双月の恋

しろ卯

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07.人影との距離が縮まっていくにしたがって

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 人影との距離が縮まっていくにしたがって、松浦は疑問を覚える。
 暗いから服装が判別できないのは仕方ない。だがそれにしても、先を行く旅人は大きすぎないだろうか。まるで夕焼け時の伸びた影のようだ。

 訝しく思っていると、それ以上前に進むことを拒否するように馬が足を止める。向きを変えようとしているが、馬車に繋がれているので小回りはできない。細い街道では、馬車は真っ直ぐに進むしかないのだ。

「まさか?」

 松浦の顔が引き攣る。馬を宥め、息を詰めて先を行く旅人の様子を窺った。
 巨体が足を止めてゆっくりと振り返った時、彼は馬車を捨てて山に逃げ込んだ。

 

 日が暮れて暗くなったせいか、馬車の揺れが小さくなっていた。それも遂に止まった。
 栞はもう体を打ち付けなくて良いのだと胸を撫でおろしつつも、覚悟を決めていく。
 さすがに宿に入るのに、栞を縛ったままということはないだろう。松浦の隙を突いて逃げなければならない。そう意気込んだのに、松浦は中々荷台にやってこなかった。
 宿場町ならば多少の灯りや人の声もあるはずだが、窓から見える景色は暗いままで、人の声も聞こえてこない。

 違和感を覚えて言い知れぬ不安が込み上げてきたとき、馬車が動き出した。しかし前に進むのではなく、左右に揺れるように動いている。
 馬車の構造に反した動きのせいで、揺れが酷く栞は吹き飛ばされるように左右に転がった。硬い床や壁に華奢な体が敵うわけなどなく、彼女の体は痣を増やしていく。

 背中や頭に走る痛みのせいで声が漏れる。その微かな声を覆い消すように、悲鳴に似た馬のいななきが響いた。
 助けを求めるような悲痛に染まった鳴き声が、栞の恐怖心を煽る。心臓が激しく鼓動を繰り返し、張り裂けそうだ。咽から飛び出そうとする悲鳴を、栞は口を引き結んで必死に抑え込む。

 わずかな時間を置いて馬の声ががぴたりととまると同時に、馬車の揺れも収まった。瞳は自ら異常の原因を探そうと動き、耳は衣擦れの音さえ拾いもらさぬようにと集中する。
 しかし何の異変も捕えられない。いや、おかしな点はある。

 馬に異常があったならば、最も近くにいるはずの松浦が何らかの動きを見せるはずだ。けれど馬が足を止めてから、彼の声を栞が聞くことはなかった。
 考えられるのは、異変に気付いた彼がすでに逃げてどこかに身を潜めていること。もしくは、馬より先にあの世に旅立ったかだろう。

 どくり、どくりと、煩いほどに耳元で音がする。
 栞は不恰好ながらも上半身を起こそうとするが、腕を縛られているのと体中の痛みで首をもたげることしかできない。それでも床から窓へと顔の向きを変えることができた。

「ひいっ」
 
 窓を視界に入れた途端、栞の咽が引き攣るようにして、声と呼ぶには不恰好な悲鳴を上げる。
 小さな窓の外には、星が散らばる群青色の空が広がっているはずだった。しかし実際に目に映ったのは、真っ黒に塗りつぶされた四角い空間。
 暗闇は窓から馬車の中へ入ろうとしている。徐々に窓の輪郭が膨らんでいき、暗闇が広がっていく。

 動く暗闇の正体は、命ある者を襲い飲み込む影鬼だ。
 輪郭は濡れた紙に墨を落としたように朧げなのに、はっきりとした存在感を示している。目に映るだけで恐怖や悲しみ、怒りや憎しみといった負の感情が、心の奥から吸い出されるようだ。胸が焼け落ちるような痛みを伴って。
 栞は苦しくて、息も途切れ途切れとなる。

「天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え。天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え」

 一心不乱に、おまじないの言葉を紡ぎ続ける。
 とうとう影鬼が馬車の中へと乗り込んできた。近付いてくるにしたがって、冷気が空間を支配していく。まるで霜が降りた冬の朝だ。

「天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え。天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え」

 歯の根が合わず、声が震える。
 影鬼はもう、すぐそこだ。手を伸ばせば触れるだろう。暗闇が栞を覆っていく。

「天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え。天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え」

 吸い込む空気が冷たくて、吐き出す音は掠れてしまう。

「天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え」

 最後の力を振り絞って、ありったけの声で叫ぶ。
 からりと、木と木とがぶつかるような乾いた音が空気を揺らしたが、栞は気付かない。
 霞む視界の中で、細く輝く月が見えた気がした。お日様のように強くはないけれど、優しく包んでくれるような月の光が。

 月の光に触れた影鬼は怯み、動きを止める。そしてなぜか、入ってきたとき同様に小さな窓に体を押し込めるようにして、馬車から出ていった。
 危機は去ったのだと気持ちが緩んだ栞の意識は、そこで途絶えた。夢の中で、松浦の悲鳴が聞こえた気がした。
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