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3章 お姉さん
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……いや、だってさ……無理だろ、今のは。
ガガンボは篤樹をかすめた後、しばらく天井付近を飛んでいたが、やがて舞い降りてくると壁に張り付いてその動きを止めた。
今がチャンスだ。
もちろん素手で行くのは嫌だから、篤樹はその辺にあった璃子のノートを丸めてそっと近づく。
「私のノートで潰さないでぇ!」
璃子の悲鳴を背中で聞いたが、自分のノートでやるのは嫌だからその訴えは却下に決まっている。
しかし制止の声は意外なところからも起きたのだ。
「潰しちゃダメ!」
葵の珍しく強い口調に驚いて振り返ったら、彼女はプラスチックの黒い卓上ゴミ箱を構えてすぐ側まで迫って来ていた。
「捕まえるから」
え……そのゴミ箱で?!
篤樹はぎょっとして身を引き、そして葵の進路を開けてやる。
息を詰めて抜き足差し足で近づいてきた葵は、派手な音と共にガガンボの真上にゴミ箱をかぶせ、見事生け捕りにしてみせた。
「やったぁ!」
葵は壁にゴミ箱を押し当てたまま喜んでいたが、篤樹にはこれが大して芳しくもない状況であることがしっかり見えていて「この後どうするんですか?」と尋ねた。
ゴミ箱のように口の広いアイテムで捕まえてしまったら手で蓋をするわけにもいかない。そもそも、虫がうようよしている容器を素手で覆うのなんて絶対に嫌なのだが、蓋ができない以上、葵はこのままずっと壁にゴミ箱を押し当てておかねばならないことになる。
「そだね。何か薄いものがあれば蓋にするんだけど」
葵はゴミ箱を壁へ押し付けたまま、辺りを見回し始めた。
「じゃあ、このノートで」
篤樹は左手に持っていたノートを差し出そうとしたが、それはリコちゃんのでしょ、と苦笑されてしまった。
「もっと薄くて丈夫な奴……下敷きとかないかな?」
「悪いですけど、俺は探しに行けないですよ」
篤樹は目線だけで自分の手元を指し示した。
実は葵がゴミ箱を構えた時、咄嗟にガガンボの真下に置いてあった瀬川先輩の実験装置を、身を挺して守ったのだ。葵があのまま虫のことだけを考えてまっしぐらに突進したら、背の高いスタンドに腕を引っかけてひっくり返していたはずである。これが例えば、今日作ったばかりの硫酸銅水溶液ならば結晶が上手く作れないだけで済むが、瀬川先輩がもう何日もかけて抽出しているものだと知っている以上、見捨てられなかったのだ。
「俺がちゃんと支えておかないと、多分ここのガラス管がズレてしまうんですよね」
もちろん篤樹がつなぎ直してもいいのだが、葵が邪魔で身動きがとりづらい。まずは彼女に動いてもらう方がいい。
「ど、どうしよう……」
葵は今さらながらに自分が無謀なことをしてしまったと気付いたようで、困りきった顔をしている。
「私、何か薄くて硬いものを探してきますね!」
璃子は大急ぎで引き出しやらの中を探し始め、女王様の下僕たちも生け捕りにしたなら隙間から何か薬品を吹きかけてもいいんじゃ? 何が一番効くだろう?、などと取り留めもない相談に入ってしまった。
……妙な状況になったな。
瀬川先輩の実験器具を壊さないように守っている篤樹と、その上へ覆いかぶさるようにして壁へゴミ箱を押し付けている葵。
距離の近さで言えば、先週のカラオケ以上なのだが、艶っぽさの欠片も感じられないこの体勢には困惑しか存在しない。
篤樹はそっと顔を上げた。葵の腕の隙間から彼女の顔が間近に見える。
「先輩、綺麗になりましたね」
唐突な話を振ったら、葵は案の定、頬を赤く染めて動揺してしまった。篤樹からの視線を避けようとしたものの、ゴミ箱を押さえておかねばならないから、この場から逃げることもできない。
「な、なんでいきなりそんなことを……」
ガガンボは篤樹をかすめた後、しばらく天井付近を飛んでいたが、やがて舞い降りてくると壁に張り付いてその動きを止めた。
今がチャンスだ。
もちろん素手で行くのは嫌だから、篤樹はその辺にあった璃子のノートを丸めてそっと近づく。
「私のノートで潰さないでぇ!」
璃子の悲鳴を背中で聞いたが、自分のノートでやるのは嫌だからその訴えは却下に決まっている。
しかし制止の声は意外なところからも起きたのだ。
「潰しちゃダメ!」
葵の珍しく強い口調に驚いて振り返ったら、彼女はプラスチックの黒い卓上ゴミ箱を構えてすぐ側まで迫って来ていた。
「捕まえるから」
え……そのゴミ箱で?!
篤樹はぎょっとして身を引き、そして葵の進路を開けてやる。
息を詰めて抜き足差し足で近づいてきた葵は、派手な音と共にガガンボの真上にゴミ箱をかぶせ、見事生け捕りにしてみせた。
「やったぁ!」
葵は壁にゴミ箱を押し当てたまま喜んでいたが、篤樹にはこれが大して芳しくもない状況であることがしっかり見えていて「この後どうするんですか?」と尋ねた。
ゴミ箱のように口の広いアイテムで捕まえてしまったら手で蓋をするわけにもいかない。そもそも、虫がうようよしている容器を素手で覆うのなんて絶対に嫌なのだが、蓋ができない以上、葵はこのままずっと壁にゴミ箱を押し当てておかねばならないことになる。
「そだね。何か薄いものがあれば蓋にするんだけど」
葵はゴミ箱を壁へ押し付けたまま、辺りを見回し始めた。
「じゃあ、このノートで」
篤樹は左手に持っていたノートを差し出そうとしたが、それはリコちゃんのでしょ、と苦笑されてしまった。
「もっと薄くて丈夫な奴……下敷きとかないかな?」
「悪いですけど、俺は探しに行けないですよ」
篤樹は目線だけで自分の手元を指し示した。
実は葵がゴミ箱を構えた時、咄嗟にガガンボの真下に置いてあった瀬川先輩の実験装置を、身を挺して守ったのだ。葵があのまま虫のことだけを考えてまっしぐらに突進したら、背の高いスタンドに腕を引っかけてひっくり返していたはずである。これが例えば、今日作ったばかりの硫酸銅水溶液ならば結晶が上手く作れないだけで済むが、瀬川先輩がもう何日もかけて抽出しているものだと知っている以上、見捨てられなかったのだ。
「俺がちゃんと支えておかないと、多分ここのガラス管がズレてしまうんですよね」
もちろん篤樹がつなぎ直してもいいのだが、葵が邪魔で身動きがとりづらい。まずは彼女に動いてもらう方がいい。
「ど、どうしよう……」
葵は今さらながらに自分が無謀なことをしてしまったと気付いたようで、困りきった顔をしている。
「私、何か薄くて硬いものを探してきますね!」
璃子は大急ぎで引き出しやらの中を探し始め、女王様の下僕たちも生け捕りにしたなら隙間から何か薬品を吹きかけてもいいんじゃ? 何が一番効くだろう?、などと取り留めもない相談に入ってしまった。
……妙な状況になったな。
瀬川先輩の実験器具を壊さないように守っている篤樹と、その上へ覆いかぶさるようにして壁へゴミ箱を押し付けている葵。
距離の近さで言えば、先週のカラオケ以上なのだが、艶っぽさの欠片も感じられないこの体勢には困惑しか存在しない。
篤樹はそっと顔を上げた。葵の腕の隙間から彼女の顔が間近に見える。
「先輩、綺麗になりましたね」
唐突な話を振ったら、葵は案の定、頬を赤く染めて動揺してしまった。篤樹からの視線を避けようとしたものの、ゴミ箱を押さえておかねばならないから、この場から逃げることもできない。
「な、なんでいきなりそんなことを……」
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