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164 密かな野望

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「こんばんは」

例の召し使いの髪の色はもっと濃い茶色をしていた。
今は明るい赤に近い髪色をしている。
だが、その顔には見覚えがあった。

「おまえ………お前が……お前が娘を誑かしたのか!」

目の前の女に思わず飛びかかろうとしたが、女はひらりと後ろに飛び退き、その手から逃れる。
女を掴もうとした手は空しく空を切った。

「何のことでしょうか?」

女は何を言っているのかわからないと嘯く。

「ふざけるな!お前が………そうだ!今から私と一緒に警羅隊の詰所へ行って本当のことを話してくれ!占い師は本当に居たと、お前が証言してくれれば」

「………何のことをおっしゃっているのか、わかりませんわ。それに私はメイという名前ではございません。私の名前はマヤと言います。私に良く似たどなたかと間違われているのでは?」

「何だと!きさま、よくもぬけぬけと」

「落ち着いてください。デリヒさん。あなた何か勘違いされています。彼女の名前はマヤです。本人がそう言っているではありませんか。こんなことを言っては何ですが、娘さんのことや横領が発覚しそうになって気が動転されているのでは?」

間に司祭が割って入り、唾を飛ばす勢いでわめきたてるデリヒを宥める。

「ばかな!私が見間違う筈がない!この女はメイだ!私の娘に余計なことを吹き込んで流れの占い師に引き合わせたのはこいつだ!」

「ひどい……濡れ衣です。それにきさまとかこいつとか、何て酷い言われようでしょう」

女も調子にのって司祭の影に隠れ、あくまでもデリヒの主張に真っ向から意義を唱える。

「仮に彼女がおっしゃるようにメイという召し使いだったとしても、それだけであなたの娘の罪が無くなるわけではないですよ。問題はどのような経路で薬を手に入れたかではないのです。実際に薬を手に入れ、殿下に飲ませたのは、メイという召し使いでもその占い師でもなく、あなたの娘なのです」

「しかし、娘はあれが媚薬だと………」

「そんな不確かな話に踊らされて、どんな薬かもわからず殿下に飲ませたのですか……媚薬など、眉唾物だとは思いませんでしたか?」

「……………しかし……」

いくら娘を盲目的に可愛がっているとは言え、司祭の言葉にデリヒは何も反論できなかった。

確かに実際に行動したのはアネット自身であり、その事実は変わらない。自らマヤと名乗るこの者がメイという名の女だったとして、娘の罪が軽くなるわけではない。
故意だろうがそうでなかろうが、王族に手を出したこと自体が重罪なのだ。

「だが、警羅は全て娘の妄想だと思っている……召し使いのことも占い師のことも………このままでは娘は頭がおかしいからそんなことを言っているのだと……真実を言っているのに、でたらめばかりを言う娘だと………」

「ぐだぐだといつまでもうるさいやつだ。おい、さっさとしないと、途中で夜が明けてしまう」

始めに入り口に居た男が苛立ちを隠そうともせず急かす。

「わかりました。すいませんがデリヒさん。あまり時間がありませんので、我々はこれで失礼しますよ」

すっとデリヒの脇をフィリップ司祭とマヤと名乗る女がすり抜けようとする。

「ま、待って……」

慌てて司祭の衣服に触れようとするデリヒの背中に熱が走った。

「…………ぎゃっ!!」

一瞬何が起こったかわからず、熱が走った背中に手を当てると、ねっとりとした液体が手に触れた。
微かに暖かいその液体が付いた手を見ると、真っ赤な血だった。
それを見た瞬間、彼の背中に激痛が走りその場に膝を着く。

「うわああああっっっ!!」

どくどくと血が脈打ち、忽ち自分の膝の周りに血溜まりが出来上がっていく。

「ひいい!し、司祭………司祭様………」

一気に血が流れ、青ざめていくデリヒを振り返り、冷たく見下ろす司祭に手を伸ばす。

「この数年、あなたのお陰で懐は潤いましたが、それもここまでです。あなたの家族のことは、いずれ私が王位を就いた時に少なからず援助をすると約束しましょう……それまでに無事なら」

うっすらと薄れ行く意識の中で、デリヒが最後に目にしたのは、そう言って狡猾に微笑む司祭の顔だった。

自身の流した血の海にがくりと腰から前へ倒れ込み、デリヒは息絶えた。 
息耐える際に失禁と脱糞をしたらしく、血の臭いに混じって尿と便の臭いが漂う。

「マーティン……グスタフと二人で死体を裏の墓地にでも棄ててください。通いの者が昼には見つけるでしょう」

通いの者には明日の朝は早く来なくて良い。昼前でいいと伝えてあった。

「まったく人使いが荒い」

マーティンは黙って従い、グスタフが文句を言いながら、事切れた遺体の足と頭を互いに持って運んでいく。

「レベロたちを待たなくていいのですか?」

マヤが問う。

「そのうち追い付くでしょう。失敗すればティモシーの話からこちらにすぐに追っ手がかかるでしょうから、我々は少しでも早くここを去らなければ……まったくデリヒがここまで押し掛けてくるとは」

「お金の着服がばれそうだと言っていましたが、王弟はまだ薬が効いているはず……一体誰が嗅ぎ付けたのでしょう」

「わからない………主が薬を盛られている時に、それを調べた者がいるということか………王弟の事件のせいでとても警羅もそこまで余裕はないと思っていたが」

「王弟の周りにいるのは脳筋ばかりではないということでしょうか」

マーティンとグスタフが戻ってくる間にマヤは荷馬車に乗り込み、司祭は馬の方に跨がる。
すでに他の者も待機している。

「頭脳派はあの宰相だけだと思っていたが………管財人の男が今さら気づいたか?」

「今まで王弟の側にいなかった誰かでしょうか……」

マヤの呟きに、フィリップの脳裏にある人物の顔が浮かんだ。

「いや、まさかな」

「お心当たりでも?」

「…………グスタフには言うなよ。あれが執着している王弟の護衛の女が、確か読み書きができるからと、管財人が落馬した際に奴と一緒にあちこち回っていた」

「乗っていた馬を驚かせて落馬させたあの管財人の代わりにですか?」

管財人のネヴィルが領地を視察する際に落馬させ、怪我をさせたのは全て王都にいるキルヒライルを呼び寄せるためだった。

「そうだ。男のような格好をして領地内を王弟と回り、あのグスタフの面相にも怖れなかった女だ」

「彼の……?…俄に信じ難い話ですね。この私でも今は見慣れたとは言え、始めの頃は直視できませんでした」

「とにかく肝が座っているということだ。あの王弟もいつになくご執心みたいだ」

マヤは自分がデリヒ邸を去って暫く王都へ行っている間の出来事を聞いて驚いた。

「醜い男と、顔に傷のある美丈夫な王弟の両方に気に入られているなんて………」

何度か遠目で目にした王弟の姿を思いだし、そんな彼に好意を寄せられているその人物に、女として嫉妬のようなものを感じた。

「残念ですわ。私もその人をひと目見たかったわ」

「なあに、あの王弟に張り付いていれば、その内いやと言うほど会う機会はあるさ」

「ところで、あのバカ娘に渡した薬は、どれ程効力が続くのですか?」

「飲んだ量にもよるが恐らくそのまま何もしなければ一週間は夢と現をさ迷い、悪夢にうなされるだろう」

「その間に王都でことを起こすのですね」

「あちらで有力な人物を仲間に入れたとキンバリーから連絡があった」

「有力な人物?それはどなたですか?」

「キンバリーが言うにはかなり高位にいる実力者だということだ。手紙でやり取りをして万が一のことがあってはと、名前は伏せていたが、我々が王都に着けば会う機会を作ってくれるそうだ」

「楽しみですね………閣下に加えてその人物が協力してくれれば確実にフィリップ様の時代の幕開けです」

「そなたにも、そなたの父にも世話になった」

「とんでもございません。いずれ正義は果たされると信じてついてきたまでです」

ちょうどその時、デリヒの死体を裏庭に運んだマーティンたちが戻ってきた。

「すまなかったな。ご苦労」

フィリップが声をかける。

「とんでもありません。うるさいゴミを始末しただけです」
マーティンが兄からの労いの言葉に恐縮する一方、グスタフは気難しい顔をしている。

「戦場で死に際に脱糞する奴等は何人か見てきてなれているが、汚職にまみれた商人のあれは一番臭い」

鼻をしかめ文句を言いながら、もう一台の荷馬車の御者席に座り、頭から外套を被る。
マーティンもマヤと同じ荷馬車に乗り込む。

「それより、あいつの首はいつ捕れるんだ?あんな雑魚ばかり相手では張り合いがない」

「もう少し待って欲しい。一週間………王弟に飲ませた薬が抜けるまでに王都でことを済ませ、手遅れになって絶望する彼と存分にやりあうがいい」

「その言葉、本当だろうな」

「任せておけ」

フィリップに念押しし、ようやく納得したグスタフを見て、マヤは先程の会話を思い出していた。

「それでは、明るくなる前に王都の近くまで急ぎましょう」

フィリップが合図して皆が一斉に動き出す。

前を行くフィリップの後ろ姿を見ながら、彼女と同じ平民のはずの女が、あの血気盛んなグスタフと、王弟二人から思いを寄せられているということについて考える。

グスタフも今は火傷痕のせいで敬遠されがちだが、浅黒い肌に鍛えた体。良く見ればなかなかの男前だ。

自分だって、仲間内では美人だとちやほやされている。

だが、彼女は自分を安売りはしない。

フィリップ様とマーティン様……どちらかの女として実権を握る。それが彼女の密かな野望だった。
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