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8章 覚悟
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「この前の夕方、葵ちゃんがうちの前に立っているところを智樹が見つけて、中へ連れてきてくれたらそんな話になったのよ。篤樹ったら、こんな可愛い彼女がいるならすぐに紹介してくれたら良かったのに。何を照れちゃってたのかしら」
「……」
「お父さんなんて終始でれでれしちゃってるんだから。うちは男ばっかりだけど、娘がいるっていいもんよねぇ。お母さん、気に入っちゃった。このままずっとうちに来てくれないものかしら」
「あぁもう、訳分かんねぇし!」
耐えかねて篤樹は叫び声を上げた。この両親の話を聞いていると頭がおかしくなりそうだ。
「とにかく、ちょっと来てください!」
篤樹は葵の腕を掴むと、引きずるようにして二階の自分の部屋へと連れて行った。
弟と二人で使っている、二段ベッドと互いの学習机だけが置かれた狭い部屋だ。それでも葵の自室と違って、いきなりでも人を招き入れることができるくらいには片付けてある。
「まさかそんな白衣着ちゃってる先輩をうちで見ることになるとは思いませんでしたよ」
自分の部屋に葵がいるという見慣れぬ光景に戸惑いつつ、篤樹は床の上に腰を下ろした。葵もそれに倣って少し離れたところへちょこんと座る。
「とりあえず、一から説明してください。何がどうなってんですか、これ?」
それは詰問というより懇願に近い問いかけだったが、葵はひどく恐縮した様子で話し始めた。
「あっちゃんが私にお家のことを話せなかったのは、私じゃ頼りないって思ったからでしょ」
「え?」
「だ、だって、家が薬局ってバレたら、私が働きたいって言うかもしれないじゃん。それが嫌で言い出せなかったのかなって」
篤樹は唖然とした。篤樹が家業を言い出せなかった理由をまさかそこまで後ろ向きに捉えるとは思いもしなかったのだ。
「何なんですか、その見事なまでのネガティブ思考」
「だけど、あっちゃんがそう考えるのも無理はないと思うの。だって私はこんなだし。だからね……っていうか、だからこそ頑張らなきゃって思ったんだよ。私が薬局でしっかり働けるってことを証明出来たら、あっちゃんにも安心してもらえるかなって」
「……」
「だから私なんかでもちゃんと働けるって自信を持てるまであっちゃんには内緒にしておいてほしいってお願いしてたの。でも、私なんかが頑張っても失敗ばっかりなんだよね。せっかく調剤をやらせてもらっても、規格も薬の場所もなかなか覚えられなくて、お父さんとお母さんには迷惑かけてばっかりで……」
「何言ってんですか。二人とも先輩の事めちゃくちゃ気に入ってたし。むしろ大歓迎過ぎて見ているこっちが恥ずかしいくらいで……お薬手帳カバーも見ましたか?」
「うん。大勢の人に使ってもらえてるみたいでびっくりした」
葵はようやく笑顔を見せてくれた。お薬手帳とは医師から処方された薬を記録しておくための小さなノートのこと。これを見て、薬剤師は患者の併用薬のチェックなどを行っている。
「先輩のくれたブックカバー、こんなに洒落た手帳カバーは無いって患者さんにも大好評なんですよ。おかげで手帳の持参率まで上がって、併用薬のチェックがしやすくなったって、それだけでもうちの両親は大喜びだし」
両親には葵を嫌う理由などないだろう。薬局の仕事を覚えたいという意欲に加え、その理由が篤樹のため、とくればあの二人には感動しかないはずだ。
篤樹はもう一度改めて葵を見つめ直した。この白衣姿、篤樹だって今まで夢想してこなかったわけではない。まさか現実に目にする日が来るとは……。
篤樹は感慨深げに吐息を漏らした。
「俺がうちのことを言い出せなかったのは、俺が薬剤師免許目当てに口説いたみたいに思われたくなかったのもあるんですけど、あの両親に紹介したら確実にうちへ嫁いでくれって話にまで発展するのが分かってたからなんですよ。先輩は頼み込まれたらうんって言っちゃいそうだし、そこまで将来を縛り付けるわけにはいかないと思ったんですけど、まさか自分から飛び込んでくるとは……」
あれだけ引っ込み思案で、何をするにも怯えてばかりだった葵が、こんな大それたことをできるようになるなんて思いもよらなかった。
「やっぱ姉さん女房はミラクル起こすもんなんですね」
篤樹は完敗の体で笑った。こんなの、敵うわけがない。
「迷惑……だったかな?」
葵は恐る恐る首をかしげる。出過ぎた真似をしているのではないかという不安感が、彼女を怯えさせているようだ。
「迷惑なわけないでしょ。これで怒る奴がいたらお目にかかりたいくらいです」
これだけ臆病な人には言葉を並べるより態度で示した方が分かりやすいはず。篤樹は彼女の身体に手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめた。
葵もしばらくは目を細めて、篤樹の腕の中でぬくもりを感じてくれていたが、どうやらほっとしたことで余計なことまで思い出したらしく「……ところでさ」と突然話を切り出してきた。
「あっちゃん、今まで調剤室の薬を勝手に持ち出してたでしょ?」
……しまった。そんなところまでバレたのか。
きっと両親と話をするうちに、優樹がニキビの薬を使ったことがないのも、息子に薬を渡したことがないのも判明してしまったのだろう。
「私のためにやってくれたんだろうけど、ダメだよ、勝手なことしちゃ」
「ちゃんと期限切れで廃棄になりそうなやつから選んで使ってますから、そう目くじら立てなくても」
「そういう問題?!」
「あー、前言撤回です。うちに来てもらうと裏事情までバレちゃうってのはちょっとだけ迷惑かも」
篤樹は肩をすくめ、葵と共に笑い合ったのだった。
そして11月になった。葵は予定通りに推薦入試を受けに行ったが、心配でたまらない篤樹は、試験の終わる時間を見計らって大学の入り口まで迎えに行ってしまった。
「……」
「お父さんなんて終始でれでれしちゃってるんだから。うちは男ばっかりだけど、娘がいるっていいもんよねぇ。お母さん、気に入っちゃった。このままずっとうちに来てくれないものかしら」
「あぁもう、訳分かんねぇし!」
耐えかねて篤樹は叫び声を上げた。この両親の話を聞いていると頭がおかしくなりそうだ。
「とにかく、ちょっと来てください!」
篤樹は葵の腕を掴むと、引きずるようにして二階の自分の部屋へと連れて行った。
弟と二人で使っている、二段ベッドと互いの学習机だけが置かれた狭い部屋だ。それでも葵の自室と違って、いきなりでも人を招き入れることができるくらいには片付けてある。
「まさかそんな白衣着ちゃってる先輩をうちで見ることになるとは思いませんでしたよ」
自分の部屋に葵がいるという見慣れぬ光景に戸惑いつつ、篤樹は床の上に腰を下ろした。葵もそれに倣って少し離れたところへちょこんと座る。
「とりあえず、一から説明してください。何がどうなってんですか、これ?」
それは詰問というより懇願に近い問いかけだったが、葵はひどく恐縮した様子で話し始めた。
「あっちゃんが私にお家のことを話せなかったのは、私じゃ頼りないって思ったからでしょ」
「え?」
「だ、だって、家が薬局ってバレたら、私が働きたいって言うかもしれないじゃん。それが嫌で言い出せなかったのかなって」
篤樹は唖然とした。篤樹が家業を言い出せなかった理由をまさかそこまで後ろ向きに捉えるとは思いもしなかったのだ。
「何なんですか、その見事なまでのネガティブ思考」
「だけど、あっちゃんがそう考えるのも無理はないと思うの。だって私はこんなだし。だからね……っていうか、だからこそ頑張らなきゃって思ったんだよ。私が薬局でしっかり働けるってことを証明出来たら、あっちゃんにも安心してもらえるかなって」
「……」
「だから私なんかでもちゃんと働けるって自信を持てるまであっちゃんには内緒にしておいてほしいってお願いしてたの。でも、私なんかが頑張っても失敗ばっかりなんだよね。せっかく調剤をやらせてもらっても、規格も薬の場所もなかなか覚えられなくて、お父さんとお母さんには迷惑かけてばっかりで……」
「何言ってんですか。二人とも先輩の事めちゃくちゃ気に入ってたし。むしろ大歓迎過ぎて見ているこっちが恥ずかしいくらいで……お薬手帳カバーも見ましたか?」
「うん。大勢の人に使ってもらえてるみたいでびっくりした」
葵はようやく笑顔を見せてくれた。お薬手帳とは医師から処方された薬を記録しておくための小さなノートのこと。これを見て、薬剤師は患者の併用薬のチェックなどを行っている。
「先輩のくれたブックカバー、こんなに洒落た手帳カバーは無いって患者さんにも大好評なんですよ。おかげで手帳の持参率まで上がって、併用薬のチェックがしやすくなったって、それだけでもうちの両親は大喜びだし」
両親には葵を嫌う理由などないだろう。薬局の仕事を覚えたいという意欲に加え、その理由が篤樹のため、とくればあの二人には感動しかないはずだ。
篤樹はもう一度改めて葵を見つめ直した。この白衣姿、篤樹だって今まで夢想してこなかったわけではない。まさか現実に目にする日が来るとは……。
篤樹は感慨深げに吐息を漏らした。
「俺がうちのことを言い出せなかったのは、俺が薬剤師免許目当てに口説いたみたいに思われたくなかったのもあるんですけど、あの両親に紹介したら確実にうちへ嫁いでくれって話にまで発展するのが分かってたからなんですよ。先輩は頼み込まれたらうんって言っちゃいそうだし、そこまで将来を縛り付けるわけにはいかないと思ったんですけど、まさか自分から飛び込んでくるとは……」
あれだけ引っ込み思案で、何をするにも怯えてばかりだった葵が、こんな大それたことをできるようになるなんて思いもよらなかった。
「やっぱ姉さん女房はミラクル起こすもんなんですね」
篤樹は完敗の体で笑った。こんなの、敵うわけがない。
「迷惑……だったかな?」
葵は恐る恐る首をかしげる。出過ぎた真似をしているのではないかという不安感が、彼女を怯えさせているようだ。
「迷惑なわけないでしょ。これで怒る奴がいたらお目にかかりたいくらいです」
これだけ臆病な人には言葉を並べるより態度で示した方が分かりやすいはず。篤樹は彼女の身体に手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめた。
葵もしばらくは目を細めて、篤樹の腕の中でぬくもりを感じてくれていたが、どうやらほっとしたことで余計なことまで思い出したらしく「……ところでさ」と突然話を切り出してきた。
「あっちゃん、今まで調剤室の薬を勝手に持ち出してたでしょ?」
……しまった。そんなところまでバレたのか。
きっと両親と話をするうちに、優樹がニキビの薬を使ったことがないのも、息子に薬を渡したことがないのも判明してしまったのだろう。
「私のためにやってくれたんだろうけど、ダメだよ、勝手なことしちゃ」
「ちゃんと期限切れで廃棄になりそうなやつから選んで使ってますから、そう目くじら立てなくても」
「そういう問題?!」
「あー、前言撤回です。うちに来てもらうと裏事情までバレちゃうってのはちょっとだけ迷惑かも」
篤樹は肩をすくめ、葵と共に笑い合ったのだった。
そして11月になった。葵は予定通りに推薦入試を受けに行ったが、心配でたまらない篤樹は、試験の終わる時間を見計らって大学の入り口まで迎えに行ってしまった。
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