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36. 恐らく心因性のもの
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ミレーユをドラポルト邸に迎え入れてから三週間が過ぎ、ようやく生活も落ち着いてきた。
なにも知らされていなかった使用人たちは、当初は驚きと困惑の表情を見せたものの、純真無垢で明るいミレーユと触れ合っているうちにだんだんほだされていき、今では「若奥様」「若奥様」と親しみを込めて呼び、すっかり馴染んでいる。
衣装や小物はエドガールの亡き母のものが役立った。驚くべきことに、亡母とミレーユの体のサイズはぴったりで、肌着からドレスまでのすべてがミレーユの体に馴染んだ。
古いものばかりですまない、とエドガールが謝ると、ミレーユは「古いものは大好きだし、うまく裁縫して直すのも楽しい」とうれしそうに笑った。
小説の稿料が入ったら、ミレーユのために新しいドレスを買おうと、エドガールは心に誓う。
北のほうで猛威を振るっていたノールストームは収まり、とっくに雪も溶けて動けるようになったはずだが、シャロワ伯爵から追手がかかるどころか、なんの音沙汰もなかった。
シャロワ一族は二人の駆け落ちを認めたんだろうか?
いや、とてもそうは思えない。エドガールに向け、なんらかの報復措置はあるはずだ。
しかし、北のほうではウンともスンとも動きがなかった。ミレーユが駆け落ちしたという情報も一切漏らされていない。それはもう静かすぎて怖いほどだ。
エドガールはシャロワ伯爵領内の情報に耳をそばだててはいるが、特にあちらからなにかされない限り、慎ましく暮らしていくつもりだった。ミレーユ自身が望んだこととはいえ、彼女をさらうような真似をしたわけだし、一人の男として罪悪感は当然ある。相手が人狼一族という敵対勢力だとしても。
もしこの先、ミレーユとの結婚生活がうまくいったなら、この人生で人狼を追い回すのは金輪際止めようと、エドガールは内心そう誓っていた。
ミレーユと始めた新生活はいくつかの点を除けば、おおむねうまくやっている。
これまでのドラポルト邸は三十路男の独身住まいにふさわしく、どこかジメッとして陰気臭くて薄暗く、まるでエドガールの性格そのもののような有り様だった。それが、ミレーユが来てからはパッと大輪の花が咲いたようで、急に邸内が明るくまぶしく清潔になった感じがする。
ミレーユが無類の掃除好きというのも大きな要因だった。これまで放ったらかしだった、カビ臭くほこりまみれの開かずの間たちが次々と開放され、隅々まで磨かれて爽やかな風が通され、まるで新築かのように生まれ変わっていく。
「だって、掃除はすべての基本ですもの! エドガールが気持ちよく仕事できるよう、私、少しでも役に立ちたいです」
ミレーユはまっすぐな目でそう言って、可憐に微笑んだ。
使用人たちもミレーユのやりたいことを承知したらしく、従順に彼女を手伝い、協力を惜しまずに手を貸している。そりゃあそうだろう。いつも不機嫌そうに鬱々と引きこもり、うだつの上がらぬ三十路の主人の言うことを聞くより、若くて可愛くて素直な美女を主人と崇めたほうがいいに決まっている。
このことについて、エドガールは使用人たちに一言言ってやりたい気もしないでもないが、とりあえず黙っていることにした。ミレーユがこの屋敷の住人たちと馴染むのはよいことだし、自分とミレーユを比べたら、ミレーユのほうについていきたい気持ちがわかるからだ。
シャロワ伯爵の沈黙は不気味ではあるが、今のところなにも問題はない。
なにも問題はないはずだった。
ただ一つ、老執事ベルナールの存在を除いては。
くっそぉぉぉ! ベルナールの奴め! 僕の強力散弾銃でハチの巣にしたあと、穴掘って埋めてやりたい……
その夜、エドガールは自室にしつらえたデスクにつき、必死でペンを走らせながら、ひたすらベルナールを呪っていた。
デスクには書類の山が積まれている。エドガールがテールブランシェの調査に行っている間、溜まりに溜まった事務仕事だった。領民からの陳情だの、議会からの招集だの、報告書の督促だの、騎士団からの調査依頼だの、ワケもわからず仕分けもされずゴチャゴチャに積まれている。あらゆる階級の人が勝手なことを書き散らし、エドガールにああしろこうしろと一方的に投げつけてくるみたいだ。
エドガールはまるで世界のゴミ捨て場になったような気分だった。
まずはそれらを一つ一つ拾い上げ、開封して内容に目を通すだけでひと苦労だ。
原稿の督促と執筆依頼も殺到していた。特に売れっ子ではないのだが、猟奇・オカルト・ホラーというものを書ける作家が……つまり、世に生息している変態の数が少なく、さして筆力のないエドガールにも白羽の矢が立つのだ。
というわけで、エドガールは昼も夜もデスクにかじりつき、地道に一つ一つどうにか優先順位をつけ、目を吊り上げながら孤軍奮闘していた。
実はエドガールがこんなにイライラしているのは忙しさのせいだけではなく、とある重大な理由がある。
「坊ちゃま、正気ですか? こんなことでは亡き旦那様が草葉の陰で泣いておりますぞ」
侮蔑を露わにした顔でそう言い放ったのは、老ベルナール執事だった。
「ようやく黒煙騎士団員としての使命に目覚めたのかと思ったら、重大な任務を放り出した挙句、ええ歳こいてうら若き乙女に血道をあげ、あまつさえその令嬢をさらってくるとは……。いやはや、坊ちゃま。昔から、陰気で偏屈で引きこもりがちで、神話だの伝承だの変なモノにしか興味を示さず、これこそ生粋の変態だとは重々存じておりましたが、それでも一応男爵家嫡男として先祖の掟を守ろうとし、抜けているながらも領主として領民のために尽くそうとし、下手くそながらも読者のために少しでもマシな原稿を書こうと努力されている姿は、このベルナールもまあまあ評価しておりましたのに!」
普段寡黙なこの老執事は、主人であるエドガールをけなすときだけ弁舌が超滑らかになる。
「見損ないましたぞっ! 坊ちゃま!」
まるで世界一忌まわしい汚物でも見るような目で、ベルナールは一喝した。
このときエドガールは、自分のこめかみがピクピクッと痙攣するのを感じていた。
これは恐らく心因性のものだろう。精神に大きな負担がかかると、こんな風にこめかみが痙攣する……
なにも知らされていなかった使用人たちは、当初は驚きと困惑の表情を見せたものの、純真無垢で明るいミレーユと触れ合っているうちにだんだんほだされていき、今では「若奥様」「若奥様」と親しみを込めて呼び、すっかり馴染んでいる。
衣装や小物はエドガールの亡き母のものが役立った。驚くべきことに、亡母とミレーユの体のサイズはぴったりで、肌着からドレスまでのすべてがミレーユの体に馴染んだ。
古いものばかりですまない、とエドガールが謝ると、ミレーユは「古いものは大好きだし、うまく裁縫して直すのも楽しい」とうれしそうに笑った。
小説の稿料が入ったら、ミレーユのために新しいドレスを買おうと、エドガールは心に誓う。
北のほうで猛威を振るっていたノールストームは収まり、とっくに雪も溶けて動けるようになったはずだが、シャロワ伯爵から追手がかかるどころか、なんの音沙汰もなかった。
シャロワ一族は二人の駆け落ちを認めたんだろうか?
いや、とてもそうは思えない。エドガールに向け、なんらかの報復措置はあるはずだ。
しかし、北のほうではウンともスンとも動きがなかった。ミレーユが駆け落ちしたという情報も一切漏らされていない。それはもう静かすぎて怖いほどだ。
エドガールはシャロワ伯爵領内の情報に耳をそばだててはいるが、特にあちらからなにかされない限り、慎ましく暮らしていくつもりだった。ミレーユ自身が望んだこととはいえ、彼女をさらうような真似をしたわけだし、一人の男として罪悪感は当然ある。相手が人狼一族という敵対勢力だとしても。
もしこの先、ミレーユとの結婚生活がうまくいったなら、この人生で人狼を追い回すのは金輪際止めようと、エドガールは内心そう誓っていた。
ミレーユと始めた新生活はいくつかの点を除けば、おおむねうまくやっている。
これまでのドラポルト邸は三十路男の独身住まいにふさわしく、どこかジメッとして陰気臭くて薄暗く、まるでエドガールの性格そのもののような有り様だった。それが、ミレーユが来てからはパッと大輪の花が咲いたようで、急に邸内が明るくまぶしく清潔になった感じがする。
ミレーユが無類の掃除好きというのも大きな要因だった。これまで放ったらかしだった、カビ臭くほこりまみれの開かずの間たちが次々と開放され、隅々まで磨かれて爽やかな風が通され、まるで新築かのように生まれ変わっていく。
「だって、掃除はすべての基本ですもの! エドガールが気持ちよく仕事できるよう、私、少しでも役に立ちたいです」
ミレーユはまっすぐな目でそう言って、可憐に微笑んだ。
使用人たちもミレーユのやりたいことを承知したらしく、従順に彼女を手伝い、協力を惜しまずに手を貸している。そりゃあそうだろう。いつも不機嫌そうに鬱々と引きこもり、うだつの上がらぬ三十路の主人の言うことを聞くより、若くて可愛くて素直な美女を主人と崇めたほうがいいに決まっている。
このことについて、エドガールは使用人たちに一言言ってやりたい気もしないでもないが、とりあえず黙っていることにした。ミレーユがこの屋敷の住人たちと馴染むのはよいことだし、自分とミレーユを比べたら、ミレーユのほうについていきたい気持ちがわかるからだ。
シャロワ伯爵の沈黙は不気味ではあるが、今のところなにも問題はない。
なにも問題はないはずだった。
ただ一つ、老執事ベルナールの存在を除いては。
くっそぉぉぉ! ベルナールの奴め! 僕の強力散弾銃でハチの巣にしたあと、穴掘って埋めてやりたい……
その夜、エドガールは自室にしつらえたデスクにつき、必死でペンを走らせながら、ひたすらベルナールを呪っていた。
デスクには書類の山が積まれている。エドガールがテールブランシェの調査に行っている間、溜まりに溜まった事務仕事だった。領民からの陳情だの、議会からの招集だの、報告書の督促だの、騎士団からの調査依頼だの、ワケもわからず仕分けもされずゴチャゴチャに積まれている。あらゆる階級の人が勝手なことを書き散らし、エドガールにああしろこうしろと一方的に投げつけてくるみたいだ。
エドガールはまるで世界のゴミ捨て場になったような気分だった。
まずはそれらを一つ一つ拾い上げ、開封して内容に目を通すだけでひと苦労だ。
原稿の督促と執筆依頼も殺到していた。特に売れっ子ではないのだが、猟奇・オカルト・ホラーというものを書ける作家が……つまり、世に生息している変態の数が少なく、さして筆力のないエドガールにも白羽の矢が立つのだ。
というわけで、エドガールは昼も夜もデスクにかじりつき、地道に一つ一つどうにか優先順位をつけ、目を吊り上げながら孤軍奮闘していた。
実はエドガールがこんなにイライラしているのは忙しさのせいだけではなく、とある重大な理由がある。
「坊ちゃま、正気ですか? こんなことでは亡き旦那様が草葉の陰で泣いておりますぞ」
侮蔑を露わにした顔でそう言い放ったのは、老ベルナール執事だった。
「ようやく黒煙騎士団員としての使命に目覚めたのかと思ったら、重大な任務を放り出した挙句、ええ歳こいてうら若き乙女に血道をあげ、あまつさえその令嬢をさらってくるとは……。いやはや、坊ちゃま。昔から、陰気で偏屈で引きこもりがちで、神話だの伝承だの変なモノにしか興味を示さず、これこそ生粋の変態だとは重々存じておりましたが、それでも一応男爵家嫡男として先祖の掟を守ろうとし、抜けているながらも領主として領民のために尽くそうとし、下手くそながらも読者のために少しでもマシな原稿を書こうと努力されている姿は、このベルナールもまあまあ評価しておりましたのに!」
普段寡黙なこの老執事は、主人であるエドガールをけなすときだけ弁舌が超滑らかになる。
「見損ないましたぞっ! 坊ちゃま!」
まるで世界一忌まわしい汚物でも見るような目で、ベルナールは一喝した。
このときエドガールは、自分のこめかみがピクピクッと痙攣するのを感じていた。
これは恐らく心因性のものだろう。精神に大きな負担がかかると、こんな風にこめかみが痙攣する……
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