、あろうことかこちらに近づいてくる。
そして俺が何か言う前に、彼女は布団に潜り込んできた。
「ちょ!?なにやってんだよ?」
「だって寝れないんだもん」
「わ、わかったよ、やっぱり俺がソファに…」
「だーめ」
布団からはい出ようとする俺を、杏子は両手で抱きとめた。背中にあたる柔らかな感触が、俺の抵抗する気力を削ぐ。
いつかのように、俺のつむじを彼女の呼気がくすぐる。
ハイビートで稼働する心臓が送り出す血液は、脳ではなく下半身に集まり、理性をぐらんぐらんに揺らす。
「朝になってあいつにこんなとこ見られたら、言い訳がきかないんだけど…」
「じゃあアタシが眠るまでここにいて」
百歩譲ってそれはいいが、頼むからそんな甘えた声を出さないでほしい。
俺はため息に見せかけた深呼吸をひとつつき、理性という名の兵糧でしのぐ籠城戦に備えた。ちなみに、戦況はかなり悪い。
そんな俺に追い打ちをかけるように、杏子がまた甘えを含んだ声で告げた。
「ありがとね」
「な、なにが?」
「いろいろ、地田を追っ払ってくれたこととか、泊めてくれたこととか、いつもごはん奢ってくれることとか、いろいろ」
「そんなの、たいしたことじゃない」
「たいしたことだよ、そうそう、料亭のときの岩城さんイケてたよ、ちょっとムラムラしちゃった」
「はは、そりゃどーも」
俺を抱きとめる彼女の左腕がすこしだけ収縮し、さらに密着した。
「ありがと」
彼女はまたお礼を言った。そして一呼吸おいて、二の句を継いだ。
「アタシのパパになってくれて」
この子は、いったいなにを言ってるんだ?
もしかしたら、あの日、彼女と出会っていなくても、俺は生き延びたかもしれない。電車の汽笛の音に怯え、寸前で踏みとどまった可能性もある。
仮にそうなったとして、そのあとはどうなっただろう。
たぶん、何事もなかったかのように、あの会社で働き続けていただろうな。そしてしばらく経って、こんどは修復不可能なくらい、複雑に折れて、人生を詰ませたかもしれない。
彼女が、杏子がいたから、こうしてなんだかんだで楽しく過ごせているんだ。
情けなく尊厳にすがりつく俺を、容赦無く叩き折ってくれたから、会社を辞める決心がついた。
必要もない恐怖に煽られ、耳を塞いでいた俺を、優しく抱きとめてくれたから、あのエリアマネージャーに立ち向かうことができた。
とことん人生を歩むのが下手な俺の手を取り、グイグイと引っ張ってくれる杏子に、太陽を直視するような眩さを覚え、痛烈に憧れたからこそ、少しでも彼女の隣にふさわしい男になりたいと願った。
杏子に命を拾われ、心を救われた。杏子に恋をし、同時に父のような情愛を持ち、そして、まるでヒーローを目にした幼子のような憧憬を抱いた。
その全てが、俺を大きく変えてくれたんだ。
本当に、この子は何を言ってるんだか…いくら感謝してもしきれないのは俺の方だってのに。
こんな風に、胸いっぱいの感情で返事につまり、長考しているうちに、彼女の寝息が聞こえた。つくづく、締まらないおっさんだ。
俺は彼女の腕をほどいて、半身を起こして起き上がり、スヤスヤと眠る寝顔を眺めた。
さっきまでは湧き上がる性欲に脳が溶けそうになっていたが、いまは不思議と落ち着いている。同時に、なにかが締め付けるように心臓にまとわりついて、痛かった。
その痛みに突き動かされて、自然と俺の手は杏子の銀髪に伸びる。さらさらとした髪を、ありったけの繊細さで撫でると、痛みはよりいっそう強くなる。
「俺の方こそ、ありがとう」
さんざん考えたっていうのに、俺の口から出た言葉はいたって月並みなものだった。
言葉って、あんがい役に立たないもんだよな。
「ああ」
背中に杏子の声がかかる。
酒も入ってるし、いろいろあったから疲れてもいるのに、ぜんぜん眠れるそうにない。
ソファで寝そべる杏子が、寝返りをうつ気配がした。なんとなく、布団で寝る俺を見ている気がした。
彼女の方を向きたい衝動を抑える。この状況で、杏子の姿を視界に入れるのは危険だ。目に毒なんてものじゃない。
杏子はしっとりとした声で、話を続けた。
「このソファ、寝心地悪いね」
「だから俺がそっちで寝るってば」
「ダメだよ、体痛めちゃうよ」
二人がけの安物のソファは、背の高い杏子からすれば、窮屈極まりないだろう。
はあ、ベッドをあの面倒な上司に占領されなければ、こんな状況にならずに済んだのに。
また杏子が動く気配がした。フローリングの床に足がつく音がした。トイレか飲み物かと思ったが、あろうことかこちらに近づいてくる。
そして俺が何か言う前に、彼女は布団に潜り込んできた。
「ちょ!?なにやってんだよ?」
「だって寝れないんだもん」
「わ、わかったよ、やっぱり俺がソファに…」
「だーめ」
布団からはい出ようとする俺を、杏子は両手で抱きとめた。背中にあたる柔らかな感触が、俺の抵抗する気力を削ぐ。
いつかのように、俺のつむじを彼女の呼気がくすぐる。
ハイビートで稼働する心臓が送り出す血液は、脳ではなく下半身に集まり、理性をぐらんぐらんに揺らす。
「朝になってあいつにこんなとこ見られたら、言い訳がきかないんだけど…」
「じゃあアタシが眠るまでここにいて」
百歩譲ってそれはいいが、頼むからそんな甘えた声を出さないでほしい。
俺はため息に見せかけた深呼吸をひとつつき、理性という名の兵糧でしのぐ籠城戦に備えた。ちなみに、戦況はかなり悪い。
そんな俺に追い打ちをかけるように、杏子がまた甘えを含んだ声で告げた。
「ありがとね」
「な、なにが?」
「いろいろ、地田を追っ払ってくれたこととか、泊めてくれたこととか、いつもごはん奢ってくれることとか、いろいろ」
「そんなの、たいしたことじゃない」
「たいしたことだよ、そうそう、料亭のときの岩城さんイケてたよ、ちょっとムラムラしちゃった」
「はは、そりゃどーも」
俺を抱きとめる彼女の左腕がすこしだけ収縮し、さらに密着した。
「ありがと」
彼女はまたお礼を言った。そして一呼吸おいて、二の句を継いだ。
「アタシのパパになってくれて」
この子は、いったいなにを言ってるんだ?
もしかしたら、あの日、彼女と出会っていなくても、俺は生き延びたかもしれない。電車の汽笛の音に怯え、寸前で踏みとどまった可能性もある。
仮にそうなったとして、そのあとはどうなっただろう。
たぶん、何事もなかったかのように、あの会社で働き続けていただろうな。そしてしばらく経って、こんどは修復不可能なくらい、複雑に折れて、人生を詰ませたかもしれない。
彼女が、杏子がいたから、こうしてなんだかんだで楽しく過ごせているんだ。
情けなく尊厳にすがりつく俺を、容赦無く叩き折ってくれたから、会社を辞める決心がついた。
必要もない恐怖に煽られ、耳を塞いでいた俺を、優しく抱きとめてくれたから、あのエリアマネージャーに立ち向かうことができた。
とことん人生を歩むのが下手な俺の手を取り、グイグイと引っ張ってくれる杏子に、太陽を直視するような眩さを覚え、痛烈に憧れたからこそ、少しでも彼女の隣にふさわしい男になりたいと願った。
杏子に命を拾われ、心を救われた。杏子に恋をし、同時に父のような情愛を持ち、そして、まるでヒーローを目にした幼子のような憧憬を抱いた。
その全てが、俺を大きく変えてくれたんだ。
本当に、この子は何を言ってるんだか…いくら感謝してもしきれないのは俺の方だってのに。
こんな風に、胸いっぱいの感情で返事につまり、長考しているうちに、彼女の寝息が聞こえた。つくづく、締まらないおっさんだ。
俺は彼女の腕をほどいて、半身を起こして起き上がり、スヤスヤと眠る寝顔を眺めた。
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その痛みに突き動かされて、自然と俺の手は杏子の銀髪に伸びる。さらさらとした髪を、ありったけの繊細さで撫でると、痛みはよりいっそう強くなる。
「俺の方こそ、ありがとう」
さんざん考えたっていうのに、俺の口から出た言葉はいたって月並みなものだった。
言葉って、あんがい役に立たないもんだよな。
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