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05.あら? 厠かしら?
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「あら? 厠かしら?」
階段の手前で女に声を掛けられて、思わず肩が跳ねる。
彼女に助けを乞うべきかとの思いが脳裏を過ったが、声は松浦と話していた女のものだと気付いた。ならば事情を話しても、彼女が力になってくれる可能性は低いだろう。それどころか、松浦に引き渡されかねない。
どくどくと大きな音を立てる心臓を必死に宥めながら、栞は平然を装って返事をする。
「はい」
「ふうん? そんな大荷物を持って?」
薄暗い廊下。けれど背に隠した風呂敷は隠しきれなかったようだ。
女はゆっくりと近付いてくる。まるで悪鬼の類と遭遇してしまったかのように、栞の体は恐怖で強張った。
「やめたほうがいいわよ?」
白粉の香りが鼻につくほど顔を近づけてきた女は、先ほどまでの甘ったるい声とは違う、低く冷たい声で囁いた。
驚いて顔を上げると、見透かすように瞳を覗き込んできた。それから得物を前にした蛇のように、妖艶な笑みを浮かべる。
「何も知らなかったんだねえ? でもね、あんたのおっ父もおっ母も、知っているんだよ? 言えば娘が嫌がって逃げたり暴れたりするから、嘘を吐いて売り払うの。帰ってもまた売られるだけ。一度逃げだしたんだから、次はこんなに丁寧には扱ってもらえないよ? 縄で縛られるならいい方。殴られて、痛い思いをするかもね」
女はけらけらと笑いだす。
驚いた栞は反射的に女の口を塞いだ。松浦に気付かれなかっただろうかと、視線は彼の部屋へと向かう。
得物をいたぶるように楽しそうな笑みを浮かべた女は、栞の手を摘んで口から外した。
「悪いことは言わないから、大人しくしていなよ? 最悪、あんただけでなく、あんたの家族まで殺されかねないよ? だって、あんたの親は大金を受け取ったんでしょう? それなのにあんたが逃げたら、金を返さなきゃ。返せるのかねえ?」
耳元で囁かれた言葉は、まるで呪詛のようだ。栞は息を吸うことさえ上手くできないほどに、心身が冷えていく。
けらけらと笑いながら、女は松浦がいる部屋へ戻っていった。
呆然と女の背中を見つめている栞は、恐怖に足が竦んで階段を下りることができない。その場で泣き崩れそうになりそうだったが、そうなれば松浦に見つかってしまうだろう。
震える足を叱咤して、栞は部屋に戻る。
いったい自分が何をしたのだろう? 婚約を解消されるだけに留まらず、売り払われるほど養父母から嫌われていたのだろうか?
ぐるぐると回る思考に蓋をするように、布団の中で体を丸めてきつく目を閉じる。お守り代わりに常に身に付けていた父から貰った簪を握りしめた。桃の花と月が彫られた、木製の簪。
「天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え」
幼い頃に母から教えてもらったおまじないの言葉を唱える。
もう教えてくれた母の顔も声も覚えてはいない。唱えたところで、何かが変わったことなんて一度もなかった。
それでも恐怖に押しつぶされそうな栞には、他に縋るものがなかったから。
寝不足のまま朝を迎えると、炊き立ての熱い麦飯と味噌汁が用意されていた。口の中に広がる熱で強制的に目が覚めていく。
「おはようございます、お嬢様。さあ、行きましょう」
「はい」
松浦に対して湧き出てくる嫌悪感を何とかひた隠し、馬車に乗り込む。
どこかで逃げなければ。そう考えるたびに、昨夜女に言われた言葉が脳裏に過る。
栞が逃げることで、養父母たちにまで迷惑が掛かってしまうかもしれない。そんな選択はしてはいけないと、心の中から責める声が聞こえる。
けれど同時に、婚約者を奪い異人に売り払うような家族のために、ここまで犠牲にならなければならないのだろうかという疑問が顔を出す。
「どうしたらいいのかしら?」
縦浜に着いてしまえば、松浦の仲間がいるかもしれない。どこかに閉じ込められるかもしれない。そうなればもう逃げられないだろう。
早く決断をして計画を立てなければと思うのに、焦るばかりで考えはまとまらなかった。
「でも、私がいなくなっても、貰ったお金を返せばいいだけなのよね? そうすれば、あの女性が言っていたようなことは起きないわ」
葛城家の財政が圧迫していたとは思えない。夢子も蝶子も年に何枚もの新しい着物を仕立てていたし、友人を招いてのお茶会を頻繁に開いていた。
それだけの余裕があるのであれば、栞を売ったお金はそのまま残っているはずだ。違約金や手間賃が増えるかもしれないが、払えない額ではないはずだ。
栞の意志は固まった。
昼も回ったところで、馬車が停まる。厠に行くふりをして山に入った栞は、着物の裾をからげ、はしたなくも襦袢が覗く姿で山の奥へと急ぐ。
山を越えて他の町に行けるほど、栞には体力も知識もない。だからどこかに身を潜めて、松浦が諦めて去るのを待とうと考えた。
階段の手前で女に声を掛けられて、思わず肩が跳ねる。
彼女に助けを乞うべきかとの思いが脳裏を過ったが、声は松浦と話していた女のものだと気付いた。ならば事情を話しても、彼女が力になってくれる可能性は低いだろう。それどころか、松浦に引き渡されかねない。
どくどくと大きな音を立てる心臓を必死に宥めながら、栞は平然を装って返事をする。
「はい」
「ふうん? そんな大荷物を持って?」
薄暗い廊下。けれど背に隠した風呂敷は隠しきれなかったようだ。
女はゆっくりと近付いてくる。まるで悪鬼の類と遭遇してしまったかのように、栞の体は恐怖で強張った。
「やめたほうがいいわよ?」
白粉の香りが鼻につくほど顔を近づけてきた女は、先ほどまでの甘ったるい声とは違う、低く冷たい声で囁いた。
驚いて顔を上げると、見透かすように瞳を覗き込んできた。それから得物を前にした蛇のように、妖艶な笑みを浮かべる。
「何も知らなかったんだねえ? でもね、あんたのおっ父もおっ母も、知っているんだよ? 言えば娘が嫌がって逃げたり暴れたりするから、嘘を吐いて売り払うの。帰ってもまた売られるだけ。一度逃げだしたんだから、次はこんなに丁寧には扱ってもらえないよ? 縄で縛られるならいい方。殴られて、痛い思いをするかもね」
女はけらけらと笑いだす。
驚いた栞は反射的に女の口を塞いだ。松浦に気付かれなかっただろうかと、視線は彼の部屋へと向かう。
得物をいたぶるように楽しそうな笑みを浮かべた女は、栞の手を摘んで口から外した。
「悪いことは言わないから、大人しくしていなよ? 最悪、あんただけでなく、あんたの家族まで殺されかねないよ? だって、あんたの親は大金を受け取ったんでしょう? それなのにあんたが逃げたら、金を返さなきゃ。返せるのかねえ?」
耳元で囁かれた言葉は、まるで呪詛のようだ。栞は息を吸うことさえ上手くできないほどに、心身が冷えていく。
けらけらと笑いながら、女は松浦がいる部屋へ戻っていった。
呆然と女の背中を見つめている栞は、恐怖に足が竦んで階段を下りることができない。その場で泣き崩れそうになりそうだったが、そうなれば松浦に見つかってしまうだろう。
震える足を叱咤して、栞は部屋に戻る。
いったい自分が何をしたのだろう? 婚約を解消されるだけに留まらず、売り払われるほど養父母から嫌われていたのだろうか?
ぐるぐると回る思考に蓋をするように、布団の中で体を丸めてきつく目を閉じる。お守り代わりに常に身に付けていた父から貰った簪を握りしめた。桃の花と月が彫られた、木製の簪。
「天に在す月の神よ、満ちて影を祓い給え」
幼い頃に母から教えてもらったおまじないの言葉を唱える。
もう教えてくれた母の顔も声も覚えてはいない。唱えたところで、何かが変わったことなんて一度もなかった。
それでも恐怖に押しつぶされそうな栞には、他に縋るものがなかったから。
寝不足のまま朝を迎えると、炊き立ての熱い麦飯と味噌汁が用意されていた。口の中に広がる熱で強制的に目が覚めていく。
「おはようございます、お嬢様。さあ、行きましょう」
「はい」
松浦に対して湧き出てくる嫌悪感を何とかひた隠し、馬車に乗り込む。
どこかで逃げなければ。そう考えるたびに、昨夜女に言われた言葉が脳裏に過る。
栞が逃げることで、養父母たちにまで迷惑が掛かってしまうかもしれない。そんな選択はしてはいけないと、心の中から責める声が聞こえる。
けれど同時に、婚約者を奪い異人に売り払うような家族のために、ここまで犠牲にならなければならないのだろうかという疑問が顔を出す。
「どうしたらいいのかしら?」
縦浜に着いてしまえば、松浦の仲間がいるかもしれない。どこかに閉じ込められるかもしれない。そうなればもう逃げられないだろう。
早く決断をして計画を立てなければと思うのに、焦るばかりで考えはまとまらなかった。
「でも、私がいなくなっても、貰ったお金を返せばいいだけなのよね? そうすれば、あの女性が言っていたようなことは起きないわ」
葛城家の財政が圧迫していたとは思えない。夢子も蝶子も年に何枚もの新しい着物を仕立てていたし、友人を招いてのお茶会を頻繁に開いていた。
それだけの余裕があるのであれば、栞を売ったお金はそのまま残っているはずだ。違約金や手間賃が増えるかもしれないが、払えない額ではないはずだ。
栞の意志は固まった。
昼も回ったところで、馬車が停まる。厠に行くふりをして山に入った栞は、着物の裾をからげ、はしたなくも襦袢が覗く姿で山の奥へと急ぐ。
山を越えて他の町に行けるほど、栞には体力も知識もない。だからどこかに身を潜めて、松浦が諦めて去るのを待とうと考えた。
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