64 / 87
第三章 憎しみと剣戟と
花の向こうで眠れ(1)
しおりを挟む
──忘れていた。
カインは頬を押さえた。
殴られたところだけでなく、顔の左半分が焼けるように熱い。
「あのひとは《レティシアの黄金の剣》だったな……」
あの状況でこの破壊力。
歯が折れなかったのは、もしかしたらアルフォンスの恩情であったかもしれない。
想い人が消えた木立を目で追う。
最後に見た背は怒りと屈辱に強張っていた。
こちらを振り向くこともなく去っていく姿に、カインは安堵したものだ。
「……これでいい」
黒衣の裾を整え、立ち上がりかけたときのこと。
再び景色が回転した。
灼けつく頬に、更なる熱が加えられる。
為すすべなく地に倒れ、ああ、また殴られたのだと気付く。
カインの前に立ちふさがった巨体は、拳を震わせ激しい呼吸を必死に抑えている風である。
武人らしい精悍な顔立ちが醜く歪んでいる。
生き別れの弟ディオールだ。
しかしこの場合、弟とはいえ決して味方とはいえない。
「兄上、アルの気持ちを知っているのだろう。なのに、何故あのようなことを……!」
そういえばこいつはアルフォンスの忠犬だったっけ。
とうに飼い主に捨てられたというのに、懸命に忠義の尻尾を振っているのか。
「……これでいいんだ」
出来の悪い弟にというより、己に言い聞かせるようにカインは呟いた。
「あのひとがほんの少し……僕に想いを寄せてくれているのは分かってた。でも……だからこそ、これでいい。僕への情なんて残さなくていい」
「それはどういう意味だ」
怒りと困惑を隠せず呆然と立ち尽くす弟。
今この瞬間にも、アルフォンスを追って駆けていきたいのだろう。
──そうすればいいのに。
敵地の真ん中で王の庇護のない彼を守れるのは、この男しかいないというのに。
僕は多分死ぬ──内容にそぐわぬ静かな声でカインは呟いた。
「クーデターが起こっている。僕は裁判にかけられ処刑されるか、あるいは捕らわれてその場で斬殺されるかどちらかだ。あのひとを巻き込むわけにはいかないだろう」
カイン──とアルフォンスが名を呼んでくれたのは嬉しかった。
この先ずっと一緒にいられたらいいのに。
でもそれは無理なこと。
最後くらい、できれば優しく抱きたかったが……仕方ない。もしも口を開けば愛おしい、愛していると言ってしまう。
絶対に言葉にしてしまう。
そうするときっと、彼をこの手から放すことができなくなってしまうだろう。
「そんなの……兄上は勝手な人だ」
拳を震わせるディオール。
そこに芽生える殺意を、不器用なこの男はどうにも処理できずにいるのだろう。
カインは己の胸を指で指した。
「いっそお前に殺されるのでもかまわない。ここにナイフを刺せ」
そのかわりアルフォンスのことは頼むと勝手な理屈をこねる兄に、ディオールが今一度拳を固めたときだ。
静かな木々のさざめきを裂く軍靴の響き。
カインは頬を押さえた。
殴られたところだけでなく、顔の左半分が焼けるように熱い。
「あのひとは《レティシアの黄金の剣》だったな……」
あの状況でこの破壊力。
歯が折れなかったのは、もしかしたらアルフォンスの恩情であったかもしれない。
想い人が消えた木立を目で追う。
最後に見た背は怒りと屈辱に強張っていた。
こちらを振り向くこともなく去っていく姿に、カインは安堵したものだ。
「……これでいい」
黒衣の裾を整え、立ち上がりかけたときのこと。
再び景色が回転した。
灼けつく頬に、更なる熱が加えられる。
為すすべなく地に倒れ、ああ、また殴られたのだと気付く。
カインの前に立ちふさがった巨体は、拳を震わせ激しい呼吸を必死に抑えている風である。
武人らしい精悍な顔立ちが醜く歪んでいる。
生き別れの弟ディオールだ。
しかしこの場合、弟とはいえ決して味方とはいえない。
「兄上、アルの気持ちを知っているのだろう。なのに、何故あのようなことを……!」
そういえばこいつはアルフォンスの忠犬だったっけ。
とうに飼い主に捨てられたというのに、懸命に忠義の尻尾を振っているのか。
「……これでいいんだ」
出来の悪い弟にというより、己に言い聞かせるようにカインは呟いた。
「あのひとがほんの少し……僕に想いを寄せてくれているのは分かってた。でも……だからこそ、これでいい。僕への情なんて残さなくていい」
「それはどういう意味だ」
怒りと困惑を隠せず呆然と立ち尽くす弟。
今この瞬間にも、アルフォンスを追って駆けていきたいのだろう。
──そうすればいいのに。
敵地の真ん中で王の庇護のない彼を守れるのは、この男しかいないというのに。
僕は多分死ぬ──内容にそぐわぬ静かな声でカインは呟いた。
「クーデターが起こっている。僕は裁判にかけられ処刑されるか、あるいは捕らわれてその場で斬殺されるかどちらかだ。あのひとを巻き込むわけにはいかないだろう」
カイン──とアルフォンスが名を呼んでくれたのは嬉しかった。
この先ずっと一緒にいられたらいいのに。
でもそれは無理なこと。
最後くらい、できれば優しく抱きたかったが……仕方ない。もしも口を開けば愛おしい、愛していると言ってしまう。
絶対に言葉にしてしまう。
そうするときっと、彼をこの手から放すことができなくなってしまうだろう。
「そんなの……兄上は勝手な人だ」
拳を震わせるディオール。
そこに芽生える殺意を、不器用なこの男はどうにも処理できずにいるのだろう。
カインは己の胸を指で指した。
「いっそお前に殺されるのでもかまわない。ここにナイフを刺せ」
そのかわりアルフォンスのことは頼むと勝手な理屈をこねる兄に、ディオールが今一度拳を固めたときだ。
静かな木々のさざめきを裂く軍靴の響き。
0
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説
影の子より
STREET
BL
視えるもの。
聞こえるもの。
触れるもの。
それら全てが新鮮であり、全てが心を突き動かした。空っぽで真っ白な世界に色が着き、徐々に拡がっていった。穏やかな何かに守られていた、幼い頃。そして、誰もが大人になっていく。そう思っていた。ずっと。──ずっと。
長い年月を経て、対立を繰り返す、南北ガラハン公国。
影として生きた青年と、争いの先にあるものを眺めた青年。
生命は受け継がれ、つながっていく。時には愛情として。時には重荷として。その狭間で揺られながら、彼らは生きた。
□□□□□
2023年 9月 1日:前編始動
2024年 7月 1日:前編完結
編集して再始動。
のんびりですが、お付き合いくださりありがとうございました。φ(. . )
□□□□□
すべてはあなたを守るため
高菜あやめ
BL
【天然超絶美形な王太子×妾のフリした護衛】 Y国の次期国王セレスタン王太子殿下の妾になるため、はるばるX国からやってきたロキ。だが妾とは表向きの姿で、その正体はY国政府の依頼で派遣された『雇われ』護衛だ。戴冠式を一か月後に控え、殿下をあらゆる刺客から守りぬかなくてはならない。しかしこの任務、殿下に素性を知られないことが条件で、そのため武器も取り上げられ、丸腰で護衛をするとか無茶な注文をされる。ロキははたして殿下を守りぬけるのか……愛情深い王太子殿下とポンコツ護衛のほのぼの切ないラブコメディです
幼馴染は僕を選ばない。
佳乃
BL
ずっと続くと思っていた〈腐れ縁〉は〈腐った縁〉だった。
僕は好きだったのに、ずっと一緒にいられると思っていたのに。
僕がいた場所は僕じゃ無い誰かの場所となり、繋がっていると思っていた縁は腐り果てて切れてしまった。
好きだった。
好きだった。
好きだった。
離れることで断ち切った縁。
気付いた時に断ち切られていた縁。
辛いのは、苦しいのは彼なのか、僕なのか…。
侯爵様の愛人ですが、その息子にも愛されてます
muku
BL
魔術師フィアリスは、地底の迷宮から湧き続ける魔物を倒す使命を担っているリトスロード侯爵家に雇われている。
仕事は魔物の駆除と、侯爵家三男エヴァンの家庭教師。
成人したエヴァンから突然恋心を告げられたフィアリスは、大いに戸惑うことになる。
何故ならフィアリスは、エヴァンの父とただならぬ関係にあったのだった。
汚れた自分には愛される価値がないと思いこむ美しい魔術師の青年と、そんな師を一心に愛し続ける弟子の物語。
【完結】どいつもこいつもかかって来やがれ3rd season
pino
BL
秋山貴哉の頭悪し口悪しのヤンキーは今回も健在だ。今までいろんな面倒な事にぶつかって来た貴哉は馬鹿なりに持ち前の天然さと適当さで周りの協力もあって無事解決?して来た。
もう無遅刻無欠席を維持しなくてはならないのは当たり前。それに加え、今度はどうしようもない成績面をカバーする為に夏休み中も部活に参加して担任が認めるような功績を残さなくてはいけない事になり!?
夏休み編突入!
こちらはいつもより貴哉総受けが強くなっております。
青春ドタバタラブコメディ。
BLです。
今回の表紙は、学校一のモテ男、スーパー高校生の桐原伊織です。
こちらは3rd seasonとなっております。
前作の続きとなっておりますので、より楽しみたい方は、完結している『どいつもこいつもかかって来やがれ』と『どいつもこいつもかかって来やがれ2nd season』を先にお読み下さい。
貴哉視点の話です。
※印がついている話は貴哉以外の視点での話になってます。
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
消えない思い
樹木緑
BL
オメガバース:僕には忘れられない夏がある。彼が好きだった。ただ、ただ、彼が好きだった。
高校3年生 矢野浩二 α
高校3年生 佐々木裕也 α
高校1年生 赤城要 Ω
赤城要は運命の番である両親に憧れ、両親が出会った高校に入学します。
自分も両親の様に運命の番が欲しいと思っています。
そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。
でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。
彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。
そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる