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第三章 憎しみと剣戟と

花の向こうで眠れ(1)

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 ──忘れていた。

 カインは頬を押さえた。
 殴られたところだけでなく、顔の左半分が焼けるように熱い。

「あのひとは《レティシアの黄金の剣》だったな……」

 あの状況でこの破壊力。
 歯が折れなかったのは、もしかしたらアルフォンスの恩情であったかもしれない。

 想い人が消えた木立を目で追う。
 最後に見た背は怒りと屈辱に強張っていた。
 こちらを振り向くこともなく去っていく姿に、カインは安堵したものだ。

「……これでいい」

 黒衣の裾を整え、立ち上がりかけたときのこと。
 再び景色が回転した。
 灼けつく頬に、更なる熱が加えられる。
 為すすべなく地に倒れ、ああ、また殴られたのだと気付く。

 カインの前に立ちふさがった巨体は、拳を震わせ激しい呼吸を必死に抑えている風である。
 武人らしい精悍な顔立ちが醜く歪んでいる。

 生き別れの弟ディオールだ。

 しかしこの場合、弟とはいえ決して味方とはいえない。

「兄上、アルの気持ちを知っているのだろう。なのに、何故あのようなことを……!」

 そういえばこいつはアルフォンスの忠犬だったっけ。
 とうに飼い主に捨てられたというのに、懸命に忠義の尻尾を振っているのか。

「……これでいいんだ」

 出来の悪い弟にというより、己に言い聞かせるようにカインは呟いた。

「あのひとがほんの少し……僕に想いを寄せてくれているのは分かってた。でも……だからこそ、これでいい。僕への情なんて残さなくていい」

「それはどういう意味だ」

 怒りと困惑を隠せず呆然と立ち尽くす弟。
 今この瞬間にも、アルフォンスを追って駆けていきたいのだろう。

 ──そうすればいいのに。

 敵地の真ん中で王の庇護のない彼を守れるのは、この男しかいないというのに。

 僕は多分死ぬ──内容にそぐわぬ静かな声でカインは呟いた。

「クーデターが起こっている。僕は裁判にかけられ処刑されるか、あるいは捕らわれてその場で斬殺されるかどちらかだ。あのひとを巻き込むわけにはいかないだろう」

 カイン──とアルフォンスが名を呼んでくれたのは嬉しかった。
 この先ずっと一緒にいられたらいいのに。
 でもそれは無理なこと。

 最後くらい、できれば優しく抱きたかったが……仕方ない。もしも口を開けば愛おしい、愛していると言ってしまう。
 絶対に言葉にしてしまう。
 そうするときっと、彼をこの手から放すことができなくなってしまうだろう。

「そんなの……兄上は勝手な人だ」

 拳を震わせるディオール。
 そこに芽生える殺意を、不器用なこの男はどうにも処理できずにいるのだろう。

 カインは己の胸を指で指した。

「いっそお前に殺されるのでもかまわない。ここにナイフを刺せ」

 そのかわりアルフォンスのことは頼むと勝手な理屈をこねる兄に、ディオールが今一度拳を固めたときだ。

 静かな木々のさざめきを裂く軍靴の響き。
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