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46.潜伏五
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瑠璃を躾けられる者が現状では涼芽しかいない。まだ指示通りに動けない瑠璃を隠れ家に連れて戻るわけにもいかないので、華弁の下に移動して調教を続けることにした。
「瑠璃君はお利口ですね。はいグッボーイ」
先程から繰り返される、最後の掛け声は何なのだろうかと気になりつつ、煌鷽は楽しそうに笑う涼芽を眩しげに見つめる。
瑠璃は涼芽の指示を受けて、座ったり片方の前足を上げたり、じっと動きを止めたりしている。すでに充分調教されているように見える。
「凄いですね。こんなに簡単に言うことを聞かせられるなんて。私は教えられながら真似しても、一向に指示に従ってくれませんでした」
煌鷽の声に振り向いた涼芽は、顎に指をあてて小首を傾げる。訓練を中断した彼女の気を引こうと、瑠璃は前足を上げて涼芽の腕を撫でるように叩く。
顔を上げた涼芽は瑠璃の首を撫でてやりながら、どうやったのか華奢な腕でいともたやすく仰向けに倒れさせた。そのまま腹部の白い毛を撫でまわす。
「人と関わらずに生きてきた犬君の場合は、まず人に馴らすことから始めるんだ。根気よく、怖がらせないように。人と関わってきた犬君を引き取った時も、慣れるまで数日はそっとしておく必要があるのだけれども」
そう言いながら、複雑そうな表情で瑠璃を見た。
まだ捕まえて一刻も経過していない。涼芽から見ても、瑠璃の懐っこさは驚きに値するようである。
「それと私がしてるのは、調教とはちょっと違うかな。……はーい、瑠璃君、いい子だね。気持ちいい?」
話を聞きながら涼芽と瑠璃のやり取りを改めて見た煌鷽は、彼女の言葉の意味をなんとなく理解した。
涼芽に撫でられたり、一緒に行動しては褒められたりしている瑠璃。目がきらきらと輝いて、とても嬉しそうだ。
調教されているというより、遊んでいるだけに見える。
正直なところ、煌鷽も混ざって涼芽に褒めてほしいという衝動に襲われそうになる。
梯枇が一緒になって調教されていた時は彼の正気を疑ったが、今となっては理解できる気がした。
「ところで煌鷽さん、瑠璃君はこれからどうなるの?」
「調教の状況にもよりますが、隠れ家の近くで見張ってもらうことになると思います。瑠璃なら西萼に居て当然の存在なので、万が一見つかったとしても気にする者はいないと思いますから」
見張りは必要だが、煌鷽たちが隠れ家の外にいれば目立ってしまう。垠萼に出てくる人は滅多にいないが、いないわけではない。
西萼は駝犬を始めとする魔獣を捕まえるために、魔貝の生息地である北萼に次いで人の出入りがある。
見つかったのが王や禁衛とは関係のない者だったとしても、華弁に帰ってから人を見かけたことを話せば、王の耳に入る危険がある。
「そっか。番犬を目指すんだね。だったら棒を取りに行かせるよりも、かくれんぼの方が良いかな? それともだるまさんが転んだ? 私も専門家じゃないから、分からないな」
「騒ぎ立てたり人を無暗に襲ったりしなければ大丈夫ですよ。細かいところは駈須殿に頼めば良いことですから」
「うん」
頷きはしたものの、涼芽の表情は浮かない。
「どうしましたか? 何か悩んでいるのなら聞かせてください」
彼女の憂いは全て晴らしてあげたい。現状では難しいことの方が多いが、それでも一人で悩みを抱える姿は見ているだけで煌鷽の胸を締め付ける。
微かに首を振った涼芽は、
「何でもないよ」
と、笑った。
偽りであることは火を見るよりも明らかだ。煌鷽は困ったような苦しそうな複雑な表情で涼芽を見つめる。
「私では頼りになりませんか?」
意識しなくても、口を突いて出た。
涼芽は慌てて首を左右に振る。
「そんなことは無いよ。とても頼りになるし、助けてもらってる。煌鷽さんたちがいなかったら、私はこの世界で生きられなかったと思うもの」
初めは立ち上がることさえできなかったのだ。仮に普通に動くことができても、最初に見た外の世界は砂漠だった。それから密林を通り、今は草原にいる。
戦うこともできない彼女が一人で生き残れる環境ではないだろう。
更に得体のしれない相手に狙われているとなれば、涼芽は煌鷽たちに頼らざるをえない。
「それは違います」
涼芽の告白を聞いて、煌鷽は即座に否定した。
「もしも私がいなくても、涼芽は王を始めとする王族や華族に保護されたでしょう。むしろ私といるから、危険な目に遭い、不自由な生活をさせることになってしまっているのです」
黒髪と黒目は神の現身である貴重な存在。そしておそらく、涼芽は神そのもの。王や華族が涼芽を無碍に扱うはずがない。
「涼芽、もし辛いのであれば、王の下にお送りしますよ?」
分かっていたことだ。それが彼女にとっての最善。だというのに、考えないようにしていた。
「そうしたら、煌鷽さんたちはどうなるの?」
不安に揺れる瞳に煌鷽を映し、涼芽は問う。
煌鷽は手を伸ばしてそっと彼女の頬に触れる。ほんのりと温かく、柔らかな肌。自分とは異なる神の体。
ふっと、煌鷽は微笑んだ。
その問いの答えを、彼女が知る必要はないから。
「涼芽は何も気にしなくて大丈夫です」
納得していない涼芽の眉が悲しげに下がる。
そんな顔をしてほしいわけではないのにと、煌鷽も微笑んだまま眉を下げた。
「瑠璃君はお利口ですね。はいグッボーイ」
先程から繰り返される、最後の掛け声は何なのだろうかと気になりつつ、煌鷽は楽しそうに笑う涼芽を眩しげに見つめる。
瑠璃は涼芽の指示を受けて、座ったり片方の前足を上げたり、じっと動きを止めたりしている。すでに充分調教されているように見える。
「凄いですね。こんなに簡単に言うことを聞かせられるなんて。私は教えられながら真似しても、一向に指示に従ってくれませんでした」
煌鷽の声に振り向いた涼芽は、顎に指をあてて小首を傾げる。訓練を中断した彼女の気を引こうと、瑠璃は前足を上げて涼芽の腕を撫でるように叩く。
顔を上げた涼芽は瑠璃の首を撫でてやりながら、どうやったのか華奢な腕でいともたやすく仰向けに倒れさせた。そのまま腹部の白い毛を撫でまわす。
「人と関わらずに生きてきた犬君の場合は、まず人に馴らすことから始めるんだ。根気よく、怖がらせないように。人と関わってきた犬君を引き取った時も、慣れるまで数日はそっとしておく必要があるのだけれども」
そう言いながら、複雑そうな表情で瑠璃を見た。
まだ捕まえて一刻も経過していない。涼芽から見ても、瑠璃の懐っこさは驚きに値するようである。
「それと私がしてるのは、調教とはちょっと違うかな。……はーい、瑠璃君、いい子だね。気持ちいい?」
話を聞きながら涼芽と瑠璃のやり取りを改めて見た煌鷽は、彼女の言葉の意味をなんとなく理解した。
涼芽に撫でられたり、一緒に行動しては褒められたりしている瑠璃。目がきらきらと輝いて、とても嬉しそうだ。
調教されているというより、遊んでいるだけに見える。
正直なところ、煌鷽も混ざって涼芽に褒めてほしいという衝動に襲われそうになる。
梯枇が一緒になって調教されていた時は彼の正気を疑ったが、今となっては理解できる気がした。
「ところで煌鷽さん、瑠璃君はこれからどうなるの?」
「調教の状況にもよりますが、隠れ家の近くで見張ってもらうことになると思います。瑠璃なら西萼に居て当然の存在なので、万が一見つかったとしても気にする者はいないと思いますから」
見張りは必要だが、煌鷽たちが隠れ家の外にいれば目立ってしまう。垠萼に出てくる人は滅多にいないが、いないわけではない。
西萼は駝犬を始めとする魔獣を捕まえるために、魔貝の生息地である北萼に次いで人の出入りがある。
見つかったのが王や禁衛とは関係のない者だったとしても、華弁に帰ってから人を見かけたことを話せば、王の耳に入る危険がある。
「そっか。番犬を目指すんだね。だったら棒を取りに行かせるよりも、かくれんぼの方が良いかな? それともだるまさんが転んだ? 私も専門家じゃないから、分からないな」
「騒ぎ立てたり人を無暗に襲ったりしなければ大丈夫ですよ。細かいところは駈須殿に頼めば良いことですから」
「うん」
頷きはしたものの、涼芽の表情は浮かない。
「どうしましたか? 何か悩んでいるのなら聞かせてください」
彼女の憂いは全て晴らしてあげたい。現状では難しいことの方が多いが、それでも一人で悩みを抱える姿は見ているだけで煌鷽の胸を締め付ける。
微かに首を振った涼芽は、
「何でもないよ」
と、笑った。
偽りであることは火を見るよりも明らかだ。煌鷽は困ったような苦しそうな複雑な表情で涼芽を見つめる。
「私では頼りになりませんか?」
意識しなくても、口を突いて出た。
涼芽は慌てて首を左右に振る。
「そんなことは無いよ。とても頼りになるし、助けてもらってる。煌鷽さんたちがいなかったら、私はこの世界で生きられなかったと思うもの」
初めは立ち上がることさえできなかったのだ。仮に普通に動くことができても、最初に見た外の世界は砂漠だった。それから密林を通り、今は草原にいる。
戦うこともできない彼女が一人で生き残れる環境ではないだろう。
更に得体のしれない相手に狙われているとなれば、涼芽は煌鷽たちに頼らざるをえない。
「それは違います」
涼芽の告白を聞いて、煌鷽は即座に否定した。
「もしも私がいなくても、涼芽は王を始めとする王族や華族に保護されたでしょう。むしろ私といるから、危険な目に遭い、不自由な生活をさせることになってしまっているのです」
黒髪と黒目は神の現身である貴重な存在。そしておそらく、涼芽は神そのもの。王や華族が涼芽を無碍に扱うはずがない。
「涼芽、もし辛いのであれば、王の下にお送りしますよ?」
分かっていたことだ。それが彼女にとっての最善。だというのに、考えないようにしていた。
「そうしたら、煌鷽さんたちはどうなるの?」
不安に揺れる瞳に煌鷽を映し、涼芽は問う。
煌鷽は手を伸ばしてそっと彼女の頬に触れる。ほんのりと温かく、柔らかな肌。自分とは異なる神の体。
ふっと、煌鷽は微笑んだ。
その問いの答えを、彼女が知る必要はないから。
「涼芽は何も気にしなくて大丈夫です」
納得していない涼芽の眉が悲しげに下がる。
そんな顔をしてほしいわけではないのにと、煌鷽も微笑んだまま眉を下げた。
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