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ルモン大帝国編

59.小さな樹人は山を見上げる

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「そろそろ飛竜の縄張りに入ります」
「はいよー」

 緊張したラツクの声にも、ノムルはいつもと変わらぬ気の抜けた声を返す。雪乃は飛竜に会えるかもしれないと、わくわくしながら外を覗いていた。
 冒険者達やラツクの話で危険な生物だとは分かっているが、同行しているノムルを見ていると、恐怖の感情は出てこなかった。
 仮にノムルがいなかったとしても、雪乃は樹人。肉食の竜種が好んで襲ってくる可能性は、極めて低い。
 いざとなれば木に擬態すればやり過ごせると、どこか気楽だ。
 もちろん、雇い主であるラツクの身を守らねばならない立場だということは、承知している。戦う気は無いが、彼の安全は確保しなければとも考えていた。
 ただし、彼がこちらの注意を無視して勝手に行動した場合は、助ける義務は無いと割り切っているが。
 自然界や戦いの場において、一人の常人の力は小さい。
 自ら危険に身を晒した者を助けるためには、多くの知識と経験、力を必要とする。それらを持たない者が手を差し伸べても、死体が増えるだけだ。
 人はそれを美談とするが、雪乃は助けられない命のために、自ら命を捨てるつもりはない。
 たとえ罪の意識に囚われることになろうとも。

(おとーさん……)

 雪乃はそっと、視界を閉じた。幻想の世界に、しばし心を泳がせる。



 かたかたと揺れる馬車の荷台から、小さな樹人は山を見上げる。
 あのどこかに、竜が棲んでいるのだ。
 不意に、ラツクが馬を宥める声が聞こえ、馬車が停止した。
 ノムルがひょっこりと御者台に顔を出し、荷台の後ろにいた雪乃も前に移動し、ノムルの下から顔を出す。
 馬車の前方に一台の荷馬車が止まり、道を塞いでいた。
 御者台にも屋根の無い荷台にも、人の気配は無い。どこかで休んでいるのかと辺りを見たが、どこにも人影はなかった。崖下の川に下りたのかと覗いてみるが、やはり誰もいなかった。

「ひ、飛竜に襲われたのでしょうか?」

 顔を青くしたラツクが震えているが、ノムルはわずかに眉をひそめているだけで、答えない。
 馬車に連結されたままの黒い馬は、長いロープで近くの木につながれている。突然の襲撃であれば奇妙な状況だ。
 ノムルの視線は雪乃へと向かう。

「血の跡などは見当たりませんね。それと、危険な道を無理に通るのであれば、大切な荷を運んでいるはずですが、それらしき物もありません」

 荷台に余計なものは何も無いことから、ラツクのように荷を運んでいるわけでは無いと推測できた。
 すでに荷を下ろしたか、これから荷を積むために置いているように見える。

「うん、そのとおりだねえ。たぶんこれは、冒険者が乗っていたんだろうね」

 黒い馬の首筋を軽く叩きながら、ノムルも肯定した。
 オーレンの町から馬車に乗って冒険者達がここまで来て、飛竜を討伐するために山に入った。そして討伐に成功すれば、飛竜の素材を荷台に乗せて運ぶという算段なのだろう。

「ですが、このように道の真ん中に置き去りにされては……」

 ラツクの言うとおり、通常より大きな荷台は道幅いっぱいに広がっており、このままではラツクの馬車は進めない。
 ここで足止めされては、荷物を届ける時間が遅れるばかりだ。なにより、飛竜の縄張りは早く抜けてしまいたい。
 隠そうとしても隠し切れない苛立ちが、ラツクの表情や小刻みに腿を打つ指から見て取れた。

「飛竜が討伐されるまで、誰も通らないと考えたんだろうね。だけど、これはちょっといただけないなあ」

 ノムルもまた、不穏な空気を漂わせる。
 くるりと振り向いたノムルは、にっこりと笑顔を浮かべていた。

「さて、ユキノちゃん。このばかな冒険者が犯した問題点が分かるかな?」

 正式に冒険者として認められたからなのか、ノムルは雪乃に冒険者教育を施すつもりのようだ。

「えーっと、道を塞ぐと、他の人の邪魔になります」
「それはもう出てるね。他には?」
「生きて帰ってくるか分からないのに、馬さんを繋いでいくのは酷いです!」
「……。そこを突いてきたか。ま、まあ、それもあるかもね」

 自信たっぷりに断言したのだが、正解ではなかったようだ。
 雪乃は幹をぽてんと傾げた。

「他には何か気付かないかなあ?」
「馬さんの向きが逆だなあとは思います」

 パーパスからの討伐隊は、現在出ていない。つまり、この馬車はオーレンからやってきたのだ。
 道は左手が山、右手は川と、幅が狭い。かわせるように所々の道幅が広くなっているとはいえ、この幅広の荷馬車では向きを変えることは難しいだろう。
 つまり、この荷馬車は、パーパス方面へと向かわなければならない。
 オーレンは帝都へと繋がる列車が走っているほどの町だ。それに対してパーパスは、それほど規模の大きな町ではない。

「飛竜を倒し、運ぶのならば、オーレンへ向かったほうが良いでしょう。お金に換えるのであれば、そのほうが高く売れると思います。けれどこの向きだと、一度パーパスまで運び、そこから帝都へ向かうか、もう一度オーレンへと戻ることになります」
「うん、そうだねえ。間抜けだよねえ」

 と、からからとノムルは笑う。けれどその目は笑っていない。
 竜種の討伐には、最低でもBランク以上、そのうち数人はAランクの冒険者が含まれていなければ勝ち目は無い。
 Aランクはもちろん、Bランクでさえ、よほどの場数を踏んできた冒険者達であるはずだ。その事を踏まえれば、こんな簡単なミスを犯すはずがない。
 つまり、馬車をパーパスに向けて止めているのは、不意に襲撃を受けたか、わざとと考えるのが自然だろう。
 だが争った形跡がなく、馬もきちんと繋がれているところを見るに、前者の可能性は極めて低い。
 雪乃の脳裏が黒く染まりかけ、軽い目眩がした。

「討伐が成功した場合は、空のままパーパスに向かい、すぐに引き返す。その間に残った人達が飛竜の骸を運ぶのでしょう。そしてもし討伐に失敗したなら、怒る飛竜から逃げるために、この荷馬車に乗って、パーパスの町へと逃げ込むつもりでしょうか」
「うん、たぶん正解」

 大きなノムルの手が、雪乃の頭をくしゃりと撫でる。話を聞いていたラツクの顔は、真っ青に染まっている。

「オーレンは辺境とはいえ、貴重な鉱石が取れる重要な土地だ。そこに万が一にも飛竜を向かわせるわけにはいかない。第一の目的は飛竜の討伐だろうけど、もしかすると、オーレンから引き離すことも目的かもね」
「そ、そんな! それではパーパスはどうなるのですか? それでなくとも不遇続きだというのに、飛竜にまで襲われたら壊滅してしまいます!」

 パーパスで生まれ育ち、家も構えているラツクにとって、雪乃とノムルの話は聞き流せる内容ではない。
 荷馬車をどけて、オーレンに向かうことばかり考えていたが、今はそれ以上に飛竜の行方を見届けなければとまで思い始めている。

「お願いです、ノムル様! パーパスの町をお助けください」

 ノムルの前に膝を付いたラツクは、縋るように胸の前で指を組み、魔法使いを見上げた。
 対するノムルに気負う様子は無い。

「さて、ユキノちゃんはどうしたい?」

 と、全ての判断を、同行する幼子に放り投げてしまった。
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