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ルモン大帝国編

58.珍しく認めた

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「あ、あの、申し訳ありません」

 とにかく怒りを解かねばと、ラツクは震える声で謝罪した。
 けれど目の前の男は機嫌を直すどころか、片眉を跳ね、眉間に皺を寄せた。

「何で俺に謝るのさ? 俺にも何かしたの?」
「い、いえ、滅相もありません。ノムル様に不逞を働くなど」
「じゃあなんで謝ったのさ? 相手が違うだろう?」

 小さな悲鳴を上げたラツクは、バネ仕掛けの玩具のように飛び跳ねると、四肢をばたつかせて雪乃の前に座り、頭を垂れた。

「すみませんでした。許してください!」

 全身をおこりのように震わせ、甲高い声で許しを請う。その姿は、返って申し訳なく感じるほどだった。

「いえ、私は気にしていませんから、頭をあげてください」

 雪乃はラツクに声を掛けると共に、ノムルを軽く睨む。
 いつものことながら、彼はやりすぎるのだ。
 怒る雪乃に対して、ノムルは反省する素振りも無くへらりと笑う。雪乃は深々と溜め息を吐くのだった。

「ユキノちゃんは俺が珍しく認めた、優秀な冒険者なの。あまり舐めたまねしないでよねえ」
「はひっ! 申し訳ありません」

 膝を突いたまま器用に飛び上がったラツクは、今度はノムルに向かって頭を下げた。
 ふうっと息を吐き出したノムルは、何かを引き寄せるように、後ろに向けて伸ばした人差し指をすっと曲げた。
 すると放り投げられて川に落ちたはずの水入れが、崖下からノムルの手元へと飛んできた。もちろん、中にはたっぷりの水が入っている。

「で、今夜はカレーだっけ? さっさと準備して食べようね」
「かれー?」

 ラツクは昨夜の出来事は耳に挟んでいても、カレーの名前までは聞いていなかったようだ。小首を傾げて考え込んでいる。

「ほら、さっさと準備してよ。コンメは時間が掛かるでしょう?」
「大丈夫です。干しコンメを持ってきましたので、軽く茹でればすぐに食べれます」
「んじゃあ、肉と野菜に火を通して」
「はい! ただいま」

 すっかりラツクはノムルの下働きだ。
 呆れたように息を吐いた雪乃も手伝おうと近付いたが、下拵えは済ませてあったので、特にすることもなかった。せいぜい器を用意する程度だ。
 馬車では匂いに関して苦言を呈した雪乃だが、ノムルが調理に加わったので思考の彼方へと追いやった。
 匂いを閉じ込めるくらい、ノムルには朝飯前なのだから。
 案の定、彼らの周囲には匂いを外に出さないためと、魔物が入らないよう、障壁が張られていた。 

「こ、これが噂の……。いや、何とも凄い匂いですな。そして見た目も独特な……、あー、なんと言いましょうか、何かに似てますな」

 カレーをリクエストした張本人は、ノムルがカレーの粉を入れる瞬間までは目を輝かせていたのだが、その香りが充満するころには顔をしかめた。そして鍋の中がカレー色に染まり始めると、頬をひくひくと痙攣させて、後退り始めた。

「さあ、遠慮しなくていいよ?」
「あ、ありがとうございます。いや、これは何とも珍しい珍味ですな」

 動揺しているのか、それとも強調したのか、カレーを盛った器を渡されたラツクは、引き攣った顔でそう感想を述べた。
 ラツクが渡されたカレーと睨めっこをしている間に、ノムルは二杯目を食べ始めている。
 普段はそれほど多く食べるほうではないのだが、やはりカレーマジックに掛かっているらしい。
 そう考えて眺めていた雪乃だったが、彼の真意に気付いてそっと目を逸らした。

「あれ? まだ食べてないの? じゃあ、残り貰っちゃっていいですかー?」
「ど、どうぞ」

 珍しく敬語モドキを使ったところが、ますます彼の腹黒さを印象付ける。気持ち半眼で見つめる雪乃に気付いたノムルは、ニヤリと口許に笑みを浮かべた。
 鍋が空になった頃、ようやくラツクは意を決したようだ。
 何度もすくっては戻しを繰り返していた匙を、ごくりと唾を飲み込んだ後、恐々と口に運ぶ。口腔にカレーの乗った匙が入り、口を閉じると共に目も閉じた。
 そして匙を引き抜き、顔を歪めながらあごを動かす。
 一回、二回……。
 随分ゆっくりと動いていた顎が、ついに動きを止めた。目が開き、真顔になると、何事もなかったように咀嚼を開始する。咽が動き、カレーは口から胃へと流れていった。
 狐につままれたような顔で、カレーの盛られた器を凝視するラツク。その間五秒ほど。
 後は一度も止まることなく、匙でカレーをすくっては口へと運び、咀嚼、胃へと旅立たせる。空になった口に、次のカレーを届ける。という作業を、ひたすら黙々と繰り返した。
 いつの間にやら細められた目が輝き、引き上げられた頬も艶々と輝いている。器の中のカレーはあっと言う間に減っていき、そして、空になっていた。
 至福の表情は戸惑いへと色を変え、当惑、混乱を通過し、弾かれたように鍋へと駆け寄った。しかし鍋はすでに、綺麗に片付いていた。
 絶望がラツクを襲う。

「ノムルさん、意地悪は程々にしないと駄目ですよ?」
「えー? 何のこと? わかんなーい」

 はあっと、雪乃は額を押さえながら息を吐いた。
 地面に手足を付いて項垂れるラツクの一方で、ノムルはご機嫌だ。言葉で謝られただけで、ノムルの怒りが消えることは無い。彼の怒りを買った人間は、相応の報復を覚悟しなければならないのだ。

「まあ、この程度なら、良いほうなのかな?」

 雪乃もだんだんと、ノムルに毒されているようだ。
 そして翌朝、事前の予定通り、まだ暗いうちから出立した一行だったのだが、夜が明けて朝食を、となった時に、ラツクは顎を落として絶句することになる。
 御者台でパンと干し肉を食べていたラツクの鼻に、昨夜は夢にまでうなされた、あのスパイシーな香りが漂ってきたのだ。
 驚き振り向けば、荷台に乗っている冒険者の男が、あろうことかカレーを食べているではないか。

「いやー、二日目のカレーはコクが出てまろやかになって、本当に美味しいよねえ」
「ノムルさん、性格が悪いですよ」
「いやー、こういう状況での食事って、最高だよねえ」
「理解しかねます」

 カレーは一晩寝かしたほうが美味しい。その教えを聞いたノムルは、野営で作ったカレーの一部を器に入れて、朝食用に保管していたのだ。
 昨夜、たった一杯しか食べることの出来なかった珍味、カレー。もう二度と食べれないかもしれないと思っていた幻の食べ物が、まだ残っていたなんて。
 しかも食べている男の口振りからするに、昨夜以上に味が良くなっているようだ。
 ラツクは咽を鳴らし、その器を凝視する。

「わ、私の分は?」
「え? 無いよ」
「そんな。ひ、一口だけでも!」
「ええー、やだよ」

 楽しそうな顔で、ノムルはカレーを一口食べるごとに、その美味しさを口に上らせる。

「あー、美味しいな」
「ひ、一口だけ」
「スパイシーな部分は残っているのに、まろやかで深みが出て」
「ひ、一口! 料金はお支払します!」
「この溶けたモイがまた、甘みを増して美味しいんだよねえ」
「お、お願いします!」

 散々いたぶった後、ノムルは最後の一口を満面の笑みで食べ終えた。

「あー、美味しかった」
「ぐふうっ」

 御者台に倒れこむ主の挙動不審に、馬は戸惑いながらも道を進んだ。
 ノムルは満足そうに笑みを浮かべている。どうやら彼のラツクに対する怒りも、これで消えたようだ。
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