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37.清十郎様、栞様
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「清十郎様、栞様」
声を掛けられて二人が顔を向けると、お津代と左馬之進が立っている。お津代は栞と目が合うなり顔を逸らして逃げ帰ろうとしたが、左馬之進に両腕を支えるようにつかまれていたため体の向きを変えることさえできなかった。
そのまま押されるようにして栞の前まで歩いてくる。
「栞様、この度は家内がとんでもないことをして申し訳ありませんでした。ほら、お前も謝らんか」
頭を下げた左馬之進はお津代の腕を引っ張って頭を下げさせる。気まずそうに頭を下げたお津代だったが、顔を上げて栞と目が合うなりわっと泣き出した。
「申し訳ありませんでした。栞様が悪いわけではないと分かっているんです。だけど栞様があの男の娘だと知ったら、どうしても抑えきれなくて。あの男さえいなければ、右之助と亥之助は生きていたかもしれないと思うと、どうしても許せなくなって」
失った子を想って涙し、奪った相手への怒りに振り回される。母親の愛を覚えていない栞には、それほどの深い愛情を向けられている右之助と亥之助が羨ましいとさえ思えた。
苦しそうに顔を伏せた栞の背中に、そっと温かな手が触れる。顔を上げると清十郎が彼女を気付かう眼差しを向けていた。その慈愛に満ちた目を映して栞の心は軽くなっていく。
深く息を吸うと、ゆっくりと唇を動かした。
「なんのことでしょう?」
口元に笑みを浮かべ、柔らかな口調で問う。
お津代と左馬之進が目を丸くして凝視するが、栞は朗らかな笑みを崩さない。
「私が慣れない山菜採りで夢中になってはぐれてしまったのです。お津代さんは私の姿が見えないから、雨も降って来たし先に戻ったと思って下山したのでしょう? すみません、ご心配を掛けてしまいましたね。皆さまにもご迷惑をお掛けしてしまいました」
「栞様」
頭を下げる栞に向けてお津代の悲痛な声が上がる。
「頭を上げてください。栞様が謝ることはないのです。私が、私が悪かったのです。下手をしたらもっと酷い怪我をしていたかもしれないのに。私はあの時」
「お津代さん」
栞はお津代が全て口に出してしまう前に止めた。首を横に振り、言う必要はないのだと伝える。
声にならない嗚咽がお津代の口からこぼれ落ちる。両手で顔を覆ってそのまま崩れるようにしゃがみ込んだ。
お津代は崖から栞を突き落したことを誰にも告げなかった。もしかしたら夫である左馬之進だけには話したかもしれないが、他の者には漏れていない。だから栞もなかったことにした。
清十郎が見つけてくれたので栞に大事はなかった。今事実を明らかにしたところで誰のためにもならない。お津代が里に居づらくなり、里の人たちもぎくしゃくした空気になってしまうだけだ。
左馬之進に支えられ何度も頭を下げて謝りながら帰っていくお津代を、栞は清十郎とともに見送った。
「よかったのか?」
「何がでしょうか?」
微笑んで問い返す栞を見て、清十郎は溜め息を零す。だが悪い気分ではないと思った。
報復は報復しか呼ばない。そして憎しみは心を蝕んでいく。そんなことは清十郎も分かっている。それでも燻る気持ちを消しさることは中々できることではない。
「栞殿は強いな」
栞の清らかな優しさは、清十郎には美しく輝いて見えた。
「ここに残れば栞殿は辛い思いをするかもしれない。栞殿の父上を悪くいう者もいるだろうし、八つ当りに遭うかもしれない。それでもこの里に残るか?」
「許されるのであれば、ここに居させてください」
「この機を逃せば、二度と帝都には戻さぬぞ?」
「構いません」
栞はじっと清十郎を見つめる。ふっと、清十郎の視線が彷徨った。
「大したものではないのだが」
清十郎はぎこちない様子で懐から手拭いを取り出すと、開いて栞の前に差し出す。
包まれていたのは桃の木を削って作られた簪だ。短い箸に似た形をした簪の付け根には、桃の花を模った紐飾りが結ばれている。
「失くしたと言っていただろう?」
憶えていてくれたのかと、栞は驚いた。
おまじないを初めて正しく使用した夜に、簪を失くしたことは話した。けれど話のついでといったもので気に止めていないと思っていた。
「ありがとうございます」
彼の心配りと優しさを感じて嬉しさが込み上げてくる。
壊れ物を扱うように丁寧に、手拭いの上から簪を受け取る。よく見ると木には彫り跡が残っていて、とても職人が作ったとは思えない代物だった。
「もしや清十郎様が?」
まさかと思いつつ窺うように彼の顔を見上げると、横を向いてしまった。視界の真ん中に来た耳が赤い。
「不器用でな。気に入らぬようなら言ってくれ。平助に頼めばもう少しまともな物を作ってくれるだろう」
「いいえ、これがいいです。ありがとうございます。大切にします」
「そうか」
栞は貰った簪を両手で包み込む。
父から貰った簪を失くしてから、ずっと心に隙間風が吹いているようだった。その穴を清十郎の簪が埋めてくれた気がした。
照れて横を向いたままの清十郎が可愛らしく思えて、栞は顔を柔らかく綻ばせる。
声を掛けられて二人が顔を向けると、お津代と左馬之進が立っている。お津代は栞と目が合うなり顔を逸らして逃げ帰ろうとしたが、左馬之進に両腕を支えるようにつかまれていたため体の向きを変えることさえできなかった。
そのまま押されるようにして栞の前まで歩いてくる。
「栞様、この度は家内がとんでもないことをして申し訳ありませんでした。ほら、お前も謝らんか」
頭を下げた左馬之進はお津代の腕を引っ張って頭を下げさせる。気まずそうに頭を下げたお津代だったが、顔を上げて栞と目が合うなりわっと泣き出した。
「申し訳ありませんでした。栞様が悪いわけではないと分かっているんです。だけど栞様があの男の娘だと知ったら、どうしても抑えきれなくて。あの男さえいなければ、右之助と亥之助は生きていたかもしれないと思うと、どうしても許せなくなって」
失った子を想って涙し、奪った相手への怒りに振り回される。母親の愛を覚えていない栞には、それほどの深い愛情を向けられている右之助と亥之助が羨ましいとさえ思えた。
苦しそうに顔を伏せた栞の背中に、そっと温かな手が触れる。顔を上げると清十郎が彼女を気付かう眼差しを向けていた。その慈愛に満ちた目を映して栞の心は軽くなっていく。
深く息を吸うと、ゆっくりと唇を動かした。
「なんのことでしょう?」
口元に笑みを浮かべ、柔らかな口調で問う。
お津代と左馬之進が目を丸くして凝視するが、栞は朗らかな笑みを崩さない。
「私が慣れない山菜採りで夢中になってはぐれてしまったのです。お津代さんは私の姿が見えないから、雨も降って来たし先に戻ったと思って下山したのでしょう? すみません、ご心配を掛けてしまいましたね。皆さまにもご迷惑をお掛けしてしまいました」
「栞様」
頭を下げる栞に向けてお津代の悲痛な声が上がる。
「頭を上げてください。栞様が謝ることはないのです。私が、私が悪かったのです。下手をしたらもっと酷い怪我をしていたかもしれないのに。私はあの時」
「お津代さん」
栞はお津代が全て口に出してしまう前に止めた。首を横に振り、言う必要はないのだと伝える。
声にならない嗚咽がお津代の口からこぼれ落ちる。両手で顔を覆ってそのまま崩れるようにしゃがみ込んだ。
お津代は崖から栞を突き落したことを誰にも告げなかった。もしかしたら夫である左馬之進だけには話したかもしれないが、他の者には漏れていない。だから栞もなかったことにした。
清十郎が見つけてくれたので栞に大事はなかった。今事実を明らかにしたところで誰のためにもならない。お津代が里に居づらくなり、里の人たちもぎくしゃくした空気になってしまうだけだ。
左馬之進に支えられ何度も頭を下げて謝りながら帰っていくお津代を、栞は清十郎とともに見送った。
「よかったのか?」
「何がでしょうか?」
微笑んで問い返す栞を見て、清十郎は溜め息を零す。だが悪い気分ではないと思った。
報復は報復しか呼ばない。そして憎しみは心を蝕んでいく。そんなことは清十郎も分かっている。それでも燻る気持ちを消しさることは中々できることではない。
「栞殿は強いな」
栞の清らかな優しさは、清十郎には美しく輝いて見えた。
「ここに残れば栞殿は辛い思いをするかもしれない。栞殿の父上を悪くいう者もいるだろうし、八つ当りに遭うかもしれない。それでもこの里に残るか?」
「許されるのであれば、ここに居させてください」
「この機を逃せば、二度と帝都には戻さぬぞ?」
「構いません」
栞はじっと清十郎を見つめる。ふっと、清十郎の視線が彷徨った。
「大したものではないのだが」
清十郎はぎこちない様子で懐から手拭いを取り出すと、開いて栞の前に差し出す。
包まれていたのは桃の木を削って作られた簪だ。短い箸に似た形をした簪の付け根には、桃の花を模った紐飾りが結ばれている。
「失くしたと言っていただろう?」
憶えていてくれたのかと、栞は驚いた。
おまじないを初めて正しく使用した夜に、簪を失くしたことは話した。けれど話のついでといったもので気に止めていないと思っていた。
「ありがとうございます」
彼の心配りと優しさを感じて嬉しさが込み上げてくる。
壊れ物を扱うように丁寧に、手拭いの上から簪を受け取る。よく見ると木には彫り跡が残っていて、とても職人が作ったとは思えない代物だった。
「もしや清十郎様が?」
まさかと思いつつ窺うように彼の顔を見上げると、横を向いてしまった。視界の真ん中に来た耳が赤い。
「不器用でな。気に入らぬようなら言ってくれ。平助に頼めばもう少しまともな物を作ってくれるだろう」
「いいえ、これがいいです。ありがとうございます。大切にします」
「そうか」
栞は貰った簪を両手で包み込む。
父から貰った簪を失くしてから、ずっと心に隙間風が吹いているようだった。その穴を清十郎の簪が埋めてくれた気がした。
照れて横を向いたままの清十郎が可愛らしく思えて、栞は顔を柔らかく綻ばせる。
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