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第ニ章
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『やめて! お願い、やめてドミニコ』
お酒を飲むと、ドミニコはいつも暴力を振るった。
『お前のせいだ! ジゼル、お前が、お前が母上の言うことをきかないから!』
『ごめんなさい、赦して』
何度も頬を叩かれ、口の中が切れて血の味が口に広がる。
吐き気が込み上げてきて、頭もクラクラする。
「ごめんなさい、赦して…」
朦朧とした意識の中、ジゼルはひたすら赦しを請う。
「大丈夫だ。それ以上謝る必要はない。君は何も悪くない」
その声にジゼルは無意識のうちに強張った体から力を抜く。
温かく心地よい何かに包まれて、優しく耳打ちする声の柔らかさにジゼルは身を委ね、そしてそのまま、彼女の意識は再び深い深い底に沈んで行った。
冷たい何かが触れて、ジゼルは瞼を震わせ目を開けた。
眩しい光が目に入り、一瞬目を閉じた後にゆっくりと目を開けた。
見慣れない部屋。生まれ育った王宮の自室でもなく、七年間暮らしたバレッシオ公国の部屋でもない。
開け放たれた窓から吹き込んできた風がカーテンを揺らし、明るい日差しが部屋に降り注いでいる。
部屋の中の重厚でよく磨き上げられた家具は、華やかさより、使い勝手の良さを重視して集められたのがわかる。
どっしりと重みがあり、何代にも渡って使い込まれている。
ジゼルが横たわっているベッドもとても広い。
王宮を出てから宿泊した宿は、清潔ではあったが、そこのベッドはここまで広くはなかった。
「えっと…私…」
「王女様」
顔を巡らせると、そこにメアリーの顔が覗き込んだ。
「メアリー」
「心配いたしました。熱がなかなか下がらなくて、もう駄目かと…」
「ごめんなさい。心配かけたわね。私、どれくらい寝ていたの? ここは?」
抜けた記憶の欠片を埋めようと、ジゼルはメアリーに質問する。
「ここに来てから三日、熱を出されてからは四日です。ここはボルトレフ卿のお邸です」
「ボルトレフ卿の…」
朧気な記憶を手繰り寄せ、自分に何があったのか思い出そうとした。
ボルトレフ領へと向かう旅は最初は順調だった。
しかし、王都から離れるにつれ人の集落は疎らになり、道はどんどんデコボコになっていく。
馬車はガタガタと揺れ、何度も体をぶつけた。
最後は野宿になり、遠くで狼の遠吠えが聞こえる中、眠れぬ夜を過ごし、ジゼルは熱を出してしまった。
最初は黙っていようと思った。
具合が悪いと言えば、旅の歩みを止めてしまうことになる。
しかし、悪寒と頭痛がして、ジゼルは倒れてしまった。
そこまでは思い出した。
その後のことは、はっきり覚えていない。
呼吸が苦しくなり、胸が締め付けられるような感覚がして、悪夢を見た気がする。
ドミニコに暴力を受けていた時の悪夢に苦しんでいたジゼルの耳に、誰かが声をかけてくれていた。
(あの声は…)
確か後二日程で着くと言っていたが、いつの間に辿り着いたのだろうか。その記憶がまったくない。
「私、どうやってここへ?」
「覚えていらっしゃないのですね」
「ええ、馬車の中で気持ち悪くなって、気を失って…」
「はい。それで私がそれをグローチャーさんに慌てて伝えました。最後の街からかなり離れていましたから、ボルトレフ卿の領地に行くのが一番早いということになりました」
メアリーの話を聞いているうちに、ジゼルを呼ぶ彼女の声が脳裏に蘇ってきた。
「そう、それで馬車を飛ばしてここまで来たのね」
そこは酷く揺れただろうにまったく思い出せない。
「いえ、それは…違います」
「メアリー?」
「その…馬車ではなく、その…ボルトレフ卿が」
「ボルトレフ卿が?」
「意識を失った王女様を抱き上げて、馬に乗せて走られたのです。それが一番速いとおっしゃって」
「え!」
メアリーから聞かされた話に、ジゼルは驚いた。
「ボルトレフ卿が、私を?」
そう聞いて、誰かに抱きしめられていた感触が蘇ってきた。
そして「大丈夫だ。もうすぐだから頑張れ」と何度も彼女を励ましてくれていた。
「私は後から馬車で半日遅れて辿り着いたのですが、その時にはもうお医者様にも診察していただいていて、あと少し遅ければもっと重篤になっていたと聞かされました。胸の辺りが炎症を起こしていたそうです」
「そうなのね。心配させてごめんなさい」
「そんな、私のことなど、気になさらないでください」
「ずっと部屋に籠もっていたから、体力がなくなっていたのね」
「お医者様もそのように仰っていました。熱が下がれば滋養のつくものを食べて、しっかり体力を付けるようにと」
「では、ここはボルトレフ卿のお邸なのね。恥ずかしいわ。そんな状態で来たなら、皆さんをとても驚かせてしまったわね」
いきなり意識不明で邸の主に抱え込まれてやってきて、そのまま寝込んでしまったなど、最初から迷惑をかけてしまった。
とんだ厄介者だと思われているだろう。
「それで、この部屋は?」
「あ、その…」
「ちょっと押さないで」
「だって、よく見えない」
「わたしが先よ」
「ぼくだって見たい」
メアリーが何か言おうとした時、扉の外から誰かがコソコソ話す声が聞こえた。
子供の声のように聞こえる。
「………何かしら?」
「あ、もしかして」
メアリーは心当たりがあるらしい。
「わああ」
「きゃあ」
その時、扉がギイっと開いて、子供が二人雪崩込んできた。
お酒を飲むと、ドミニコはいつも暴力を振るった。
『お前のせいだ! ジゼル、お前が、お前が母上の言うことをきかないから!』
『ごめんなさい、赦して』
何度も頬を叩かれ、口の中が切れて血の味が口に広がる。
吐き気が込み上げてきて、頭もクラクラする。
「ごめんなさい、赦して…」
朦朧とした意識の中、ジゼルはひたすら赦しを請う。
「大丈夫だ。それ以上謝る必要はない。君は何も悪くない」
その声にジゼルは無意識のうちに強張った体から力を抜く。
温かく心地よい何かに包まれて、優しく耳打ちする声の柔らかさにジゼルは身を委ね、そしてそのまま、彼女の意識は再び深い深い底に沈んで行った。
冷たい何かが触れて、ジゼルは瞼を震わせ目を開けた。
眩しい光が目に入り、一瞬目を閉じた後にゆっくりと目を開けた。
見慣れない部屋。生まれ育った王宮の自室でもなく、七年間暮らしたバレッシオ公国の部屋でもない。
開け放たれた窓から吹き込んできた風がカーテンを揺らし、明るい日差しが部屋に降り注いでいる。
部屋の中の重厚でよく磨き上げられた家具は、華やかさより、使い勝手の良さを重視して集められたのがわかる。
どっしりと重みがあり、何代にも渡って使い込まれている。
ジゼルが横たわっているベッドもとても広い。
王宮を出てから宿泊した宿は、清潔ではあったが、そこのベッドはここまで広くはなかった。
「えっと…私…」
「王女様」
顔を巡らせると、そこにメアリーの顔が覗き込んだ。
「メアリー」
「心配いたしました。熱がなかなか下がらなくて、もう駄目かと…」
「ごめんなさい。心配かけたわね。私、どれくらい寝ていたの? ここは?」
抜けた記憶の欠片を埋めようと、ジゼルはメアリーに質問する。
「ここに来てから三日、熱を出されてからは四日です。ここはボルトレフ卿のお邸です」
「ボルトレフ卿の…」
朧気な記憶を手繰り寄せ、自分に何があったのか思い出そうとした。
ボルトレフ領へと向かう旅は最初は順調だった。
しかし、王都から離れるにつれ人の集落は疎らになり、道はどんどんデコボコになっていく。
馬車はガタガタと揺れ、何度も体をぶつけた。
最後は野宿になり、遠くで狼の遠吠えが聞こえる中、眠れぬ夜を過ごし、ジゼルは熱を出してしまった。
最初は黙っていようと思った。
具合が悪いと言えば、旅の歩みを止めてしまうことになる。
しかし、悪寒と頭痛がして、ジゼルは倒れてしまった。
そこまでは思い出した。
その後のことは、はっきり覚えていない。
呼吸が苦しくなり、胸が締め付けられるような感覚がして、悪夢を見た気がする。
ドミニコに暴力を受けていた時の悪夢に苦しんでいたジゼルの耳に、誰かが声をかけてくれていた。
(あの声は…)
確か後二日程で着くと言っていたが、いつの間に辿り着いたのだろうか。その記憶がまったくない。
「私、どうやってここへ?」
「覚えていらっしゃないのですね」
「ええ、馬車の中で気持ち悪くなって、気を失って…」
「はい。それで私がそれをグローチャーさんに慌てて伝えました。最後の街からかなり離れていましたから、ボルトレフ卿の領地に行くのが一番早いということになりました」
メアリーの話を聞いているうちに、ジゼルを呼ぶ彼女の声が脳裏に蘇ってきた。
「そう、それで馬車を飛ばしてここまで来たのね」
そこは酷く揺れただろうにまったく思い出せない。
「いえ、それは…違います」
「メアリー?」
「その…馬車ではなく、その…ボルトレフ卿が」
「ボルトレフ卿が?」
「意識を失った王女様を抱き上げて、馬に乗せて走られたのです。それが一番速いとおっしゃって」
「え!」
メアリーから聞かされた話に、ジゼルは驚いた。
「ボルトレフ卿が、私を?」
そう聞いて、誰かに抱きしめられていた感触が蘇ってきた。
そして「大丈夫だ。もうすぐだから頑張れ」と何度も彼女を励ましてくれていた。
「私は後から馬車で半日遅れて辿り着いたのですが、その時にはもうお医者様にも診察していただいていて、あと少し遅ければもっと重篤になっていたと聞かされました。胸の辺りが炎症を起こしていたそうです」
「そうなのね。心配させてごめんなさい」
「そんな、私のことなど、気になさらないでください」
「ずっと部屋に籠もっていたから、体力がなくなっていたのね」
「お医者様もそのように仰っていました。熱が下がれば滋養のつくものを食べて、しっかり体力を付けるようにと」
「では、ここはボルトレフ卿のお邸なのね。恥ずかしいわ。そんな状態で来たなら、皆さんをとても驚かせてしまったわね」
いきなり意識不明で邸の主に抱え込まれてやってきて、そのまま寝込んでしまったなど、最初から迷惑をかけてしまった。
とんだ厄介者だと思われているだろう。
「それで、この部屋は?」
「あ、その…」
「ちょっと押さないで」
「だって、よく見えない」
「わたしが先よ」
「ぼくだって見たい」
メアリーが何か言おうとした時、扉の外から誰かがコソコソ話す声が聞こえた。
子供の声のように聞こえる。
「………何かしら?」
「あ、もしかして」
メアリーは心当たりがあるらしい。
「わああ」
「きゃあ」
その時、扉がギイっと開いて、子供が二人雪崩込んできた。
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