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ドューワ国編

105.悠然と歩いていた

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「待ってよ。ユキノちゃんじゃ魔物と戦えないよ? 第一、人間の前に、簡単に姿を現しちゃ駄目だって。なんでそんなに人間を助けようとするのさ? ユキノちゃんが人間のために自分を犠牲にする必要なんてないんだよ?」

 隣を歩くノムルは、困惑に眉をひそめる。

「分かっています。でも自分にできることがあるかもしれないなら、やりたいんです。もちろん、自分の命を投げ出したりはしませんから、心配しないでください。それと、これは私がやりたいから勝手にすることで、誰かのためになんて考えたことは……」

 ぽてぽてぽてぽてと走っていた雪乃は、幹を捻って隣を見る。
 草色のローブを着た魔法使いは、悠然と歩いていた。そう、どんなにしっかり確認しても、歩いている。
 ぽてぽてぽてぽてとはいえ、雪乃は一生懸命に走っているのだ。これでも全力疾走なのだ。
 顔を正面に戻した雪乃は、うつむいた。
 くっと唇を噛んだつもりになり、それから顔を上げる。

「うわあああーんっ! ノムルさんの、ばかあああーーーっ!」
「ええーーっ?!」

 ノムルはがく然とした。
 枝で目元を覆い、ぽてぽてぽてぽて走り続ける小さな樹人は、泣いているように見える。樹人だから涙はこぼれていないようだが、仕草と良い、言動と良い、そうとしか見えなかった。

「ゆ、ユキノちゃん……」

 思わず足が止まった。
 彼女がお人好しであることは、初めて会ったときから理解している。
 魔物を狩ることを躊躇わない人間たち。樹人など、質の良い木材程度の認識で、平気で刈り取る人間たち。
 正体が露見すれば、どんな目に合わされるか分からないことは、ちゃんと理解しているはずだ。それなのに、ヤナの町に留まり、闇死病の治療に手を尽くしていた。
 案の定、ヤナの町に逗留中に、正体がばれそうになったことは一度や二度ではない。実際、ノムルに露見してしまう結果となったのだから。
 そして飛竜討伐に失敗して負傷した冒険者達の手当てにも、尽力していた。樹人の力を使い、危険を冒して。

「……ユキノちゃん……」

 だから、これ以上は踏み込ませたくなかった。
 放っておけば彼女は自らの危険など顧みず、困っている人間を助けようとするだろう。その結果、失われてしまうかもしれないのに。
 ノムルはぎゅっと、拳を握りしめる。
 こんな風に何かに執着したことは、初めてだった。
 『あの人』のことは、特別だった。自分以外の全てがどうでも良かったノムルにとって、初めて『個』として認識した人だった。
 だけど、雪乃は『あの人』とは違う。
 彼女の言葉一つが、行動が、自分の心を波立たせ、喜びや怒りを与える。
 今まで知らなかった感情に、対処法が分からなくて苛立つこともある。けれど、それも楽しかった。だから、失いたくない。奪われたくない。
 気が付くと、苦笑がこぼれていた。

「あー、もう。どうして自分から危険に首を突っ込むのかなあ? おとなしくしててよ」

 開いた右手で目を隠し、そのまま前髪を掻きあげる。
 知らない感情に胸が痛み、頭痛がする。いや、今までにも何度か感じていた。
 耐えられなくて魔法を少しだけ暴発させたけど、抑えすぎて気分は静まらなかった。

「この森ごと、壊してやろうか?」

 唇の間からこぼれ落ちた言葉に、視界を閉じる。
 そんなことをすれば、雪乃はノムルを見限ってしまうだろう。それは嫌だった。
 深く吸い込んだ空気を肺から全て吐き出すと、毒づいた。

「自分の力量くらい、自覚しろよ」

 視覚では捕らえることのできない三人の冒険者に殺意さえ覚えつつ、ノムルはいつもの笑顔を貼り付けて、可愛い樹人の子供を追いかける。

「もー、置いていかないでよー?」

 いつもと変わらぬ、呑気な声を作った。
 小さな樹人はびくりと体を震わせ、幹を回してノムルを見上げる。その視線が徐々に下がり、なぜかノムルの足元を凝視し始めた。
 そして、ヴェールから覗く葉が、萎れる。
 ノムルの心に、波紋が広がっていく。

「ユキノちゃん?」

 いつも通りの声を出したつもりだったが、その声はひどく力を失っていた。

「ひどいです」
「え?」

 ノムルは息を飲む。
 追いかけてくるのが遅かったか? そう思うが、まだ冒険者たちとは距離がある。
 冒険者たちを見捨てようとしたことで、自分が見捨てられてしまったのか? いや、彼女は感情に流されるばかりではなく、道理も弁えている。
 では何が、彼女をここまで頑なにしているのか? 何を間違えたのか――。
 ノムルは思考を巡らせる。推論を辿り、結論を出し、一つ、一つと消していく。それなのに、答えが見つからない。
 焦りがじりじりとノムルの神経を焼いていく。

「わ、私は……」

 耳に届いた愛らしい声。
 思考を止めたノムルは、その一言一句を聞き逃さぬよう、そして感情を読み取ろうと、全神経を集中させた。

「私は、全速力で走っているんですよ?! それなのに、なんで歩いているんですか!」
「え?」

 ノムルは停止した。
 思考回路も、運動神経も、何もかも。

「くっ! 鍛えてみせます! 明日からは走り込みをすると誓いましょう」

 ぽてぽてぽてぽてと走る小さな樹人は、ぎゅっと枝を握り、決意を固める。

「ふはっ」

 ノムルの口から、笑いが噴き出た。
 それに対して、小さな樹人はまたも葉を萎れさせる。真っ赤に紅葉させると、

「わ、笑っていられるのも、今のうちだけですからね!」

 小枝をびしりと突きつけ、きつと睨むように顔を向ける。当然、威圧感など皆無だ。小さな樹人は、ただただ愛らしい。
 どうやらノムルの悩みは、全て杞憂だったようだ。
 小さな樹人が怒った理由は、ノムルが想定した全ての理由から外れていた。

「本当、ユキノちゃんと一緒にいると、飽きないよねー」
「トラブルメーカーはノムルさんですよ? 私は常識ある樹人です」
「えー?」

 笑いながら言えば、小さな樹人は頬を膨らませるように、葉を逆立てる。
 その姿を見つめていたノムルの表情が温和に柔らぎ、ひょいっと雪乃を抱き上げた。

「ユキノちゃんの足じゃ、辿り着く前に終わっちゃうよー? さ、良い子だから大人しくしててね?」
「くっ! 必ず速くなってみせます! でも、ありがとうございます」
「どーいたしまして」

 いつもの大人しい雪乃を抱きかかえて、ノムルは大地を蹴った。こんな距離、彼の身体強化を施した脚力ならば、一瞬だ。

「あ、手前で下りてください。私が勝手にすることですから、自分で何とかしてみます」
「えー? ユキノちゃんが怪我したらどうするのさー? 任せなよ」
「じゃあ、もしピンチになったら、お願いできますか?」

 腕の中で、小さな樹人は見上げていた顔をぽてんと傾げる。

「ん。分かった」

 そう答えれば、葉がキラキラと輝いた。
 ノムルは雪乃の頭を優しく撫でた。
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